松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年1月8日(日)
説教題「死の殻を破る」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第20章1〜10節

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

旧約聖書: 詩編103:1~5

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところに、「週の初めの日」(一節)とあります。週の初めの日とは、日曜日のことです。何気なく書かれていると思われるかもしれません。しかし私たちの信仰生活にとって、極めて大事なことが書かれています。

この表現は一節のところにありますが、同じ第二〇章の一九節のところにも記されています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」(二〇・一九)。同じ日の夕方のことを表しています。そして同じ第二〇章の二六節にもこうあります。「さて八日の後」(二〇・二六)。八日の後というのは、一週間後のことを表しています。つまり、一週間後の日曜日のことです。

さらに、使徒言行録の第二〇章にもこうあります。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。」(使徒言行録二〇・七)。

日曜日に皆が集まっていました。そこで青年エウティコがパウロの説教を聞いている間に眠ってしまい、窓から落ちて転落してしまう。けれどもパウロがその青年を甦らせるという話が記されています。その話の詳細をここでは触れられませんが、週の初めの日、日曜日の夜に、皆が集まって讃美が歌われ、説教が語られ聞かれ、聖餐がなされていたことが記されています。日曜日の礼拝です。キリスト者は日曜日の礼拝を大事にしてきたのです。

松本東教会のホームページがあります。多くの方に、特に教会は初めてという方に来てもらえるように、ホームページが用意されていますが、「初めての教会Q&A」というコーナーがあります。「教会ではどのようなことをしているのですか?」「クリスチャンではありませんが、礼拝や集会に参加できますか?」などという質問とその答えを用意しています。その中に、こういうQ&Aがあります。「なぜ毎週日曜日に礼拝を行うのですか?」「日曜日はイエス・キリストが復活された日です。そのことを記念し、教会では二千年前から日曜日に礼拝を行ってきました」。

日曜日が最初から休みの日だったから、教会の人たちは日曜日に礼拝を行ってきたのではありません。そうではなくて、日曜日は休みの日というわけではありませんでした。普通に仕事をしていた日です。使徒言行録に記されている教会も、だから夜に集まっていたのです。教会の人たちは、仕事やその他の用事があるにもかかわらず、日曜日の仕事前、あるいは仕事の後に集まり、礼拝を行っていたのです。エウティコが説教を聞いて眠ってしまったのも、おそらく一日の労働の疲れがたまっていたのだと思います。

ローマ帝国の中で、三百年経って、ようやく教会の信仰が認められるようになりました。そして、日曜日が休みの日として制定されました。日曜日は礼拝の日として、休みの日として定められたのです。教会が日曜日の休みを勝ち取ったのです。その源にあった出来事が、本日、私たちに与えられた出来事。週の初めの日の出来事です。イエス・キリストが復活された主の日、それが日曜日なのです。

新約聖書の四つの福音書の最後には、主イエスの復活の出来事がそれぞれ記されています。四つの福音書を読み比べていくと、すぐに気が付くことは、復活には二種類の出来事があるということです。一つは、墓が空っぽだったという出来事。今日の聖書箇所はまさにその出来事です。もう一つは、復活の主イエスにお会いするという出来事です。

私たちは、後者の出来事の方がより重要だと感じるところがあります。墓が空っぽであるよりも、直接主イエスとお会いする方が、ずっと復活を感じやすいからです。けれども、聖書は意外と墓が空っぽだった出来事を重視して伝えているところがあります。マルコによる福音書の終わり方は、墓が空っぽだったということで終わっています。墓に行った女性たちが、空っぽになった墓を発見し、天使から主イエスの復活を告げられる。女性たちが喜んだかと言うとそうではありません。「震え上がり、正気を失っていた」(マルコ一六・八)とあります。そしてマルコによる福音書の最後はこのように終わります。「恐ろしかったからである。」(マルコ一六・八)。

