松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年1月29日(日)
説教題「見ないのに信じる人は幸い」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章24〜29節

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

旧約聖書: 創世記15:1~6

主イエスの十二人の弟子に、トマスという人がいます。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書に、特に表だって出て来ている箇所があります。本日、私たちに与えられた聖書箇所もそうです。今日の聖書箇所を含めて、全部で三箇所あります。そういうトマスが出てくる箇所から、トマスがどのような人だったのかということが分かってきます。

今日の聖書箇所では、トマスが主イエスの復活をなかなか信じることができない、そんな姿が描かれています。「不信のトマス」「疑い深いトマス」などというレッテルが貼られることがあります。日本だけでなく、世界各国でそうであるようです。

こういうレッテル貼りは、確かに便利な時もありますが、落とし穴もあると思います。人にレッテルを貼れば、その人のことが分かったような気分になります。そのようにレッテルを貼って、引き出しの中にしまいこんでしまう。そしてもうそれ以上のことは考えなくなってしまいます。けれども、そのレッテル以外にも、その人の見えなかった姿というのもあるはずです。

別の聖書箇所から考えてみましょう。トマスのことが最初に表だって出てくるのは、第一一章のところです。主イエスが友ラザロのところへ行くことになった。主イエスが行こうとされていた場所は、危険が伴う場所でした。弟子たちはそれを止めようとする。けれども主イエスの意志は固い。そんな中、トマスのことがこう記されています。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。」(一一・一六)。言葉だけで考えると、なかなか勇ましい言葉です。勇ましいところもあり、思ったことはすぐに口に出すような、そのような人だったようです。

もう一箇所、トマスが出てくるのは、第一四章のところです。主イエスが弟子たちに対して、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(一四・四)。どうもこのとき弟子たちは皆、本当は主イエスがどこへ行かれるのか、分からなかったようです。でも主イエスに質問することができなかった。お互いに顔を見合わせているような中で、分からないことは分からないとはっきり言うタイプのトマスが、即座に尋ねてくれるのです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(一四・五)。

そうすると主イエスから、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)。この主イエスの言葉は、世界中で愛唱されている聖句です。どれだけ多くの人たちを生かしてきたことか。もしトマスが質問をしてくれなかったら、主イエスの口から出てこなかったかもしれません。トマスのおかげで聴くことができた、そういう言葉です。

こういうようなトマスの姿から、ある説教者はトマスのことを「正直者」と言っています。「不信の」「疑い深い」などというレッテルがあるかもしれませんが、根は正直であり、だからこそ、分からないものは分からない、信じることができないものは信じられない、そのようにはっきりと言ったのです。

それにしても、なぜトマスは、今日の聖書箇所で、このようにかたくなに信じないと言い張ったのでしょうか。いろいろな理由が考えられるかもしれませんが、このときのトマスとしては、今まで頼りにしてきたものが次々と崩れ去っていく、そのような状況に置かれていました。

主イエスに期待し、ついて行ったところがあったでしょう。しかし頼りの主イエスが取り去られてしまった。「一緒に死のうではないか」と勇ましく言ったにもかかわらず、そのようにできなかった。自分に対する自信も喪失していました。仲間と共に歩んできたのに、その仲間のユダが裏切り、仲間の心も意気消沈してしまった。そのようにして、今まで頼れると思っていたものが何もなくなってしまった。そして心がかたくなになってしまったのです。

私たち人間は、何かに頼ろうとするとき、その裏には必ず恐れがあると言ってもよいと思います。怖いから頼りになるものを掴む。あるいはこれから先のことが不安だから、何かに頼ろうとする。そういう思いが潜んでいます。いろいろなものを私たちは掴みます。お金であったり、物であったり、頼りになりそうな人であったり、いろいろなものを掴みます。

トマスもいろいろと掴んでいましたが、それらがすべて崩れるような思いをさせられた。何もなくなってしまった。そういう時、人間はどうするか。何も信じられない、何も信じるものか、そのような状態になる。トマスもそうだったのです。

このように誰もが恐れを抱えています。誰もが何かを掴んでいます。放そうとしません。しかしそのところで、よく考えなければならないのは、恐れと信仰が両立するのか、ということです。恐れている人に、信じろと言っても駄目です。信じることは信頼することです。恐れとは正反対です。恐れと信仰は相反する、対極にあるものなのです。

ある人が、信仰を持つことはこういうことだと言っています。信仰を持つとは、がけから転落しそうになっている人がいて、その人ががけに生えている木の枝にかろうじてぶら下がっている。その手すらも手放すことだ、と。これはあくまでも譬えです。しかし神を信頼していないと、決して手を放すことができないのは明らかです。トマスは、絶対に信じないと言い張りました。その心の内に、恐れがあったのです。

