松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年2月19日(日)
説教題「愛が問われる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第21章15〜17節

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

旧約聖書: イザヤ書43:1~7

本日、私たちに与えられた聖書箇所の後半のところには、主イエスとペトロの対話が記されています。対話の主題は、愛です。愛をめぐる対話です。復活の主イエスが弟子たちに現れてくださり、ペトロたちは漁をしている最中でありましたが、獲れた魚を放っておいてまでして、ペトロは一秒でも早く主イエスのところに泳いで行った。そして主イエスと一緒に朝の食事をした。その後の場面になります。

今日の説教の説教題を、「愛が問われる」と付けました。主イエスがペトロに愛を問い、ペトロがそれに答えている、そんな対話です。しかも同じような問答が三度も繰り返されています。しかし注意深く読んでみると、三回ともまったく同じ言葉というわけではありません。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(一五節)、これが一回目の主イエスの問いかけです。二回目と三回目には「この人たち以上に」という言葉はありません。ペトロの答えに対して主イエスが「わたしの小羊を飼いなさい」(一五節)、「わたしの羊の世話をしなさい」(一六節)、「わたしの羊を飼いなさい」(一七節)と言われています。微妙に違う言葉で主イエスが言われています。

そして最も大きな違いは、「愛」という言葉です。日本語にすれば愛は愛なのかもしれませんが、新約聖書の元の言葉のギリシア語では、愛は愛でもいろいろな種類の愛があります。私たちが今、開いている日本語の聖書では、すべて愛という同じ言葉になってしまっていますが、実は元の言葉では違う愛という言葉が使われているのです。

聖書には、アガペーという愛と、フィリアという愛が使われています。どちらも確かに愛です。三回の対話で、どのように使われているのでしょうか。主イエスがアガペーの愛で愛しているか、まずそのように問われます。そうするとペトロが、フィリアの愛で答える。二度目、主イエスがアガペーの愛で愛しているか、そのように問われる。そうするとまた、ペトロがフィリアの愛で答える。三度目、主イエスが今度はフィリアの愛で愛しているか、そのように問われる。そうするとまたまた、ペトロがフィリアの愛で答える。日本語ではまるで分かりませんが、そういう使い分けがなされているのです。

アガペーとフィリアはどう違うのでしょうか。アガペーの愛は、自己犠牲的な愛と言われています。主イエスが人間の罪を背負い、自らを十字架に献げてくださった、その愛は自己犠牲であり、アガペーの愛です。ある意味では、自分が損をしてまで愛する愛です。フィリアというのは、友を愛する愛です。友愛とも言えます。

それでは、アガペーとフィリアと、いったいどちらの愛がより大きな愛なのか、そのことを問われたら何と答えるでしょうか。私たちはすぐに、アガペーの愛が自己犠牲的な愛なのだから、友愛のフィリアよりも大きな愛であると考えます。自分にはアガペーの愛はできないかもしれない、しかしフィリアの愛ならばなんとかできるのではないかと考えてしまいます。

ところが、ヨハネによる福音書を丁寧に読んでいきますと、このアガペーとフィリアの愛の間には、ほとんど差がないということが分かってきます。根拠をいくつかあげることができますが、一番の根拠となるのは、この主イエスのお言葉です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(一五・一三)。ここでの「友」という言葉は、友愛のフィリアに関連する言葉です。「愛」はアガペーです。つまり、友を愛する愛は、自分の命を捨てるアガペーの愛だと主イエスは言われるのです。

この直後の箇所で、主イエスが弟子たちのことを「友」と呼んでくださいます。主イエスにとって、弟子たちは友であり、命を捨てて愛する友であり、アガペーの愛が注がれる友なのです。つまり主イエスにとって、アガペーもフィリアも差がなくなる。友愛という言葉を、私たちは軽く使っているところがありますが、主イエスの友愛は、その友のために命を捨てるアガペーの友愛なのです。

