松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年10月19日(日)
説教題「見えないところで喜びを支えるキリスト」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第2章1〜12節

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

旧約聖書: 列王記上 第17章8~16節

本日からヨハネによる福音書第二章に入りました。先ほど、一節から一二節までをお読みいたしました。聖書には章や節が付けられていますが、もともとこのような数字は付けられてはいませんでした。だから第一章から第二章に入ったからと言って、内容ががらりと変わるわけではない。むしろ連続していることもあるのです。今日から第二章でありますが、内容的に考えますと、第一章から第二章一二節までが、一つのまとまりであると考えることができます。

第一章から連続して御言葉を聴いて参りまして、お気づきになられた方もあるかもしれません。「その翌日」という言葉が、三度にわたって繰り返し用いられてきました。第一章の二九節、三五節、四三節の三箇所です。そして今日の箇所に、第二章に入った冒頭のところに、「三日目に」(一節)とあります。これらの記述は、単に時間の流れを記載しただけのものでしょうか。多くの者は、この記述の仕方に意味が込められていると考えます。

いろいろな考え方がありますが、例えばこんな考え方がある。トータルの日数を考えますと、一週間の記述として考えられる。どこが第一日目で、どこからが第二日目であるかは、聖書学者によって多少の違いがありますが、一週間の枠組みがあると考えるわけです。

特にヨハネによる福音書の冒頭は、「初めに言があった」(一・一)で始まります。旧約聖書の創世記の冒頭もやはり、「初めに、神は天地を創造された」(創世記一・一)で始まり、一週間で天地創造がなされたことが書かれています。ヨハネによる福音書の著者は、天地創造の記述を意識していたところがあります。その七日目の出来事として、カナの婚礼の話を書く。

創世記の七日目は、すべてが完成し、神が祝福され、安息に入られたことが書かれています。同じように、ヨハネによる福音書の著者も、特に一一節に「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(一一節)と記されているように、一週間の出来事がここに完成をしたと考えた。主イエスによる新しい創造がなされたと考えるのです。

これとは別の考え方もあります。第一章で「その翌日」という言葉を三回にわたって重ねてきました。三日間の出来事があったわけです。この三日間の出来事は、出会いの出来事です。主イエスが洗礼者ヨハネに出会う。主イエスの弟子となった者たちに出会う。その弟子たちが、今日の箇所の一一節にありますように、信じるようになる。今までの三日間の出来事の成就、完成が「三日目に」という言葉に表されていると考える聖書学者もあります。

さらにもう一つだけ、別の考えをご紹介いたしますと、「三日目に」という言葉から、何よりも思い起こすのは、主イエスが十字架にお架かりになって、「三日目に」お甦りになられたことです。特に第一章五一節で「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(一・五一)と主イエスが言われていますが、ここに十字架の出来事が表わされていると考えることもできます。十字架の金曜日、土曜日、日曜日。金曜日を含めて数えると三日目の日曜日に復活が起こる。神の力、栄光が現れる。そう考える人もいます。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、このような枠組みの中で書かれている話になります。「その翌日」を三回にわたって重ね、「三日目に」と記した。単なる時間の経過ではなく、何かの意味が込められていると考えられますが、聖書学者の中でも意見が分かれるところです。実際にヨハネによる福音書の著者が、どのような意味を込めたのかは分かりません。

しかし一つだけ確実に言えることがあります。第一章の記述が、今日の聖書箇所に向かっているということです。今までの話はすべて、今日の箇所において山を迎える、ピークを迎える。やはり一一節の言葉が重要です。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(一一節)。弟子として召された者たちが、信じる者へと造りかえられていった。今日の出来事を通して、違う者に造りかえられていったのです。

今日の聖書箇所は、婚礼、結婚式の話です。聖書の中でも、数少ない結婚式の話と言えるかもしれません。多くの画家たちが、カナの婚礼の絵画を描いてきました。最も有名なのが、イタリアのルネッサンス後期の画家であるヴォロネーゼという画家だと思います。フランスのパリのルーブル美術館にある最も大きな絵です。観ると圧倒されますが、壁一面すべてを使って絵が掲げられている。絵画の上部は、見上げないといけないくらいの大きな絵です。もともとこの絵はヴェネツィアにありましたが、ナポレオンとの戦いに破れて、フランスへ持ち去られてしまった絵であります。

そのことはさておき、カナの婚礼の宴席の様子が描かれています。主イエスはこの絵の中心におられる。新郎・新婦はどういうわけか、絵の左側のところに描かれています。この絵の中に、いろいろなことが描かれていますが、今日は特に二つのことをご紹介したいと思います。

主イエスの前方に、楽器を奏でる人たちがいます。披露宴のムードを盛り上げようとしているのだと思いますが、その楽器を奏でる人たちの間に、小さな砂時計が置かれています。主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」(四節)という謎めいた言葉を言われていますが、その時を数えるかのように、主イエスの前方に砂時計が置かれています。

