松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20161009

2016年10月9日(日)
説教題「生と死への権限」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章8〜12節

ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

旧約聖書: ヨナ書4:1~11

ピラトという人物がいます。今日の聖書箇所にも出てきますが、主イエスのことを裁いた裁判官です。ローマの地方総督でした。このピラトに対してはいろいろな評価をすることができるかもしれません。主イエスのことを裁いたわけですから、悪い評価の方が多いでしょう。しかし特に今日の聖書箇所などそうですが、聖書を読めば読むほど、ピラトに対して同情的に思えてくるところがあります。これは決してピラトだけの問題ではない。自分の問題としても考えざるを得なくなってくるのです。

今日の聖書箇所の八節から九節にかけてこうあります。「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。」(八~九節)。ピラトが主イエスを裁いている裁判の間、主イエスの前に立ったり、ユダヤ人たちのところへ行ったり、あっちへ行ったりこっちへ行ったりというところがあります。ここでは再び主イエスのところへ行き、「お前はどこから来たのか」と尋ねています。どのような意味でこう尋ねたのでしょうか。

先週の聖書箇所になりますが、七節のところで、「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」とユダヤ人たちが答えています。「神の子」という言葉が出てきます。聖書学者たちが教えてくれますが、ユダヤ人以外の外国人がこの言葉を聞きますと、「神的な人」という意味に受け取るそうです。つまり、神の力を帯びた人だ、ということです。

例えば使徒言行録第一四章一一節にこうあります。「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」(使徒言行録一四・一一)。このとき、使徒パウロが足の不自由だった人を癒し、歩かせました。それを見た人たちがこのように言ったのです。まさにパウロも「神的な人」と見なされたわけです。

ピラトもそのような思いにとらわれたのです。だから「お前はどこから来たのか」と尋ねた。単に出身地を尋ねたのではありません。お前の由来はどこにあるのかということです。単に人間だけに由来するのか、それとも神からの由来があるのか、ピラトはそう尋ねているわけです。

それまでピラトは、このイエスという男は、なんでもない無力な男だと思っていたところがありました。けれども、「神の子」という言葉を聞いた。主イエスに関するいろいろな噂も耳に入って来たのかもしれません。無力な男だと思っていたけれども、もしかしたら、神の力を帯びているのではないか。謎に満ちた男のように思えてきた。

だから八節のところに、こう書かれています。「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ…」(八節)。「ますます恐れ」とあります。もっと前から恐れていたわけですが、いつから恐れていたのかは書かれていません。潜在的な恐れがあったのかもしれません。その恐れが、「神の子」という言葉によって引き起こされたのです。

ピラトは恐れた。かつて、私が観た映画に、このような映画がありました。実話ではありませんし、なんでもない映画と言えば、そうかもしれません。主人公は刑務所の看守です。死刑を執行する役目がありました。職務上、もう何人も死刑を執行してきたわけです。

ところが、あるとき、ある大男が送られてきました。殺人容疑でした。でも実は、この男は無罪でした。この男が刑務所の中で過ごしているうちに、そのことが分かる。しかもこの男には、神から与えられたとしか考えられないような、不思議な力の持ち主でした。しかしこの男の無実を証明することができず、主人公の看守が処刑をしなければならなくなる。

その場面に追い込まれたとき、この人はこういうふうに言います。「わたしもピラトのように、しなければならないのか…」。映画の字幕では、確か「ピラトのように」という言葉は訳されていなかったように記憶しています。この主人公はその恐れを感じたのです。おそらくピラトも同じような思いにとらわれていたと思います。

ついでに、この映画の続きを申しますと、この主人公はやはり看守として、この無罪で不思議な力の持ち主を処刑せざるを得なかった。そしてその後のことであります。この男の不思議な力のせいでしょうか。この主人公は、長寿を生きなければならなくなります。死ぬに死ねないのです。おそらく何十年、何百年も生き続けなければならない。幸せに長寿を全うするというわけではない。愛する者たちが次々と召されていく。でも自分は死ねない。孤独になっていく。自分の手で処刑してしまったことの苦しみを抱えながら、ずっと歩んでいかなければならない。そういう映画の終わり方です。明らかにこの映画は、ピラトと主イエスのことが描かれています。

この映画の原作者が表したかったように、今なおピラトの苦悩は続いていると言えるかもしれません。いまだに私たちは使徒信条で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白し続け、ピラトの名前が残り続けています。