墓とはいったい何でしょうか。いろいろな言い方をすることができるでしょうが、死者をそこに閉じ込めてしまうものです。葬儀をする際に、私がよく葬儀社の方から聞かれるのが、「遺影にリボンを付けましょうか?」ということと、「棺に釘を打ちますか?」ということです。なぜリボンを付けたり、釘を打ったりするのか。死はどこか汚れたもの、悪いものという考えが日本には根強くあります。その悪いものや汚れたものが出てこないように閉じ込めるために、そのようにするのです。

私たちキリスト者はそうは考えません。しかし死に閉じ込められる、そのことは誰も免れることはできません。墓に閉じ込められることによって、私たちもそのことを味わうのです。誰も死からは逃れられない。けれども、主イエスの墓はそうではなかった。墓が破られたのです。

そして、そこに信仰が生まれました。これはとても大事なことです。信仰というのは、当たり前のことですが信じることです。信じるか、信じないか、その問いの前に立たされ、信じるというのが信仰を持つことです。主イエスが弟子たちを引き連れて、伝道の旅をしました。弟子たちは、この時は、主イエスに着き従い、主イエスから様々な教えを受けていました。大胆に言えば、この時は、主イエスを信じる本当の信仰はまだ生まれていませんでした。空っぽの墓によって、主イエスを信じる本当の信仰が生まれていったのです。

今日の聖書箇所の最初に出てくるのは、マリアです。マグダラのマリア。マリアが墓へ行きました。日曜日の朝早く、まだ暗いうちです。前日の土曜日は安息日でしたので、出歩くことができませんでした。その安息日が明けて、ようやく出られるようになり、真っ先に出かけていきました。

なぜマリアが墓へ出掛けに行ったのか。その理由は記されていません。おそらく一人ではなかったのでしょう。他の福音書からも、複数の女性たちが赴いたことが記されていますし、二節のところには、「わたしたちには分かりません」と言っていますので、複数の女性たちと共に出かけたのでしょう。

出掛けていくと、墓から石が取りのけてあるのを見ました。おそらく中まではじっくりと見なかったのでしょう。マグダラのマリアが下した判断は、誰かが墓石をどかし、遺体を盗み去ってしまったというものでした。すぐに走って、ペトロと、主イエスの愛しておられた弟子、匿名の弟子の二人に伝えます。

ペトロともう一人の弟子がすぐに墓へ走って出掛けていきます。今日の登場人物は走ってばかりというところがあります。もう一人の弟子の方が若かったのかもしれません。ペトロよりも速く走ることができました。しかしペトロの到着をきちんと待ちました。年長者の顔を立てたのかもしれませんし、ペトロが主イエスのいわゆる一番弟子だったからという理由もあったのかもしれません。いずれにせよ、ペトロに道を譲りました。

この二人の様子はこのように記されています。「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(五~八節)。

ここで二人は何をしているのでしょうか。マグダラのマリアから、遺体が盗まれたという知らせを受けました。ここで二人がしていることは、遺体が盗まれたのではないという確認です。亜麻布や顔の覆いは、乱雑に置かれているわけではない。かといって遺体と共に盗み去られてしまったのではない。状況からして、その埋葬された体が、そこから丁寧に抜け出たということが分かったのです。

八節のところにこうあります。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(八節)。空の墓と、そこにある状況を見て、信じた。その信じたことを高く評価していると言えます。

続く九節にこうあります。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(九節)。この九節は、一体何を言おうとしているのか、少し分かりづらいところがあるかもしれません。聖書学者たちも、多種多様な説明をしています。しかしどの聖書学者も一致して言っていることは、九節が八節を何らかの形で説明しているということです。九節には、きちんと日本語には訳されていませんが、「なぜなら」という言葉があります。「なぜなら」「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(九節)ということです。

九節の言葉を純粋に読めば、旧約聖書に、主イエスの復活のことが記されていると読めそうです。しかし、旧約聖書のどこを捜しても、イエスという男が死者の中から復活するということなど書かれていません。

しかし、教会の人たちは、だんだんと主イエスの復活をきちんと受けとめることができるようになっていきました。例えば、同じ第二〇章の二一~二三節にこうあります。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(二〇・二一)。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(二〇・二二~二三)。

