松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年1月22日(日)
説教題「あなたがたに平和があるように」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章19〜23節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

旧約聖書: 民数記6:22~27

主イエス・キリストがお甦りになられました。復活の日曜日の出来事です。弟子たちはこの時まで、様々な感情を抱いていました。主イエスが十字架に架けられてしまった、その悲しみもあったのでしょう。主イエスを見捨てて逃げてしまった、自分自身を責めるような、そのような思いもあったでしょう。主イエスと同じ目に自分も遭ってしまうかもしれない、その恐れもあったでしょう。これから先、どうしてよいのか分からない、その不安もあったでしょう。

そういう中で、復活の朝を迎える。マグダラのマリアが、墓が空っぽだったということを弟子たちに伝える。ペトロともう一人の匿名の弟子がそれを見に行く。マグダラのマリアはさらに復活の主イエスとお会いします。弟子たちもそのことをマリアから聞かされます。信じられないような思いを抱いていたかもしれませんし、不思議な思いを抱いていたかもしれません。そして今日の聖書箇所で、弟子たちも復活の主イエスにお会いする。そのことを喜ぶ。

このように、主イエスの十字架から復活にかけて、弟子たちは様々な感情を抱いていきました。めまぐるしくその心が変わっていった。もちろん、このときは悲しみだけ、このときは喜びだけ。そのようにきっちりと分けることなどできません。それは私たち自身の心の動きを考えてみればよく分かると思います。今は悲しみばかり、今は喜びばかり、なかなかそうもいきません。私たち人間の心をいろいろなことを感じ、揺れ動いています。複雑です。このときの弟子たちもそうだったのです。

今日の聖書箇所に記されている、弟子たちの感情を、少し丁寧に追っていきたいと思います。「ユダヤ人を恐れて」(一九節)とあります。ヨハネによる福音書で何度か見られる表現です。後のキリスト教会がユダヤ人たちと対立していたことを、ここに読み取ることができます。イエス・キリストを信じた者は村八分にされる、場合によっては命を奪われる、そういう恐れがここに記されているのです。弟子たちも同じ思いだったでしょう。

そういう恐れに駆られていた弟子たちでしたが、続く二〇節のところにこうあります。「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(二〇節)。復活の主イエスと出会って、喜んだということは、他の福音書にも記されています。ルカによる福音書にはこうあります。少し長いかもしれませんが、その箇所をお読みします。

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」(ルカ二四・三六~四三)。

「喜びのあまりまだ信じられず」と書かれています。複雑な弟子たちの心を表していますが、まだ単純な心からの喜びには程遠かったことがよく分かります。

もう一箇所、マタイによる福音書からです。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(マタイ二八・八)。ここには恐れと喜びの感情が入り混じっていたことが記されています。これも私たちにはよく分かると思います。人間は複雑な感情を持っている。このときの弟子たちもそうでした。

たった今、ルカによる福音書の復活の箇所をお読みしました。弟子たちが復活の主イエスのことを亡霊かと思ったと記されています。しかしそうではなく、きちんと食事をされたことが記されています。聖書は、主イエスが亡霊ではない、きちんと体を持って復活されたことを強調しています。死んだ人が突然、亡霊のように現れることほど、恐ろしいことはないかもしれません。

けれども、弟子たちは最初こそは恐れたかもしれませんが、やがて喜んだのです。ヨハネによる福音書では、少なくとも二〇節のところでは喜んだ。はっきりそう書かれています。なぜ喜ぶことができたのでしょうか。

一つには、聖書にはよく表されていないかもしれませんが、主イエスの表情とか、しぐさとかに、優しさやぬくもり、愛が込められていたのかもしれません。もしも主イエスが亡霊として現れ、「よくも私のことを見捨てて逃げたな」とでも言われたら、喜ぶどころの話ではありません。けれども主イエスはそれとはまるで反対だった。弟子たちのことを愛し、赦し、受け入れる、そういう表情とかしぐさがあったのでしょう。

もう一つ、弟子たちが喜ぶことができた理由は、主イエスのお言葉です。「あなたがたに平和があるように」(一九節)。日本の亡霊のように、「うらめしや」と言って出てくるのではない。弟子たちを咎めるような言葉を言われるのでもない。祝福の言葉です。だから弟子たちは恐れから喜びを抱くことができた。

弟子たちはこのとき、自分自身の罪がよく分かっていたと思います。痛感していたと思います。主イエスを見捨てて逃げてしまった。自分がどうしようもない存在であることがよく分かっていた。その罪をずっと引きずって生きていかなければならないか。そうではありません。主イエスのこの言葉によって、愛と赦しを知ったのです。「平和があるように」とは、そのような響きを持っている言葉です。

「あなたがたに平和があるように」。新約聖書の元の言葉はギリシア語で書かれています。しかし主イエスご自身は、ギリシア語で話されたわけではありません。主イエスの言葉では、おそらくこの言葉は「シャローム」であったと言われています。ヘブライ語で、お互いに挨拶として交わし合っている言葉でもあります。

かつての口語訳聖書では、「あなたがたに平和があるように」ではなく、「安かれ」となっていました。平安あれということです。以前の聖書から、今私たちが用いている新共同訳聖書になり、いろいろな変化がありました。その変化の中で、平安という言葉が平和になった。そういう大きな変化がありました。平安と平和、それぞれどういうイメージがあるでしょうか。平和よりも平安の方が自分は好きだ、そういう意見もあるかもしれません。

そういう平安・平和論争の際に、私がよく思うのは、平安と平和、そのどちらの意味も、このシャロームの中には含まれているということです。平安と聞くと、私たちは心の平安のようなことを考えます。ともするとそれは、私一人の心が安らかであることを思ってしまうかもしれません。