今日の聖書箇所でも、ピラトは苦悩しました。本心はなんとかして、この男とかかわりを持ちたくないと思ったでしょう。そう考えると、ピラトのことを悪者扱いするのではなく、かなり同情的に考えることができるかもしれません。「そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」」(一二節)。一二節のところにこうあるように、ピラトはなんとか主イエスを釈放しようとします。しかしユダヤ人たちに押し切られてしまうのです。

ピラトは地方総督です。政治家です。今の時代の政治家とは少し違うところはあるかもしれません。しかしいつの時代でも、政治家はなんだか悪い事ばかりをしている、企んでいる。そんなふうについ思ってしまうところがあります。

しかし本当にそうなのでしょうか。最初から悪い事をするために、政治家になろうとするのでしょうか。もちろん人にもよるでしょうが、おそらく最初は純粋な思いから始まるのだと思います。世の中をよくしたいとか、社会を立て直したいとか、弱いものを助けたいとか、最初はそういう純粋な思いがあるのでしょう。そして最初だけでなく、たいていの人はどこかでその思いを持ち続けると思います。

しかし、政治家に実際になる。それは大変なことですし、政治家であり続けることも大変なことです。例えば今の時代だと選挙があります。選挙を勝たなければならない。政治家になったら様々な利権もあります。利権を確保しなければならない。それらを勝ち取るために、本来持っていたはずの純粋な思いを犠牲にしなければならない。そうなるといつの間にか、純粋な思いが薄まっていく。あるいは無くなっていく。ピラトなどまさにそういうところがあると思います。

これは決して政治家だけの問題ではありません。ピラトだけの問題でもありません。私たちの問題です。人間、誰もがこのようなところがある。そしてピラトのこのような姿勢、人間のこのような姿勢と言った方がよいですが、そのことが主イエスの十字架を引き起こしてしまった。このことを自分の問題として捉える必要があります。人間の罪がそのようにあらわにされたところで、人間の罪が最も極まったところで、主イエス・キリストの十字架が起こったのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の中に、何度か「権限」という言葉が出てきます。政治家はまさに様々な権限を持っているわけです。ピラトもこの権限のことを、主イエスの前に提示しました。

権限の問題、権威の問題です。一〇節のところで、ピラトがこう言っています。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」(一〇節)。ピラトが言っていることは、まことに正しいことです。ピラトは地方総督として、確かにそのような権限を持っていました。

しかし、よく考えてみることにしましょう。ピラトという人間そのものに、この権威があるというわけではありません。ピラトが地方総督だからこそ、このような権威があるのです。ひとたびピラトが地方総督の任を解かれたとしたら、その権限はたちどころに失われてしまいます。

私たち人間の権威など、所詮、そのようなものです。自分にこのような肩書きがある、自分にこういう財産がある、自分がこういう家柄である、そうだからこそ、権威が付随してくるのです。しかしひとたびそれらが剥がされたならば、たちどころに何の権威もなくなってしまいます。

それに対して、主イエスは言われます。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」(一一節)。ここで主イエスが言われている言葉は、少し注意して読まなければならないところがあります。「神から」となっています。しかし聖書の元の言葉には「神」という言葉はないのです。直訳すれば「上」という言葉です。かつての口語訳聖書ではこうなっていました。「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない」。新共同訳聖書では、「上から」というのを、「神から」と理解して、意訳したのでしょう。

ピラトは「お前はどこから来たのか」(八節)と主イエスに尋ねました。主イエスは何もお答えにならなかった。ピラトの問いは、お前の由来は「上から」なのか「下から」なのかということです。主イエスがお答えにならなかったようであっても、実はこのことによってきちんと答えているのです。私は「上から」来たのであり、お前は「上から」の権威を持っていないということです。

私たちの教会ではあまり聞かないかもしれませんが、教会によっては、祈りの中で「上から」という言葉をよく使うことがあります。何らかの願いがあります。「上からの力によって、与えてください」。誰々さんに「上よりの力を与えてください」というように祈るのです。人間の力によって、そのことをなすのではない。そうではなく、上からの、神からの力によって、実現してくださいとの祈りです。

主イエスは最初、ピラトからの問いかけに答えず、黙っておられましたが、ピラトが言った「権威」という言葉に対して、主イエスも「権威」という言葉でもって返されました。主イエスの権威とは神の権威ですが、どのような権威なのでしょうか。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、ヨナ書です。第四章を朗読しましたが、この箇所がヨナ書の最後になります。短い物語ですが、とても味わい深いものです。ヨナ書は預言者ヨナに関する話です。神からニネベという町に行って、悔い改めよ、そうでないと滅びる、という言葉を伝えるように言われます。しかしヨナはそれが嫌で、ニネベとは反対方向へ逃げます。船に乗りますが、嵐に遭う。海に沈んで、大魚に飲み込まれ、三日三晩をそこで過ごします。これが前半です。