もう一つは主イエスの後方に描かれていることです。主イエスの後方は台所になっています。主イエスや新郎・新婦がいる一階の部屋とは分けられ、二階に台所があるわけですが、ちょうど主イエスの頭上のところで、子羊が屠られています。披露宴でその肉が振る舞われ、みんながその肉を食するわけです。ヨハネによる福音書第一章に書かれていましたように、主イエスが「神の子羊」です。人間の罪を負われ、十字架で屠られる神の子羊となった。その子羊が屠られて、結婚の喜びの中にある人々に振る舞われた。ヴォロネーゼという画家は、その信仰を込めて、このような絵を描いたわけです。

教会の信仰に従って結婚式を挙げる、それはどういうことかと言うと、主イエスの支えが見えるところでも見えないところでもあることを信じて、結婚式を挙げるということです。この相手は神が与えてくださった相手であると信じ、いつでも主イエスの支えによって歩んでいくことを信じるのです。結婚式の最初のところで、司式者である私はこのように言います。

「私たちは今ここに集まり、神と証人との前において、この男女の結婚式を行おうとしています。結婚は神がはじめ人類を創造された時から定められたものであって、主イエス・キリストも、ガリラヤのカナでの婚礼に連なり、最初の奇跡を行ってこれを祝福されました。使徒パウロは結婚をキリストと教会との関係になぞらえ、また聖書は「結婚はすべての人に尊ばれるべきである」(ヘブライ人一三・一)と教えて、その意義の重大なことを説いています」。

結婚式では、夫婦になる男女を多くの人が祝福します。しかし祝福してくださるのはその人たちばかりではない。神の子羊である主イエスがおられ、主イエスも祝福してくださることを、忘れるわけにはいきません。

結婚式は人生の大きな節目になります。人間はこのような節目のときに、冠婚葬祭といった式を行ってきました。冠婚葬祭のいずれも人生の節目であります。そして単なる節目ではなく、人生の危機の訪れの時でもあります。英語で「アイデンティティー・クライシス」などと言われます。要するに自己が危機に陥るのです。

例えば冠婚葬祭の「冠」の字、これは元服のことであり、今で言うと成人になることです。現代の成人式は、式としての意味をほとんどなしていないところがありますが、昔は元服式がとても重要でした。式の前は子ども、式の後は大人。その区別がはっきりとしていたのです。もう子供扱いはしない。子どもから大人へ、一気に階段を駆け上がらなくてはなりません。それを手助けするのが、このような式でありました。

冠婚葬祭の「婚」の字もそうであります。人生の危機とは言い過ぎではないかとお考えの方もあるかもしれません。しかし、今までは自分一人で生きてきた。あるいはこの家の一員として生きてきた。結婚式を挙げた後は、違う自分にならなければなりません。一人で生きる者ではなく二人で生きる者になる、違う家族を築いていく者となる。その意味で、やはり変わらなければならない。違う自分を獲得しなければならないのです。

葬儀もまた、言うまでもないかもしれません。今までは愛する者と一緒に生きてきた。けれどもそれが絶たれた。なおも自分は地上の歩みを続けなければなりません。故人なしで地上を生きていく自分にならなければならない。そのような「アイデンティティー・クライシス」を経験し、様々な式を経て、違う自分になっていくのです。

ヨハネによる福音書の今日の箇所では、結婚式の様子が書かれているわけですが、この中に主イエスがいてくださる。そしてヨハネによる福音書を読み進めていくと、心惹かれるのは、主イエスが葬儀の場においても共にいてくださるということです。主イエスの友ラザロが死にます。もう葬儀自体は終わっていたかもしれません。しかし悲しみの中に主イエスが訪れてくださる。そしてここでも奇跡を行ってくださいます。結婚式、葬儀、その他いろいろな場面で、主イエスは私たちの人生の中にいてくださり、支えてくださるのであります。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の最初の奇跡の話であり、新しいものへと造りかえられる奇跡が記されています。ヨハネによる福音書の最後の最後のところに、こう記されています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(二一・二五)。

心に残るような表現です。この記述から分かることは、ヨハネによる福音書の著者がたくさんのことを知っていたけれども、その中から厳選してこの福音書を書き上げたということです。私たちも誰かに信仰の奨めの話をするときに、私たちが知っている知識を網羅することはしません。相手や状況に合わせて、自分が知っていることの中から選んで話を組み立てて行くと思います。ヨハネによる福音書の著者もそうでした。

今日の聖書箇所は最初の奇跡でありますが、どの奇跡を記し、どの奇跡を省くのか、かなり考えに考え抜いたと思います。そこで、ヨハネによる福音書の奇跡を概観したいと思いますが、カナの婚礼が最初の奇跡です。二番目の奇跡は、第四章四六~五四節に記されている、役人の息子を癒す奇跡です。話の舞台は今日と同じカナになります。近くの町カファルナウムの役人の息子が病に倒れ、主イエスに来て癒していただくことを求める。しかし主イエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(四・五〇)と言われる。その言葉通り、病が癒され、役人の家族たちが信じるようになる。これが「二回目のしるし」(四・五四)であります。