ペトロが今日の聖書箇所で、三回ともフィリアの愛でしか答えることができなかった。それは確かな事実です。ペトロとしても、とても自分に主イエスと同じ愛を生きる資格はない、そう思っていたのかもしれません。しかしそんな愛しか持ちえないペトロの愛を、主イエスは引き上げてくださる。あなたはより劣った愛に生きればそれでよい、主イエスはそう言われません。私が友のために命を捨てる愛に生きたように、あなたもまた、友のために命を捨てる愛に生きるのだ。主イエスはペトロをそのような愛へと招いておられます。

少し先取りをしますが、来週の聖書箇所において、ペトロがどのような死に方をするのか、ということが記されています。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」(一九節)。ペトロがやがて殉教の死を遂げる、そのことが示唆されています。ペトロもまた友のために、そして何よりも主イエスのために死ぬことになった。このときはフィリアの愛でしか答えることができなかったかもしれません。しかしペトロの愛は、主イエスから学んだ愛です。主イエスに倣った愛です。ペトロは何よりも、主イエスを愛する愛に生きたのです。

聖書を読む私たちにも問われているのが、この愛です。聖書は信仰の書と言われています。私たちが信仰を持つことができるように、その目的のために聖書が書かれています。しかし信仰と言っても、愛と切り離されているわけではありません。私たちの信仰が問われた時に、同時に愛も問われていることになります。私が神への信仰を持つときに、果たして神への愛があるか、主イエスを愛しているか。ペトロが問われたように、私たちにも問われているのです。

より具体的に考えてみたいと思います。神を信じるというのは、どういうことでしょうか。神が天地万物、すべてを造られたことを信じる。主イエスが十字架で私たちを救ってくださったことを信じる。聖霊に導かれて生きることを信じる。信じるとはそういうことを信じるわけです。しかしそれらの根源にある神の愛を思わなければなりません。なぜ神が私を造られたのか。なぜ主イエスが私を救ってくださったのか。なぜ聖霊が私を導いてくださるのか。その理由は、神が私を愛してくださるからです。これ以上の説明はできませんし、これ以上の説明はないのです。

新約聖書のコリントの信徒への手紙一の第一三章に、愛が語られています。結婚式でもよく読まれる箇所かもしれません。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」(Ⅰコリント一三・四)。この箇所の後のところを読んでいきますと、信仰、希望、愛、その中で最も大いなるものが愛であると言われています。

この箇所の前のところを読みますと、こんなことも書かれています。「愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(Ⅰコリント一三・二~三)。愛がなければ、どんなに立派な信仰を持っているかのように見えても、どんなに大きいことをしようとも、すべてが無と言うのです。

聖書の信仰というのは、愛を切り離すことができません。信仰を持つと言った時に、私たちが何を信じるか。もちろん神を信じるわけですが、神が私を、私たちを愛してくださっていることを信じるのです。自分は神に愛されていることを信じるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書に、このように書かれています。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ四三・四)。旧約聖書には、新約聖書ほど愛という言葉は出てこないのですが、ここでは愛が出てきます。神の愛です。

少し文法的な話しになりますが、旧約聖書の元の言葉のヘブライ語では、動詞は完了形と未完了形の二つしかないのです。つまり、過去か未来かということになります。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」、前半のここまでは完了形です。そして「あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」、後半の部分は未完了形です。つまり、神にとって私たちが値高く、尊く、私たちを愛しておられることは、もうすでに前提となっている。その上で、「身代わりとして人を与え…」ということがこれから続いていく。神の愛が根源にあるのです。

なぜ神が人間をこのように愛してくださるのか。神に愛されるような、優れたところがあったからか。そうではありません。むしろ逆です。もう一箇所、聖書箇所を引用したいと思います。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」(申命記七・七~八)。ここにも愛という言葉が使われています。人間に優れたところがあったからではなく、「ただ…主の愛のゆえに…」、それが理由であり、それ以上の理由はないのです。

