松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年2月5日(日)
説教題「聖書の目的」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章30〜31節

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

旧約聖書: 列王記下22:1~20

私たちの教会でヨハネによる福音書から御言葉を聴き始めて、だいぶ時が経過しました。第一章一節からの説教を始めたのは、二〇一四年八月のことになります。二年半ほどが経過したことになります。今日の聖書箇所の説教が終われば、残すところ、最後の第二一章になるだけです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書の「あとがき」のような箇所になります。この「あとがき」の後に、第二一章の話が続いていきますが、内容としては「あとがき」のようなことが書かれています。第二一章の話が終わった後、最後の最後でまた「あとがき」のような文章、今日の聖書箇所と似ているところもありますが、そのような文章があります。

「あとがき」というのは、どのようなものでしょうか。私たちが本を読むとき、どのような本であっても、たいていは「まえがき」あるいは「あとがき」のようなものが付けられています。「まえがき」はもちろん最初に読みますが、人によっては、「あとがき」も最初に読んでしまう、そういう方も多いと思います。最初に読むと、全体が分かりやすくなるからです。この本がいったい何の目的のために書かれているか、その目的がはっきりすれば、読みやすくなります。

今日の聖書箇所に書かれている「あとがき」も、このヨハネによる福音書が書かれた目的が記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(三一節)。

先週、私たちに与えられたひとつ前の聖書箇所には、トマスの話が記されていましたが、トマスの話がヨハネによる福音書の頂点である、そのように言う人があります。特に二九節の主イエスの言葉です。「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」(二九節)。見て、信じることが言われています。第二〇章には、墓が空っぽだったり、復活の主イエスとお会いする話が記されていますが、主イエスを見て信じるのか、見ないで信じるのか、そのことがテーマになっています。

トマスや弟子たちにとって、直接、復活の主イエスを見ることができたわけですからよかったのかもしれませんが、この福音書の読者にとっては、もう主イエスのことを直接は目で見て、手で触れることができない時代に入っています。私たちも同じです。そういう読者に、見ないで信じることを勧めているのです。

このように第二〇章には、最初は信じていなかったけれども、信じるようになった人たちの話が記されています。匿名のもう一人の弟子、マグダラのマリア、弟子たち、そしてトマス、次々と信じる者たちになっていきます。そして、ただ信じただけでなく、信じて、主イエスの名によって命を得る、そのことが続いていくのです。読者に対して、信じて、命を得よ、ということが語られているのです。

見ないで信じるためにはどうすればよいか。ある聖書学者が、今日の聖書箇所を解説して、このようなことを言っています。「この箇所は、ヨハネによる福音書全体が最も短い言葉でまとめられている箇所である。もしこのまとめを詳細に知りたいのであれば、もう一度この福音書を最初から読むとよいだろう。そしてこのまとめの箇所に辿り着き、また最初から読んでいく。そのようにすると、深い海の中に潜っていくことができる」。

繰り返し読むことの必要性を説いていきます。私たちキリスト者に、聖書から卒業するという時が来ることはありません。いつでもどこでも、聖書を読み、聖書に親しんでいく。聖書は尽きることのない泉です。そこからいくらでも、命の水を汲み取ることができます。

そのようにして、この聖書学者のガイダンスに従って、繰り返し読んでいく。そうすると、そこにどんなことが書かれているのか。多くの聖書学者たちが口を揃えて言うのが、ヨハネによる福音書の中には、いくつもの「しるし」があるということです。

しるしというのは、奇跡とも訳すことができます。最初のしるしは、第二章に記されています。ガリラヤのカナというところで、主イエスが結婚の祝いの席に連なった。その時に、ワインを切らしてしまった。主イエスが水をワインに変えるという奇跡をおこなわれます。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(二・一一)。

その後、いくつかのしるしの話が記されていきます。第一一章では、主イエスの友ラザロを復活させる出来事が起こります。これもしるしです。その後で、ユダヤ人たちが主イエスのなさったしるしをめぐって、話し合います。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか」(一一・四七)。このままこの男がしるしを行い続け、群衆がついて行き、革命のようなものを起こされたらたまらない。ローマ帝国軍がやって来て、私たちを滅ぼしてしまうだろうと心配するのです。

第一二章に入り、彼らは、主イエスのしるしを見たり聞いたりしますが、決して信じようとはしないことが記されています。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」(一二・三七)。

