松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年11月9日(日)
説教題「信用できる人はいますか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第2章23〜25節

イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

旧約聖書: 箴言 第26章24~28節

松本東教会は日本基督教団に属する教会です。日本基督教団には信仰告白があります。週報に印刷されていますが、その冒頭のところに、聖書に関することがあります。「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」。

聖書とは一体どういうものであると私たちが信じているのか、そのことがまず信仰として告白されています。聖書は神の導きによって書かれたもので、神について、救いについて、完全なる知識を私たちに与える神の言葉だと言うのです。聖書は救いについて書いてある。どのような箇所であったとしても、たとえ救いからかけ離れているのではないかと思えるような箇所でも、救いにつながる話が書かれているのです。

私たちにとって痛いことが聖書に書かれてあるのは事実です。何週間か前に、こどもの教会の聖書箇所として、エゼキエル書が読まれました。巻物のことが出てきます。昔、聖書は本ではなく巻物でした。聖書と考えてもよいわけです。その巻物をエゼキエルという預言者が開いて読んでみると、それは痛いことが書かれていた。「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(エゼキエル二・一〇)でありました。

神がエゼキエルに言われます。その巻物を食べなさい、と。そんな言葉が書かれているわけですから、とても苦そうな巻物です。そして実際にエゼキエルはそれを食べてみる。「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」(三・三)とあります。

聖書の言葉に触れていると、痛みや苦さを感じることがあるのは事実です。聖書の言葉を自分に照らし合わせてみる。とても聖書の言葉通りに生きていない自分の姿が明らかにされてしまいます。教会の牧師として、神の御心に適っている教会になっているか。聖書の言葉と照らし合わせてみると、キリストの花嫁たる「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」(エフェソ五・二七)となっているか。国や社会の一員として、この国や社会が、あるいはこの世界に、神の御心が現されているか。聖書の言葉と照らして考えてみたときに、痛みや苦さを感じないわけにはいきません。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箴言の箇所などもそうです。箴言には知恵が書かれています。神を信じて生きる者の知恵です。その知恵の中には、信仰のイロハのような知恵もありますが、私たち人間の罪の正体を明らかにしているような知恵もあります。そういう言葉も聖書の言葉です。

それらの痛そうな、苦そうな聖書の言葉を、口にして味わってみると甘くなってくる。エゼキエル書はそうだと言うのです。実はそれが聖書の本質であると思います。どんなに耳に痛い言葉でも、よく噛みしめて味わってみると、甘い味がしてくる。蜜のように甘い言葉として聴くことができるようになるのです。

本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の聖書の箇所もまた、ひとまずは痛い話として聴くことができそうです。二四節のところにこうあります。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」(二四節)。彼らとは一体誰か。二三節に「しるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とありますので、主イエスのことを信じた人たちのことでしょう。

自分はこの人たちとは関係がなかった、そう安心しても、続きがあります。「それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(二四~二五節)。「彼ら」だけではない、人間一般のことが言われています。この私もまた、そこに含まれるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の前後関係を考えますと、この箇所の前には、エルサレムの神殿を清める、いわゆる「宮清め」の話が記されています。そしてこの箇所の後には、議員であるニコデモとの対話が記されています。これら二つの箇所は、比較的よく知られている箇所ではないかと思います。特にニコデモとの対話の中に出てくる主イエスの言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(三・一六)は、聖書の中でも最もよく知られている箇所の一つでしょう。

それらの箇所に比べると、本日の聖書箇所はさほど有名ではない。ここだけを取りあげて、説教をする説教者も少ないでしょう。愛唱しておられる方もいらっしゃらないと思います。そうなると、本日の聖書箇所は二つの箇所に挟まれている谷間の聖書箇所なのでしょうか。決してそうではありません。とても重要な箇所だと私は思います。

確かにこの聖書箇所は、前後をつなぐ箇所と言えるでしょう。流れがあります。主イエスが過越祭のときにエルサレムの神殿に行かれる。宮清めをなさる。その他にもしるしをなさる。そのことで信じる者が生まれる。けれども信じるとは言っても、どうやら不十分な信じ方であった。主イエスはその人間のすべてを知っておられた。そしてその不十分な信じ方をしている代表者として、ニコデモが登場をする。そんな流れがあります。