後半は魚の腹から吐き出され、再び神からニネベに行けと言われます。ヨナはやり直すことができました。今度はニネベに行き、悔い改めるように人々に伝えます。そうすると本当に人々が悔い改めてしまった。ニネベはそのようにして滅亡を免れます。そして、今日の第四章へと至ります。

先日、ヨナ書に関するある解説の文章を読みました。興味深い内容でした。ヨナ書の前半と後半において、元のヘブライ語の言葉で読むと、それぞれに特徴深い言葉が出てくると言うのです。前半では「下」を意味する言葉、後半では「上」を意味する言葉が出てくるのです。

第一章三節にこうあります。「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」(ヨナ一・三)。ここに出てくる「下る」という言葉と、「乗り込み」という言葉は、実はヘブライ語では同じ言葉であり、どちらも「下」を意味する言葉です。第一章五節、「しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた」というところにある「降りて」も同じ言葉です。第二章七節、「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」、ここに出てくる「沈み」も同じ言葉です。つまり、前半の部分で、何度も「下る」「下る」という言葉が使われている。ヨナは神に逆らい、どんどんと下っていくのです。

しかし第二章七節後半から、「しかし、わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった」というように始まって行きます。神が「引き上げてくださる」ということから始まっていく。第三章二~三節に、「「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」とあります。「行って」「行った」とありますが、元の言葉は「立って」「行く」という言葉になっています。ヨナ書の前半で、どんどん下って行ったヨナでしたが、後半では神に引き上げられて立ち上がっていく。ヨナはどんどん上へ向って行くのです。

そして第四章、ヨナと神との対話が始まります。神がニネベを滅ぼすことを思い直された。ヨナとしては、自分が語った言葉が実現しないということになります。預言者の面子が丸つぶれです。神に不満を抱きます。その不満をぶつけます。相変わらずのヨナでしょうか。せっかく上へ上へとあがったのに、また下っていくのでしょうか。決してそうではありません。ヨナはもう逃げることはしない。神にまっすぐ不満をぶつけていく。

ヨナと神との間に、命をめぐる対話がなされていきます。ヨナ書は不思議な終わり方をしています。神が最後にこう言われます。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ四・一〇~一一)。

これでヨナ書が閉じられます。ヨナがその後、何と神に答えたか、記されていません。その答え方は、読者の私たちに問われていることでしょう。ヨナは自分の死を願ったり、また急に元気になったり、いろいろです。しかし本当のところは、ヨナに対しても、ニネベの町の人々に対しても、その生と死の権限をお持ちなのは神なのです。ヨナにはその権限がない。人間には決して与えられない権限なのです。

このことを踏まえつつ、ヨハネによる福音書に戻りますが、ピラトは主イエスを十字架に架ける、無罪にする、その権限を確かに持っていました。その意味では正しいことを言っているのです。しかしその権限も、所詮、地方総督の任が解かれれば失ってしまうもの。人間には、本当の意味での生と死の権限はないのです。

一一節後半のところで、主イエスがこう言われています。「だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」(一一節)。ここでの「罪」という言葉は、ピラトが使っている「罪」という言葉とは違います。ピラトは法廷用語を使いました。このイエスという男は、裁判で訴えられるようなことは何もしていない、罪なし、無実だという意味で、「罪」という言葉を使いました。しかし主イエスがここで使われている「罪」という言葉は、聖書が言っている「罪」のことです。神に対する罪です。神がその独り子を送って下さったというのに、その神の子を抹殺してしまう罪です。

私たちはこの「罪」に対して、何の権限もありません。それどころか、いつでもこの罪に負けてしまうものです。脅かされているものです。恐れに駆られているものです。神の独り子を十字架の死に引き渡してしまう。重い罪だと主イエスは言われる。絶対にあってはならないことが起こりました。

しかしそのあってはならないところで、私たち人間の罪の赦しが起こりました。主イエスが人類の罪を背負い、十字架にお架かりになってくださった。十字架は確かに人間の最も深い罪が現れたところです。しかしそれ以上に、人間の罪が赦されたところでもあるのです。神の赦しの力の方が勝った。十字架こそが、私たちの救いなのであります。