この第一二章以降、しるしという言葉がしばらく出て来なくなります。主イエスが十字架にお架かりになる前に、弟子たちに長い告別説教をされる。そして十字架、復活の出来事が起こる。主イエスの十字架、復活がしるしである、とは厳密に書かれていないかもしれません。しるしというよりも、しるしが指し示しているそのものだからです。そして今日の聖書箇所に、久しぶりにしるしという言葉が出てくるのです。主イエスが多くの「しるし」をなさってきたことを思い起こさせるのです。

繰り返し読んでいく中で、主イエスがなさったしるしをたどっていく。そしてしるしが指し示している主イエスの十字架と復活の出来事を読んでいく。そのことによって信じる者になっていく。何を信じるのか。イエスは神の子であること、イエスはメシアであること、キリストであること、救い主であることを信じる。そうすれば、命が得られると言うのです。

このことを逆から考えてみるとよいと思います。主イエスを信じて、命を得ることができる。逆に信じなければ、命を受けられないということです。受けられないということは、死んでしまう、死んだままの状態ということになります。私たちは信じなくても生きていると思っていますが、本当にそうなのでしょうか。

命という言葉は、ヨハネによる福音書の中では、大変多く使われているで、三六回も使われています。他の福音書でも使われていますが、マタイ、マルコ、ルカの三つのそれぞれの福音書で、せいぜい一桁の回数です。ヨハネはダントツに多いことになります。この福音書で語られている命は、人間が心臓を動かし、呼吸をする命のことではありません。永遠の命という言葉も出て来ます。神を信じて生きる命のことです。

具体的な箇所を考えていきましょう。第六章の最初に、五千人以上の人たちに、五つのパンと二匹の魚で満腹にさせる奇跡、しるしの話が記されています。主イエスの周りにいた人たちのお腹が空いてしまった。わずかな食料でみんなを満腹させた。パンと魚で命をつなぐことができた、よかったですね、という話ではありません。第六章では、この奇跡をめぐって論争がなされます。他の福音書だと、この奇跡が終わって、また次の話へとすぐに話が流れていきますが、ヨハネによる福音書では、ずっとこの話を引きずって論争がなされていくのです。

そしてそこに、命という言葉が多数、出て来ます。例えば、第六章三四~三五節です。「そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」」(六・三四~三五)。

この論争の途中のところを飛ばし、終わりのところに行きたいと思います。少し長いですが、第六章五二~五八節です。

「それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」」(六・五二~五八)。

ここにも、命という言葉が出て来ます。命を得るためには、パンを食べるのではなく、主イエスを食べる必要があると言います。

さらにもう一箇所だけ、第八章を考えてみたいと思います。第八章一二節で主イエスはこう言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(八・一二)。これも論争が続いていきますが、主イエスの命を持つことと対比されて、こういう表現が出て来ます。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(八・二一、二四)。

主イエスを信じて得られる命とは、どうも罪と正反対のことが言われているようです。このことをもう少し、よく考えてみたいと思います。

最近、私が読みました本に、『なぜクリスチャンになると?』という本があります。思いのほか、けっこう分厚い本です。書いたのは、ラドクリフというカトリックの神父ですが、副題が付けられています。「その意義は何か?」

著者自身が、こんな経験をしたことが、序文に記されています。「最近、「なぜクリスチャンであるのかね」と友人に尋ねられた。正直言って、私は驚いた。私は子どもの時からクリスチャンとして育ってきたおで、自分の信仰についてあまり注意を払ってこなかった。…私はこの友人の質問に対して、次のように答えた。「このことが真理だからだよ」。しかし、友人はこの返答に少しも納得しないで言った。「クリスチャンであることの意義は何なの。その目的は何なの」」(三頁)。

キリスト者ではない友人が、そのように尋ねてきた。この友人はさらにひるまず、「クリスチャンであることから得られるものは何だね。何の役に立つのかね」と尋ねてきたそうです。キリストを信じて歩むならば、具体的に何かの果実が得られるはずだ、そういうところから来ている信仰に対する素朴な問いです。

この本は、その友人に対して、いろいろな角度から答えようとしている本です。とても全部はご紹介できませんが、自由と幸福について、考察している章があります。キリスト者にとって自由とは何か、幸福とは何かということについてです。著者はこう書きます。

「真の自由と幸福に入るためには、私たちが大きく変わらなければならない、ということである。自由とは、単に複数の選択肢の中から選ぶものではない。また、幸福は、単に楽しい情感ではない。これら二つは、神の命に与かることである。そこで私たちに求められるのは、ある種の死と甦りである。これは恐ろしいことである。私たちと共におられる神に、私たちを自由にし、喜びで満たしてもらうことを願うならば、勇気が必要である。」(一二~一三頁)。