でも、この聖書箇所は、単なるつなぎの箇所ではありません。重要な箇所です。人間とはどういう者なのか。人間の本質が分かる。それだけではなく、もっと重要なことは、その人間を一体どう救おうとされるのか、救いに向けての出発点の箇所であると言えます。主イエスが救ってくださった人間はどういう者か、いかに救いが必要だったのかということがよく分かるのです。

来週の聖書箇所に出てくるニコデモという人物は、この箇所だけではなく、第七章と第一九章に出てきます。第七章では、議員たちの中でもニコデモだけが主イエスに少し好意的な意見を述べています。第一九章は主イエスの十字架、そして葬りの場面です。葬りのときにニコデモが出てくる。埋葬の手伝いをするのです。ニコデモは主イエスの十字架にかかわった。少しずつニコデモも変えられていくのです。

主イエスの弟子たちもそうでした。先週の箇所になりますが、第二章二二節にこうあります。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(二・二二)。弟子たちは主イエスの弟子として、主イエスを信じて歩んだはずですが、十字架と復活の出来事の後、このように信じたことが記される。不十分な信仰だったにもかかわらず、主イエスと共に歩み、変えられていったのです。

それでは不十分な信仰とは一体何でしょうか。二三節に「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあります。一見信じたかのように見えた人々でした。しかし主イエスはその信仰を信用なさいませんでした。

今日の聖書箇所に、信じるという言葉が二度、用いられています。最初に出てくるのが、二三節の終わりのところです。「多くの人がイエスの名を信じた。」(二三節)。しるしによって、人間が主イエスを信じたのです。続く二四節に「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」とあります。「信用されなかった」というのは、「信じなかった」ということです。同じ言葉が使われているのです。

この信じるという言葉は、「信用する」「任せる」「委ねる」とも訳すことができます。主イエスが私たちを「信じない」、「信用されない」。そうではなく「任せられない」、「委ねられない」と言われた方が、少し意味合いが軽くなるかもしれません。しかし結局は同じことです。信じない、信用されないからこそ、任せられない、委ねられないからです。私たちにとって、ショッキングな言葉であるかもしれません。しかしだからといって、否定することができない事実でもあります。

今日のこの説教の説教題を「信用できる人がいますか」としました。あまり説教題にクエスチョンマークは付けませんが、疑問形です。皆さまはどうお答えになるでしょうか。信用できる人は、確かに私たちの周りにいるかもしれません。でもその人は確かでしょうか。何があっても信用できる人でしょうか。信頼関係が固く結ばれていたはずなのに、些細なことから綻びが生じる話は、私たちもよく聞く話です。世の中に様々な争いが勃発しています。お互いに信頼関係を築けないことが、そもそもの原因です。信頼関係のなさが、人間の本質を表わしていると言っても過言ではなさそうです。

ヨハネによる福音書第六章六〇~七一節にこうあります。少し長いのですが、お読みいたします。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(六・六〇~七一)。

主イエスの弟子には、十二人以外にも、もっと多くの弟子たちがいたようです。ところがその弟子たちが去ってしまう。信頼関係が崩れてしまったからです。福音書を読んでいて気が付くことは、主イエスから去れと命じられた弟子が一人もいないことです。逆に人間の側から主イエスを見限ってしまう。このときもそうでした。

信仰がある、信じた、そうは言っても、その信仰が揺れ動いてしまう私たちです。ある聖書学者が指摘していることですが、ヨハネによる福音書には「信じる」という言葉が百回ほど出てきます。「信じる」という動詞の形で百回も出てくるのです。ところが「信仰」という名詞の形で何回出てくるかというと、ゼロです。一回も出て来ないのです。その聖書学者は言います。ヨハネによる福音書の信仰は、動的なものである。固定化されたものではない。絶えずその信仰が変えられていく。主イエスの弟子も、ニコデモもまたそうなのです。信仰が変えられていく。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、第二章の終わりの部分にあたります。まだヨハネによる福音書の冒頭です。この福音書はここでは終わらない。二三節に主イエスのしるしによって主イエスを信じた者たちが現れたのですから、もう自分の務めは果たした、天に帰ると言われて主イエスが帰ってもよさそうなものですが、主イエスはお帰りにはならない。むしろ、このような人間を救う歩みが始まっていくのです。