それでもトマスは、仲間のところに帰ってきました。どういうわけか、一週間前の日曜日にはいなかったわけですが、一週間後の日曜日には帰ってくることができた。信じる者たちの中に帰ってきたのです。

私が牧師として受ける質問の中に、こういう質問があります。どうしたら信じられるようになりますか、という問いです。あるいは、すでに信仰を持っている方から、どうしたら信じ続けることができますか、という問いです。この問いは、答えるのが難しい問いでもあり、非常にシンプルな答えしかないという問いでもあります。

聖書には、こうしたら信じることができるようになる、そういうマニュアルのようなことは書かれていません。書かれて、それを実践すれば信じることができるようになるなら、どんなに楽な事でしょうか。しかしそんなことは書かれていない。代わりに書かれていることがあります。最初は信じない者であったかもしれないけれども、信じる者になった。そういう話が事実として書かれているのです。

そういう記事を読んでいきますと、人間の力によって信じるようになったとは書かれていない。その人が努力したからとか、大変優れた導き手がいたからとか、そういうことではない。それよりもむしろ、神の力が働き、神の導きがあったからこそ、その人は信じることができるようになった。そういうことが聖書には書かれているのです。

今日の聖書箇所でも、確かにトマスは仲間のところへ帰って行きました。主イエスの復活を信じている仲間たちのところです。その仲間たちが、トマスのことを導こうとしました。今日の聖書箇所にも、鍵の話が記されています。扉が全部固く閉ざされていました。一週間前の状況と同じです。なぜ鍵が閉じられていたのか。弟子たちが恐れていたからか。しかし今日の聖書箇所では、「ユダヤ人を恐れて」(一九節)とは書かれていません。

ある人はこう推測します。仲間の弟子たちが、トマスを信じさせようとする。私たちは復活の主イエスとお会いしたのだから、あなたも信じて欲しいと説き伏せようとします。ところがトマスはなかなか信じない。それでは、先週と同じ状況を作り出そうではないかという提案が、ある弟子からなされる。先週主イエスが鍵のかかった扉を越えて来てくださったのだから、今週も扉を越えてトマスのところに来てくれるはずだ。そう弟子たちは考えて、一週間前と同じ状況を作り出したのではないか、とある人は言うのです。

実際にどうだったのかはよく分かりません。しかし仲間の弟子たちは、必死にトマスを説得しようとしたでしょう。しかしトマスはなかなか信じなかった。仲間たちが最後までトマスを導いたのではない。そうではなくて、主イエスが現れてくださった。最後の一押しを、いや一押しだけではなく、一押しも二押しも、してくださった。そうしてようやくトマスは信じることができるようになりました。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記第一五章です。名前がまだアブラムの頃でしたが、アブラハムに神が約束してくださいます。高齢になっているアブラハムとサラに子が与えられるという約束です。アブラハムは、そしてサラもそうでしたが、なかなか信じることができませんでした。高齢になっている自分たちに、そんなことあるはずがないと思ったからです。

しかし人間の力で信じることができなくても、なお神が導いてくださいます。アブラハムを外に連れ出し、言われるのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」、「あなたの子孫はこのようになる」(創世記一五・五)。アブラハムは、神がこの星空も含めて、世界全てを造ってくださったのなら、高齢の自分たちに子どもを与えることができる、そう思ったのかもしれません。アブラハムはこのようにして、神の導きによって信じる者になったのです。

このように最終的に信仰に導くのは、いつも神です。それが聖書が伝えていることです。信仰者へと導かれた、そのようなことを歌っているたくさんの讃美歌がありますが、「アメージング・グレース」という讃美歌があります。讃美歌第二編一六七番です。日本語の歌詞の二番では、こう歌います。「恐れを信仰に、変えたまいし、わが主のみめぐみ、げにとうとし」。

この讃美歌の歌詞を作ったのは、ジョン・ニュートンという人です。奴隷船の船長をしていた人です。ある時、航海の最中、嵐に遭う。死ぬ思いをする。けれどもかろうじて助かるという経験をします。やがてこの人は悔い改めて、この讃美歌を作るわけですが、「恐れを信仰に、変えたまいし」と歌います。恐れていた。何に恐れていたのでしょうか。嵐に遭ったこと、嵐で死んでしまうこと、あるいは奴隷船の船長として、自分が後ろめたいことをしていること、いろいろな恐れがあったかもしれません。そのようにして生きている中、恐れが信仰に変えられた。何によって変わったのか。「わが主のみめぐみ」と歌います。主の恵みによって変えられた。人間の力によってではありません。