申命記には、あなたがたがきちんと神から与えられた戒めを守るように、ということも記されています。しかし忘れてはならないのが、神がまず愛してくださったということであり、その愛してくださる神への応答として、私たちの愛が問われているということです。隣人を愛するということよりもまず、私たちを愛してくださる神への愛が問われているのです。

ペトロがまさに今日の聖書箇所で問われたのもこのことです。主イエスがペトロに問いかけた最初の言葉に今一度、注目しましょう。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(二一・一五)。「この人たち」というのは、はっきりとは言い表されていませんが、周りにいた他の弟子たちのことを指しているのだと思われます。「他のどんな人間たちよりも」と言ってもいいでしょう。そういう周りの人間たちよりも、あなたは私、主イエスを愛しているか、主イエスの問いはそういう問いです。

このことをもう少し深めて考えてみましょう。愛の人といえば、マザー・テレサのことを思い浮かべるかもしれません。マザー・テレサといえば、自己犠牲の愛に生き、隣人愛に生きた人、そう評価できると思いますが、この人は隣人愛以上に、主イエスへの愛に生きた人であると思います。

マザー・テレサが来日したときのことです。いろいろなところで講演会がなされました。それらの講演が、本にまとめられています。一九八二年、「生命の尊厳を考える特別講演会」と題した講演が、東京都内のホテルでなされました。マザー・テレサはだいたいどの講演においてもそうですが、祈りをもって始めます。そしてこのように言います。「聖書には、イエス・キリストが世にこられたのは、神は愛であり、わたしを、そしてあなたを愛しておられるという福音をもたらすためだと記されています」(『愛、マザー・テレサ、日本人へのメッセージ』、女子パウロ会編)。

まず神の愛から講演を始め、そして次にこのように言います。「では、どのようにしてこの愛をお互いに伝え合えるのでしょうか。…イエスは十字架上で亡くなりました。そして「わたしがあなた方を愛したように、愛しなさい」といわれました。ですから、そのように愛さなければなりません。愛はどこから始まるのでしょう。家庭です!」

マザー・テレサは「家庭」という言葉をいろいろなところで頻繁に用いています。例えば、有名になり、マザー・テレサのもとを訪ねてくる人たちが世界中からやってきます。そういう人たちに対して、「あなたの家庭に帰りなさい」と言うのです。もちろんこれは、家庭を持っている、持っていないにかかわらず、あなたの今、生きている場所へと帰りなさいということです。家庭に、その地域に、あなたの周りに、どれほど多く、あなたの愛を必要としている人がいることか。地球の裏側にやって来るのではなく、まずあなたが生きているところで、愛をもって生きなさい、そう言うのです。

マザー・テレサがこの講演をしたのは、一九八二年のことです。マザー・テレサは、豊かな国、日本には愛が欠乏していることを見抜いていました。家庭に愛がない、愛を必要としている愛に貧しい人がおおくいる。今の日本はどうでしょうか。未だにマザー・テレサの問いかけを真剣に聞かなければならない現実があります。

この講演の終わりのところで、マザー・テレサはこう言って、この講演を閉じています。「麗しい都、東京で、男性も女性も子どもも大人も、だれにも相手にされないとか、愛されていない、面倒をみてもらえないなどと感じないように、わたしたちが神を愛し、貧者のうちで神に仕える決意を固めたいと思います。神の祝福が皆さんの上にありますように」。神の愛で講演を始め、隣人愛のことを途中で語り、そして最後にまた神の愛で閉じている。マザー・テレサは、隣人愛の大事さを伝えたかったわけですが、その根源に神の愛があると言っているのです。

マザー・テレサは、隣人愛に生きました。しかしそれ以上に、神を愛し、主イエスを愛した人です。「この人たち以上にわたしを愛しているか」という主イエスの問いかけに、真摯に向き合った人です。私たちはどうでしょうか。自分に愛があるか。愛をもって生きているか。そのことを考えた時に、まず最初に考えてしまうのは、隣人愛のことではないかと思います。夫を愛しているか、妻を愛しているか、子どもを、親を愛しているか、周りの人を愛しているか、そういうことから考えてしまうでしょう。