三回目は、ベトザタの池で体の不自由な人を癒す奇跡です。四回目は、五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人たちを養う奇跡です。五回目は、生まれつき目の見えない人を癒す話です。そして最後の六回目は、先ほども少し触れました友ラザロの復活の話です。ヨハネによる福音書の著者は、このような奇跡を厳選して自分の福音書に書き入れていきました。

これらの奇跡に共通していることは、新たに造りかえられる奇跡だということです。自然現象的な奇跡は語られない。それよりは、病の人が癒されたり、死者が甦ったり、人が新たに造りかえられる奇跡が記されます。パンもまた変えられました。少人数のためのパンが、大勢の人を養うためのパンへと変えられた。ヨハネによる福音書の奇跡は、人が変えられたり、決して尽きることのないパンへと変えられていったり、そのような新たに造りかえられる奇跡が記されていることが分かります。

本日、私たちに与えられた聖書箇所でもそうでありまして、水がワインへと変えられる。しかも大勢の人に飲まれるワインへと変えられるのです。六節のところに「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」(六節)とあります。聖書の後ろの単位表によると、一メトレテスが三九リットルであることが分かります。「二ないし三メトレテス」でありますから、仮に二メトレテス半としますと、六瓶分ですから五八五リットルということになります。かなりの量のワインです。

私たちもそうですが、結婚式や披露宴は滞りのないように備えをします。この結婚式の花婿家族もそうだったのだと思います。招待客や食事や飲み物のことにも気を遣う。しかしどういうわけか不足してしまいました。

この花婿家族が貧しかったのではないかと考える人もいます。あるいは、主イエスたちもどうやら飛び入り参加だったようでありますから、そのような予測をしない客人が多かったのかもしれません。だんだんとワインが少なくなってくる。そしてついには切らしてしまう。ハラハラしながら過ごし、ついには底を突き、困窮の中に陥ってしまったのです。

そこへ主イエスが最初の奇跡を起こしてくださる。当時の披露宴は今よりもだいぶ長く、数日間も続けて祝いがなされたようです。とはいえ、五八五リットルのワインが追加をされた。これはどう考えても多すぎるわけです。パンの奇跡もそうですが、尽きることのないものへと変えられる。皆が食べきれず、飲みきれないものへと変えられる。主イエスの奇跡はそういう奇跡でありました。

ただし、この奇跡は奇跡それ自体が重要だったのではありません。水がワインに変わった。信じられないようなことが起こった。それだけではないのです。一一節に「しるし」という言葉があります。奇跡のことですが、この「しるし」によって「弟子たちはイエスを信じた」(一一節)のであります。信じるための「しるし」になったのが奇跡なのです。

主イエスが奇跡をなさる前に、母マリアとのやり取りがありました。ただしヨハネによる福音書には、どういうわけか母マリアの名前は記されません。主イエスの母ではないマリアは、マリアという名前で記されますが、主イエスの母はいつも「母」で記されます。

母やワインがなくなってしまった、ただ困っているその事実だけを伝えます。それに対し主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(四節)という何ともそっけない返事をしました。母と子としての対話ではありません。

それでも母は引きさがりませんでした。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(五節)、召使たちにそのように言い残したのです。主イエスの母マリアは、主イエスがお生まれになる前、天使からの受胎告知の場面で、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ一・三八)と答えました。ここでも召使たちに言い残した言葉に、同じ信仰が見て取れると思います。

その後で主イエスは言われます。「水がめに水をいっぱい入れなさい」(七節)。マリアの言い残した言葉が功を奏したのか、召使たちは主イエスに言われた通りに動きます。そして奇跡が起こるのです。

不思議なのは、弟子たちの姿です。本日、私たちに与えられた弟子たちの姿は、最後の一一節にしか出てきません。カナはナタナエルの故郷であったようです。ナタナエルもこの結婚式の席にいたはずです。何をしていたのでしょうか。故郷に戻って来て、友人たちと談笑していたのでしょうか。それとも主イエスのなさったことの一部始終を見ていたのでしょうか。どういう経緯があったのかは分かりませんが、結果だけは分かっています。弟子たちは信じる者にされました。造りかえられたのです。

私たちも弟子たちと同じように、新たに造りかえられる者です。私たちの結婚式においても、葬儀においても、その他、人生の様々な場面においても、主イエスは共にいてくださいます。ヴェロネーゼのカナの婚礼の絵画に表わされているように、神の子羊の肉が、私たちに差し出されています。主イエスは屠られる神の子羊として、私たちの罪や重荷を担い、十字架にお架かりになってくださいました。人生の喜びの中にあっても、悲しみの中にあっても、いつも私たちを見えるところ、見えないところで支えていてくださいます。そのように私たちを罪ある者から罪なき者へと変えてくださる。信じない者から信じる者へ、希望なき者から希望に生きる者へ、喜びなき者から喜ぶ者へと、私たちを造りかえてくださるのであります。