信じるためにはどうしたらよいか、先ほどの問いの答えはもう明らかです。一つには、トマスのように、信じる者たちの間に身を置く。そのことは言えるでしょう。しかしそれだけでは駄目です。神の働きがあることを信じる。神の導きを信じる。トマスにとっても、周りの者にとっても、そのことが問われています。トマスもそうでした。周りの者たちが働きかけ、最終的には神が働いてくださった。そのようにして、信じる者になったのです。

主イエスが最後の一押しをしてくださるために、この日曜日も同じようにして、トマスに出会ってくださいました。そして主イエスはトマスにこう言われます。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(二七節)。これに対し、トマスは答えます。「わたしの主、わたしの神よ」(二八節)。

トマスはどのような思いで、この言葉を言ったのでしょうか。主イエスが本当に現れて、驚いたのでしょうか。喜んだのでしょうか。自分に現れてくださったことに、感謝したでしょうか。いずれにしても、恐れはもうありませんでした。そしてとっさに出て来た言葉が、この言葉だったのです。「わたしの主、わたしの神よ」。この言葉は、教会の信仰告白の言葉になっていきました。主イエスがわたしの主であり、わたしの神である。何にも頼れない、もう何も信じられない、そういう状況の中で、本当に頼るべきものは、このお方だけ、そのことを言い表している信仰告白の言葉です。

讃美歌の話をもう一つしたいと思いますが、この説教の後、讃美歌五二五番を歌います。このように歌い出します。「めぐみふかき、主のほか、たれかわれを、なぐさめん。わが主、わが神、恵みたまえ、ただ頼りゆく、わが身を」。一番から四番まで歌詞があります。それぞれの歌詞の終わりのところで、「わが主、わが神、恵みたまえ、ただ頼りゆく、わが身を」と歌う、そのような讃美歌です。

この讃美歌の歌詞を作ったのは、アニー・ホークスという人です。アメリカ人の女性の信徒の人です。文才に恵まれ、多くの詩を書きました。しばしば新聞に掲載されたことがあったようです。牧師からある時に讃美歌の歌詞の依頼を受け、この讃美歌を作りました。

この讃美歌を作ったとき、アニーは夫と子供の三人で暮らしていたようです。この讃美歌を作った時のことを、後から振り返ってこう語っています。「その頃は、37歳の未熟な主婦であり、そして子供たちの母親でした。1872年6月のある晴れた日の朝のこと、わたしは突然、主が近くにいますのを身に感じました。喜びにつけ、悲しみにつけ、主がいまさねば誰一人として生きられないことを、その時はじめて実感したのです。この讃美歌の歌詞が次々と頭に浮かんで心に拡がっていきました」(『讃美歌物語3』、一一八頁)。

このようにしてこの讃美歌が生まれ、アメリカ中で愛され、広く歌われるようになりました。そしてこの讃美歌が生まれてから一六年後、アニーが五三歳くらいの時ですが、最愛の夫を亡くす経験をします。その悲しみをどう乗り越えたか。自分がかつて作ったこの讃美歌によって乗り越えたようです。アニーはこう書いています。

「なぜ、この讃美歌が〔他の〕人間の打ち震える心に訴えるのか、最初は分かりませんでした。ずっと後になって、大切な人を失うという人生の暗雲がわたしの進路を遮ったときになってはじめて、わたしは知ったのです。静かな喜びと平安の中で人々のために書いた慰めの言葉が、大きな力を持つことを」(同、一一八頁)。

自分で讃美歌を作っておきながら、若い頃はまだその魅力が分かっていなかったと言うのです。なぜ人々が愛唱して歌うのか、分からなかった。しかし自分の夫を失って初めて、この讃美歌の歌詞が自分に響いてきたと言うのです。

まさにそういう中で、主イエスの「あなたがたに平和があるように」(二六節)という言葉が分かってくるのだと思います。恐れているあなたがたに、平和が、平安があるように、主イエスはそのように言ってくださいます。この讃美歌を作詞したアニーも、頼りにしてきた夫を失い、そのところで初めて分かりました。トマスも、頼りにしてきたすべてのものを失い、主イエスが来てくださったところで初めて、主イエスを信じる者に、信頼する者になりました。

私たちにも問われています。何にしがみつくか、ということです。しがみついたとしても、また揺らいでしまうような何かにしがみ続けるのか。それとも、絶対に揺らぐことがない、復活された主イエスにしがみつくのか。アニーは「めぐみふかき、主のほか、たれかわれを、なぐさめん」という歌詞を書きました。夫を失った時、その歌詞に慰められました。崖から転落しそうになっている時、一本の枝を手放し、その代わりに主イエスにしがみつく。それが「わが主、わが神」という言葉です。

今日の聖書箇所で、主イエスはトマスだけを目ざして、来てくださいました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(二七節)と言ってくださいました。世界中で、今日も主イエスが訪れてくださり、言っておられる言葉です。