葉っぱのように揺れ動く人間、その人間たちを弟子として抱えながら、主イエスの歩みが始まります。十字架へ向けての歩みが、いよいよ始まっていくのです。これから話が始まっていくのです。本日の聖書箇所には、私たちにとって痛い話、苦い話が書かれているかもしれませんが、蜜のように甘い話へと変えられていく。不信仰な私たちを御自分のもとに抱えながら、救いへと歩み出す主イエスのお姿をここに見ることができるのです。

一〇月のことになりますが、南信分区の婦人研修会が行われました。今年は青山学院大学の塩谷直也先生をお招きし、聖書の様々な話をお伺いしました。楽しい先生でいろいろなことを分かりやすく教えていただきました。

その中でも特に心に残ったのが、マタイによる福音書第一八章一五節の説きあかしです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(マタイ一八・一五)。塩谷先生はご自分の体験談でお語りになりました。自分が子供の頃、友人とケンカをした。明らかに自分の方が悪い。翌日、学校でどう謝るか、どう切り出すか、肩を落としながら通学路を歩いていた。そうしたらそのケンカをした相手が、後ろから突然「おはよう」と言ってランドセルを叩き、笑顔で走り去った。ケンカによって壊れていたはずの信頼関係が、そのようにして再び結ばれた。

塩谷先生はその話をされながら、マタイによる福音書第一八章一五節の言葉を説きあかす。「最初、私はよく分かりませんでした」と言われます。なぜなら、「兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って…」というように書かれているからです。この主イエスの言葉を正確に聴き取る必要があります。普通、この世の考えでは、悪いことをした方が、自分から謝りに行く。悪いことをされたならば、相手が謝ってくるまで相手をしない。それが常識です。

しかし主イエスはそうは言われない。逆です。悪いことをされたとしても、ランドセルを叩いて「おはよう」と言った少年のように、自分から兄弟を得るために行きなさいと主イエスは言われる。相手が変わることを待つのではなく、自分から行って、相手を変えなさいと主イエスは言われるのです。

塩谷先生のお話も面白かったので、笑いながら聴くようなところもありましたが、私は内心、痛さを感じていました。私にとって痛い言葉、苦い言葉であったからです。自分は果たしてそうだろうか。信頼関係が切れたところで、自分の方から兄弟を得るために出かけていたか。そうではなかった。主イエスのお言葉の通りの自分ではなかった。そのことを改めて思い知らされたからです。

これも私だけではなく、私たちにとって、一つの痛い言葉、苦い言葉です。このような言葉は、聖書にいくらでもあります。しかし主イエスは私たちにこれらの言葉をよく噛みしめさせ、味わわせてくださる。そしてそれを甘いものへと変えてくださる。それが主イエス・キリストの本質です。

不信仰な弟子たちを主イエスはご自分の弟子として抱えてくださいました。その弟子たちが離れ去るようなこともありましたが、それでもあきらめずに、主イエスはなおも弟子を抱えてくださった。ニコデモもまるで主イエスと話がかみ合わない。そんな人でありながらも、主イエスの埋葬にかかわることになった人です。私たちも主イエスの弟子やニコデモと何ら変わることがありません。

そんな不信仰ながら、主イエスについて行く歩みをしている中で、私たちも知るのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って…」、その言葉をよく噛みしめ、味わってみると、実は主イエスが一番先に行ってくださったお方ではないか、そのことに気付く。実は主イエスが私を得るために、主イエスの方から来てくださったのではないか。この事実を知ったとき、痛い言葉、苦い言葉が甘い言葉へとなっていく。主イエスは私たちに言われます。私はあなたのところに、あなたを得るために行ったのだ。だからあなたも行きなさい。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエスが私たちを信用されないことがはっきりと書かれています。そんな私たちだからこそ、主イエスが私たちのところへ来てくださった。私たちがお供することを許してくださった。私たちの主イエスとの旅路が続いていくのです。