同じ日曜日の日の夕方の出来事になります。主イエスの復活の出来事を受けとめきれずにいた弟子たちに対して、主イエスが言われた言葉です。これらの言葉を聞いて、弟子たちも主イエスの復活の意味をだんだんと受けとめられるようになっていきます。そして、だんだんと聖書の裏付けをすることができるようになってきます。旧約聖書にイエスという名前こそはないけれども、神が救い主をお遣わしくださり、そしてその死と復活によって、罪の中から救い出してくださることが分かって来たのです。

ただ、今日の聖書箇所のこの時は、まだ知らなかった。ペトロももう一人の弟子も知らなかった。けれども、このもう一人の弟子は、空の墓だけを見て、この段階で信じた。一番に信じた人です。そのことを、ここで高く評価しているのです。

ヨハネによる福音書第二〇章には、たくさんの人たちが出て来ます。ペトロが出て来ます。もう一人の弟子が出て来ます。マグダラのマリアが出て来ます。マグダラのマリアは次の聖書箇所にも引き続き出て来ます。ペトロ以外の主イエスの弟子たちが続けて出て来ます。そして最後には、トマスが出て来ます。最後のトマスは、ようやく見て、信じたのです。

伝道的に好まれてきた解釈があります。それは、ユダヤ人のキリスト者を、トマスやペトロに重ね合わせる。そして、ユダヤ人以外の外国人の異邦人キリスト者を、もう一人の弟子に重ね合わせるという解釈です。ほら、異邦人キリスト者の方が、空っぽの墓だけを見て、信じたのだ。トマスのように、強情に信じないと言い張ったユダヤ人キリスト者とは違うのだ。そういう解釈です。

しかし私は、おそらくその解釈は間違いであると思います。そんなことよりも、この福音書を読む読者たちに対して、実際に復活の主イエスとはまみえたことはなかったとしても、空っぽの墓だけで信じることを促しているのです。トマスに対して主イエスはこう言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(二〇・二九)。この主イエスの言葉が、第二〇章全体のメッセージです。

第二〇章はこのように、多くの信じるようになった者たちが次々と登場します。いろいろな段階があります。しかし全員が信じるようになった者たちです。主イエスは一人ももらさずに、信じる者にしてくださいます。最後まで強情に信じないと言い続けたトマスさえも、主イエスによって信じる者にさせていただきました。

ヨハネによる福音書は、いつでも信仰が動いている書物です。動き、発展していくのです。以前の説教でも触れたことがありますが、ヨハネによる福音書では、「信仰」という名詞の言葉の登場回数はゼロです。その代りに、「信じる」という動詞は、何十回も使われています。誤解を恐れず言うならば、固定された信仰などまだないのです。しかし復活の主イエスを信じる信仰へ導かれていく、その意味で信仰が動き、発展していくのです。

八節を改めてお読みします。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(八節)。「信じた」とあります。何を信じたのでしょうか。そのことは書かれていませんが、主イエスが墓から出られたこと、主イエスが死の殻を破られたことを信じたのです。死の殻だけではありません。人間にとって決して破ることができない、様々な殻を破られたことを信じたのです。

教会の牧師として、私はいろいろな方から、様々なことを祈って欲しいと言われます。皆さんそれぞれ、いろいろな困難を抱えておられます。そのような困難の中にあっても、祈ることができる、人に祈って欲しいと言えることは、とても幸いなことであると思います。信仰を持たぬ者からすれば、祈ったところで何になる、祈るくらいなら、もっと問題解決のために有意義に時間を使ったらどうだと言われてしまうかもしれません。

しかし私たち主イエスを信じる者は、神に死の殻を破る力があることを信じています。その神に祈るのです。主イエスが復活されたことにより、空の墓から、私たちの信仰が生まれたのです。もはや私たちを閉じ込めておくことができるものはありません。主イエスがすべてを打ち破ってお甦りになってくださったのです。