松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年1月15日(日)
説教題「復活の知らせ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章11〜18節

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

旧約聖書: エゼキエル書37:11~14

主イエス・キリストがお甦りになられました。先週、私たちに与られた聖書箇所には、墓が空っぽであり、主イエスのある弟子がその状況を見て、信じたことが記されています。本日、私たちに与えられた聖書箇所はその続きの箇所です。先週の聖書箇所でも出て来ましたが、マグダラのマリアが最初に墓が空だったということを発見した人です。弟子たちにそのことを伝えに戻りましたが、再び墓に戻ってきたようです。マリアが墓の前で泣いている。その場面から始まります。

そのマグダラのマリアが復活の主イエスとお会いする。今日の聖書箇所ではその話が続いていくことになります。ところがマリアは、最初はそれが主イエスだとは分からなかったのです。マグダラのマリアだけではありません。他の箇所、他の福音書を読んでみても、復活の主イエスとお会いする。そうすると、それらの人たちは、マグダラのマリアと同じように、最初は主イエスとは分からなかった。そういう話が多いのです。

例えば、ルカによる福音書です。エマオという場所に向かっていた二人の弟子がいました。その途上、もう一人が加わる。それが復活の主イエスだったのです。ところが、この二人はそれが分からなかった。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ二四・一六)。ずっと三人で話し込んでいてもまだ分からない。夕暮れになります。ぜひ一緒に宿を取って欲しいと頼まれます。宿屋でも最初はまだ分からない。

ところが、主イエスがパンを取り、それを裂いておられた時に、ようやくそれが主イエスだと分かった。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ二四・三一)。主イエスがパンを裂いてくださったことは、今の教会でも聖餐として大事に祝われています。その大事なことがなされて、初めてこの二人の弟子も目が開かれて、ようやく主イエスだと分かったのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所でのマリアもそうなのです。主イエスが十字架で殺されてしまった。しかも遺体が何者かによって取り去られてしまった。そういう悲しみを悲しんでいた。もはや何も目に入りませんでした。「白い衣を着た二人の天使」(一二節)にも目もくれません。後ろから声をかけた主イエスにも、やはり目もくれない。

しかし、そういうマリアに対して、主イエスが「マリア」(一六節)と声をかけてくださいました。名前を呼ばれたのです。名前を呼ばれて初めて分かった。マリアは「ラボニ」(一六節)と答えます。解説まで付けてくれていますが、「先生」という意味です。これまでも何度も、マリアは名前で呼ばれたこともあったでしょう。懐かしいその呼ばれかたを聞いて、マリアはようやくそれが、復活の主イエスであることが分かったのです。

続く一七節のところで、マリアは主イエスにすがりつこうとします。しかし主イエスは言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」(一七節)。絵画の世界で、この場面を描いた絵がよく描かれています。絵のタイトルは、まさに「わたしにすがりつくのはよしなさい」(ラテン語でnoli me tangere)です。

どういう構図の絵が描かれているのでしょうか。私たちがまず想像するのは、マリアが跪くようにして、主イエスの足にすがりついているようなイメージだと思います。マタイによる福音書の同じ場面を読むと、確かに主イエスにすがりついていることが書かれています。しかし実際にこの絵は、すがりつこうとするマリアに対して、主イエスが身を翻すようにしている。そんな構図として描かれているのです。かつての口語訳聖書では「わたしにさわってはいけない」となっていました。触れようとするマリアに対して、さわっては駄目だと、まるで言われているかのような、そんな絵が描かれているのです。

ここでの「すがりつく」という言葉を、どう解釈するかによります。元の言葉の意味としては、触れる、さわる、すがりつく、手をつけるなど、多様な意味があります。しかしここでの文脈から考えると、マリアを拒否するように「触るな」と言ったのではないことは明らかです。それよりもやはり、「すがりつくな」ということだと思います。

なぜか。マリアは主イエスの体を捜していました。遺体を捜しているのです。もちろん遺体ではなく、生きていられる形であったわけですが、マリアの思いとしては、ようやく見つけた、ということだったでしょう。ようやく見つけた主イエスのお体を、もう決して放さない。手放すものか、という思いだったでしょう。

そういうマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われる。わたしを独占しようとするな。わたしをまるで物のように扱うな。わたしをまるで偶像のように考えるな。主イエスはそういう意味で言われているのです。