しかしこのシャロームという言葉は、決して一人だけの問題ではないのです。相手がいます。わたしとあなた。あなたと神さま。その間の関係が平和である。シャロームとはそういう意味です。相手と争っていたら平和ではない、それゆえ私の心も平安でない。逆に、相手との間が平和であれば、私の心も平安。そういうことになります。

主イエスがこのとき弟子たちに挨拶してくださったシャロームという言葉も、まさにそういうことです。弟子たちは見捨てて逃げてしまい、恐れに駆られていました。平和でも平安でもなかった。しかし主イエスからシャロームの挨拶をしてくださった。それゆえに弟子たちは再び主イエスとの平和な関係を結び直すことができ、心も平安になったのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、民数記の第六章の終わりの箇所です。ここにアロンの祝福と呼ばれることが記されています。イスラエルの民への祝福が語られていますが、興味深いのは、神の御顔がいったいどこを向いているかということです。神が民に顔をそむけているのではない。そっぽを向かれているのでもない。もしそうなってしまうと、平和や平安どころではなくなってしまいます。

私も牧師として、祝福という言葉をよく使います。口に出して使うこともありますし、手紙に書いたり、メールに書いたりします。祝福とはいったい何を意味しているのか。改めて考えてみると、神の顔がどこを向いているかということにかかわってきます。神が御顔をあなたに向けてくださる、あなたをそのように見ていてくださる、それが祝福ということなのです。

主イエスも同じであります。二二節のところにこうあります。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」」(二二節)。息を吹きかけるということは、主イエスの顔が正面にないとできないことです。このようにして主イエスの息によって、聖霊によって、弟子たちは新たに造りかえられていきました。

この二二節に関連する旧約聖書の箇所が二つあると言われています。一つは、創世記の最初の方の箇所です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記二・七)。人間の最初の創造の時の話です。人間は土の塵で形が造られた。つまり肉体が造られました。しかしそれだけでは生きる者にはならなかった。神の息が、吹き入れられて、初めて生きる者となった。ここでの息という言葉は、霊、風と同じ言葉です。人間はそのようにして造られたのです。

もう一箇所は、エゼキエル書です。少し長い箇所ですが、お読みします。「そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル三七・四~一〇)。

ここでも創世記と同じようなことが語られているかもしれません。骨があった。その骨に、肉が付けられ、筋が付けられ、皮膚で覆われていく。けれどもそれだけでは生きる者にはならなかった。霊が吹き込まれ、見事にその骨が甦るのです。この骨は、続く一一節を読むと、「イスラエルの全家である」(三七・一一)と言われています。イスラエルが滅ぼされてしまったけれども、神の霊によって、息によって、風によって、甦るということが預言されているのです。

主イエスが弟子たちになさったことも同じです。恐れに駆られていた、不安に駆られていた、そんな弟子たちでした。主イエスがお甦りになられたということを聞く。マグダラのマリアがお会いしたという知らせを受ける。けれども、弟子たちは何をしていいか、よく分からないのです。弟子たちは「戸に鍵をかけていた」(一九節)と記されています。面白いことに、「戸」という言葉は複数形です。いくつもの出入り口があったのか分かりませんが、すべての扉を閉ざしていた。弟子たちはそういう状況でした。とても自分たちから主イエスをお迎えできる状況ではなかったことだけは、明らかです。

しかし主イエスの方から来てくださった。来てくださり、祝福された。息を、霊を吹き入れてくださった。そして弟子たちをまったく新しい者へ、造り変えてくださったのです。

主イエスは弟子たちに新たな使命を与えられます。まずは二一節のところです。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(二一節)。再び平和の挨拶をしてくださいます。父なる神が主イエスを遣わされた。それと同じように、今度は主イエスが弟子たちを遣わすと言われているのです。

もう一つは、二三節のところです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(二三節)。罪の赦しに関することが言われています。純粋に読むと、非常に重い務めがここに語られているように思われます。弟子たちが赦せば、その罪が赦される。けれども弟子たちが赦さなければ、その罪が赦されない。弟子たちの赦しにかかっているのです。

しかしこの赦しの権能は、弟子たち個人に与えられたというわけではありません。むしろ教会に与えられているものです。そうなると、私たちにもこの重い務めが与えられているとも言えます。私たちが赦せば、その罪が赦されるし、私たちが赦さなければ、その罪は赦されないということになるからです。

教会にはいろいろな務めが託されています。その一つが洗礼を授けるということです。洗礼を受けると、罪が赦されたということがはっきりします。洗礼の水は、罪が洗い流されたことを表し、新しく生まれ変わることが表されています。教会は人々に洗礼を授ける。そのことによって罪の赦しを与える。その権能があるのです。

しかしこの権能を、自分たちの思い通りに扱うことなどできません。むしろ、主イエスが弟子たちを赦してくださったように、教会も多くの人々を洗礼へと導く。そのことによって、罪の赦しを与えることができるのです。地上の教会でなされた出来事が、天においてもそっくりそのまま有効になる。地上の教会で洗礼を受け、救われた者の救いは、天国においても有効です。

弟子たちはこの務めに生きる者にされました。それまでは恐れがありました。家の中に閉じこもらなければならないほどの恐れです。しかし恐れが喜びに変えられた。不安が希望に変えられた。閉じこもっていた者たちが、解き放たれたのです。

今日は週の最初の日、日曜日です。イエス・キリストがお甦りになられた。その記念の礼拝を行っています。弟子たちの真ん中に主イエスが現れてくださったように、私たちの真ん中にも主イエスが現れてくださいます。私たちに平和の挨拶をされ、祝福してくださいます。キリストに生かされている者として、ここから再び新たにされて歩み出すのです。