しかし主イエスのペトロへの問いかけは違います。まず主イエスを愛しているか、そのことが問われている。私のことを愛し、救ってくださった主イエスの愛があり、その愛に応えて主イエスを愛し返す愛が問われています。愛の源がここにあるのです。そしてこのことこそ、マザー・テレサが伝えたかったことなのです。

主イエスから愛を問われた時に、ペトロは何と答えたか。三度とも同じ言葉です。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。

とても深い意味が込められている答え方だと思います。例えば、ある夫婦の間で、妻が夫に「私のことを愛している?」と聞いたとします。夫が「愛しているよ」と答えます。ここで妻が納得し、会話が終わればよいのですが、なかなかそうはいきません。「本当に?」「本当に愛しているよ。だって、私はあなたに優しくしているし、困ったときに助けてあげたし、プレゼントもあげた」、そのように言って、「わたしがあなたを愛していること」を、いろいろな手立てをもって示そうとします。

しかし本当に愛し合っている夫婦ならば、このような会話はしないと言えます。こういうやりとりをしなくても、「あなたがわたしを愛していることを、わたしは知っている」し、「わたしがあなたを愛していることを、あなたも知っている」からです。わたしがあなたを愛している根拠を、わたしが一生懸命示さなければならないのではなく、わたしがあなたを愛している根拠をあなたが持っていてくれるのです。

ここでのペトロの答え方は、「わたしはあなたを愛しています!」と、胸を張って答えた答え方ではありません。自分の愛の根拠を自分で示すのではなくて、ペトロは自分の愛の根拠を主イエスに置きました。アガペーの愛で問われて、自分からはとても愛していますと胸を張って言えなかった。人間側に根拠を置く愛は、長続きしませんし、本物の愛にはならないでしょう。主イエスの愛の支えなしには、ペトロは主イエスのことも、隣人のことも、愛せなかった。私の愛の根拠はあなたにあります、そういう答え方です。

三回目に主イエスに問われて、ペトロは「悲しくなった」(一七節)と記されています。この文で一番強調されている言葉は「悲しくなった」です。この箇所を単語の並び順を考慮して直訳しますと、こうなります。「悲しくなった、ペトロは、なぜなら彼が三度彼に、わたしを愛しているかと言ったから」。

なぜペトロは悲しんだのでしょうか。主イエスにしつこく尋ねられたからでしょうか。主イエスに愛を疑われたからでしょうか。おそらくそれは違うと思います。三度という回数は、ペトロが主イエスのことを「知らない」と言ってしまったのと同じ回数です。主イエスが十字架の裁判にかけられている最中、ペトロは周りの人たちから主イエスとの関係を問われ、「知らない」と三回も言ってしまった。主イエスとの関係を否定してしまった。愛に敗れてしまったペトロです。その否んだ回数分だけ、主イエスが愛を問いかけてくださる。自分の愛の敗れのことを思い起こしながらの、悲しみだったでしょう。

愛は、決して美しいだけのものではありません。ペトロのように、悲しみの中で、愛を問い、愛を問われなければならないところがあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い…」(Ⅰコリント一三・四)と言われている通りです。

「この人たち以上にわたしを愛しているか」(一五節)、主イエスはそのように私たちにも問われています。「この人たち」を愛するために、まず主イエスへの愛です。主イエスを愛するために、主イエスから愛されている自分を見いだすのです。ペトロもそうでした。三度も否んでしまった主イエスから、三度も問いかけ直され、愛されている自分を見いだした。

主イエスの愛に応えきれない私たちであるかもしれません。その悲しみをなおも悲しまなければならないようなときもあります。しかしそれでも主イエスは私たちに愛を問い返してくださいます。私があなたを愛したように、あなたも私を愛し、隣人を愛して生きよ。その愛に私たちは招かれているのです。