「偶像」という言葉を使いました。聖書では、よく「偶像」あるいは「偶像礼拝」という言葉が出て来ます。この偶像礼拝とは何でしょうか。いろいろな意味が実はここには込められているのです。

一つには、本当に偶像を礼拝するということでしょう。実際に像を作って、それに手を合わせて拝む。そういうことをするな、ということです。しかしそれがすべてではありません。今年は宗教改革五百年の記念の年です。一五一七年一〇月三一日と言われていますが、マルティン・ルターという人が、九十五箇条の提題を掲げた。それがきっかけとなって教会の改革運動が始まり、プロテスタント教会が生まれたと言われています。そのルターが、いろいろな文章を書きましたが、こういうことを書きました。「今あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」。

ルターがここで言っていることは、目に見える形の偶像だけでなく、目に見えない様々な偶像が存在し、私たちがまことの神ではなく、それらの偶像を拝んでしまう罪を持っているということです。何が偶像になるのでしょうか。

例えば、「学歴信仰」などと言います。「学歴」が絶対だと信じる、信頼するわけです。よい大学に入ることが絶対化されます。試験の結果を偏差値で表し、偏差値が絶対化される。そして、実際によい大学に入れなかったことに、非常に意気消沈をする。そういうところで初めて、どれだけ自分が「学歴信仰」に陥っていたか、どれだけ偶像により頼んでいたのかが分かるのです。

このように、物理的な偶像だけではなく、お金、地位、名誉、学歴、そういうものも偶像になります。そういうものが絶対であると思いこみ、いつの間にか絶対の信頼を寄せるようになる。すがるようになる。偶像を拝むということが起こるのです。

私は最近、十戒に関する本を読みました。その本は、今を生きる私たちにとって、十戒がどういう意味を持っているのかということが、鋭く書かれた本です。十戒の第二戒は偶像を刻んではならないということです。その本の中で、このようなことが書かれていました。偶像というものは、「何が本当に価値あるものなのか」という問いを人間から奪ってしまう(大嶋重徳著『自由への指針』、五四~五五頁)。

例えば、テレビのコマーシャルで、この家があれば、あなたは幸せになれる。この車を持っていれば、人生の幅が広がる、などと言われています。就職するためには、資格を持っていなければならない。就職したとしても、何が起こるか分からないから、保険に入っていなければならない。そのように不安をあおられ、これがあれば大丈夫だ、そういう形で次々と偶像が登場してきます。

しかしこういう偶像が刻まれているところでは、本当に大事な問いが消え失せてしまうと著者は言うのです。「いったい何のためにこれらを用いるのか」「何のために自分は生きているのか」「自分が生き生きと生きていくために、本当に価値あるものは何か」、私たちはそういう問いを本当ならば考えていかなければなりません。しかし偶像の前では思考停止しています。家や車を得ること、職に就つくこと、保険に入ることがすべてになってしまう。そういう偶像に絡め取られてしまい、思考停止してしまうのです。

旧約聖書の詩編第一一五編に、偶像の問題が見事に書かれています。「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。」(詩編一一五・四~七)。

非常に面白いのは、その次のところです。「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる。」(詩編一一五・八)。まさに「思考停止」です。偶像が提供してくれる価値観だけがすべてだと思ってしまうのです。私たちもまた、思い当たるところがあると思いますし、今の世の中も、偶像に絡め取られてしまっている世の中だと思います。

思考停止。そこまで言わなくとも、偶像を前にすると、私たちの考え方がどうしても狭くなってしまいます。偶像を礼拝するな。そこで言われているもう一つの大事なことは、神を小さく考えるな、ということです。神は生きておられます。生きて働いておられます。私たち人間の考えよりもはるかに大きく、私たちの思いもよらぬことをなしてくださいます。しかしその神を、私たちの頭の中だけで、偶像に押し込めてしまう。そういうことも、偶像礼拝をするなということで、禁じられているのです。

私たちにとって、神はどのようなお方でしょうか。例えば、困っている私を、私の都合のよいように助けてくれる。それが神だと思ってしまう。私たちの小さな頭の中だけに押し込められた神に成り下がっています。困ったときの神頼みと言います。逆に、困っていない時は出て来なくてよろしい、そのように思ってしまう。うっかり出て来られて、お前のしていることは善くない、悔い改めなさいと言われてしまっては困る。そのようなときに、生きておられる神を、私の都合のよい神として偶像化してしまうということが起こっています。