この中で言われているように、自由とは、選択肢がたくさんあることだと、思ってしまいがちなところが私たちにはあると思います。選択肢が二個あるのと、十個あるのと、十個の方がより自由を謳歌していると私たちは思います。

ところが本当にそうでしょうか。例えば、一昔前までは、盛んに「自由貿易」などと言われました。それが最もよいことだと誰もが思ったわけです。ところが、「自由貿易」の風潮になっても、ちっとも自由になっているような感じはしない。最近では正反対の「保護貿易」ということが言われ、実際にそれがなされるようになってきました。

たくさんの選択肢があったとしても、その選択肢の中から、自由に選択し、自由を謳歌する人は少ないと思います。この本では、主イエスを裏切ったユダのことを考察していきます。ユダは自由な意志から、主イエスについていきました。どうやらユダは、政治的なことに関心があったようです。主イエスに政治的なリーダーとして期待をした。しかし失望してしまった。そういったところで主イエスを裏切るのです。

聖書には、最初はたくさんあったユダの選択肢が、どんどんと狭まっていったことが記されています。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(一三・二)。ユダは自分の自由な意志からではない。そうせざるを得ない選択肢しか残されていなかった。さらにこうあります。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。」(一三・二七)。最後は主イエスに促されて、そうせざるを得なかった。ユダは、最も自由のない、不自由な男へと追い込まれていったのです。

別の福音書を読むと、ユダは主イエスを裏切ってしまったことを後悔し、最後は首をつって自殺してしまいます。ユダは自分のしていることが、最後はよく分からなくなってしまったと思います。聖書には、人間のそのような様子のことが、見事に描き出されています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」(ローマ七・一六)。

このように考えていくと、「罪のうちに死ぬことになる」という主イエスの言葉がよく分かってくるのではないかと思います。選択肢が多いから自由なのではない。仮に少なかったとしても、幸いな道を選びとれるか、自分が本当に自由に歩める道を選びとれるのか、そのことが問われています。

主イエスも、ご自分の自由な意志で、十字架への道を選びとりました。ユダに裏切られ、逮捕され、裁判にかけられ、十字架に架けられ、主イエスの選択肢がどんどんと狭まっていったように見えるかもしれません。しかしこの本は、そんな主イエスのことをこのように評価します。「イエスの最も深い自由は、ひとえに主の意志だけを行うことができたことに尽きる」(九〇頁)。

この本の副題が「その意義は何か?」であったことを思い起こしましょう。私たちの人生の意義や目的は、自分自身の中にはありません。自分の中にもしあったとすれば、それは自己実現ということですが、罪のうちに死ぬしか選択肢はなくなります。そうではなくて、私たちは解き放たれなければならない。

今日の聖書箇所の三一節の後半にはこうあります。「信じてイエスの名により命を受けるためである。」(三一節)。「名により」という言葉が使われています。英語で言えばinと同じ言葉が使われています。つまり、「名のうちに」ということです。「罪のうちに」の「うちに」と同じ言葉です。私たちが「罪のうちに」死ぬのか、それとも「主イエスの名のうちに」命を得るのか、その二者択一です。主イエスが私たちの罪を背負い、十字架で死なれ、復活してくださった。その罪の赦しを信じないか、それとも信じるか、その二者択一なのです。

今日の聖書箇所の三〇節で、書ききれないこともたくさんあると記されています。第二一章の終わりのところでも、似たようなことが記されています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(二一・二五)。

ヨハネによる福音書の著者だけではありません。私も説教者として、語りきれないことがたくさんあります。牧師として、満足にやりきれないことがたくさんあります。皆さまも同じです。誰もがそうです。満足にやることができない。やり残したこと、後ろに残してきたことがたくさんあります。

しかし、目的が大事です。全部をやりきれなかったとしても、目的が達成できたのか。主イエスを信じる、そして命を得る、その目的が達成できれば、自己実現をできなかったとしても、キリスト者として幸いな道を歩むことができます。

ある聖書学者がガイドをしてくれているように、私たちは繰り返し、聖書を読みます。繰り返し、御言葉を聴きます。その繰り返しの中で、海の深みへとどんどん潜ることができます。罪のうちに死んでそれっきりではありません。私たちの古い自分がますます死ななければなりません。そのようにどんどんと深みに潜り、死んでいく。そしてますます罪赦された自分として、新たにされていく。それが主イエスを信じて歩む者の道であり、聖書はそこへと私たちを導いてくれるのです。