マグダラのマリアは、主イエスの遺体を、体だけを捜していました。本当は復活して、生きておられるのです。しかしマリアはそんなことには思いも及ばない。自分にとってのイエスさまはこういう方だと思い込んでいる。そして今、目の前に主イエスが現れた。その主イエスにすがりつこうとしている。しがみつこうとしている。私の中に押しとどめようとしている。まさに偶像化が起こっているのです。

主イエスを偶像化している、偶像化しようとしているマリアに対して、主イエスは言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(一七節)。すがりつくなということだけを言われているわけではありません。それと共に、マリアに使命を与えられています。「兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」(一七節)と言われているのです。

「兄弟たち」という言葉が出て来ました。兄弟たちとは誰のことでしょうか。主イエスの弟子たちのことです。主イエスが弟子たちのことを「兄弟たち」と呼ぶのは、ヨハネによる福音書で初めてのことです。同じ言葉は、この福音書の中で、十数回もすでに使われてきた言葉です。ただしそれらはすべて、実際の肉親の兄弟という意味で使われてきました。

血のつながっている兄弟というわけではないけれども、主イエスが「兄弟たち」と言ってくださる。新約聖書の使徒言行録でも、多くの手紙でも、兄弟たちという言葉が使われています。教会の同じ信仰に生きる仲間たちのことを、兄弟姉妹と呼ぶのです。主イエスがここでその言葉を使ってくださいました。

一七節の後半のところですが、主イエスはこう言われています。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(一七節)。主イエスは非常に丁寧に言われています。「わたしの父」「あなたがたの父」、「わたしの神」「あなたがたの神」。区別してこのように言われながらも、区別はしていないのです。

例えば、私たちが祈る時、祈りの冒頭に神さまへの呼びかけから始めます。どのような呼びかけ方をするでしょうか。「主イエス・キリストの父なる神さま」と呼びかけたり、「私たちの父なる神さま」と呼びかけたりします。今二つの呼びかけ方を言いましたが、同じ呼びかけ方でもありますし、異なる呼びかけ方でもあります。父なる神は、主イエスの父である。では私たちの父でもあるのでしょうか。私たちの父ともなってくださったのです。

ルカによる福音書に、放蕩息子の譬え話があります。子どもが父から相続することになっている財産を早めにもらい、家を飛び出し、放蕩の限りを尽くし、何もなくなったところで、ごめんなさいと言って家に帰ってきた。そのような話です。父はこの息子をどうしたか。息子としての縁を切ったか。そうではありません。ごめんなさいと言って帰ってきたこの息子の帰りを、今か今かと待ち続けていました。そして実際に帰ってくる。息子を息子のまま受け入れてくださいました。父と子の関係は切れなかったのです。

神は、主イエス・キリストの父なる神です。これは当然です。それでは、私たちの父でもあるのでしょうか。神は私たちの父でもいてくださいます。弟子たちは、主イエスのことを見捨て、逃げてしまいました。主イエスも十字架で殺されてしまった。もう関係が切れてしまったと思われた。しかし主イエスがこの弟子たちに、「わたしの兄弟たち」と言ってくださった。関係を切らずに、結び直してくださった。父なる神のことも、私の父でもあり私の神でもあるが、あなたがたの父でもあり神でもあると言ってくださったのです。

マグダラのマリアも、このようにして、主イエスと新たな交わりの中に加えられました。新しい使命が与えられた。新しい歩みが、新しい生活が、新しい命が与えられました。復活の知らせを携え、マリアは「兄弟たち」のところに出かけていきます。

来週の聖書箇所になりますが、弟子たちにも復活の主イエスとの出会いが与えられました。まるで死んだかのように、家の中に閉じこもり、扉に鍵をかけ、おびえていた弟子たちでした。しかし復活の主イエスが訪ねてくださる。そしてこう言われます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(二〇・二三~二四)。まるで偶像にすがりつくように、主イエスにすがりつくのではありません。新しい使命に、新しい命に生きよと言われる。そのために聖霊を受けよと言われる。

私たちも自分たちの頭の中に、主イエスを押しとどめる必要はありません。小さな主イエスにすがりつく必要もない。主イエスは今もなお、生きて働いておられます。私たちの小さな思いをはるかに超えて、私たちを導いてくださいます。聖霊を受けて、私たちも新たな使命、新たな命に生きることができるのです。