松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年12月4日(日)
説教題「葬りの中の希望」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章38〜42節

その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

旧約聖書: 創世記23:1~20

「人生の終着駅は墓場ではない」。私が以前、ある教会を訪ねた時に、教会前の看板に掲げられていた説教題です。次の日曜日の説教題です。私がお訪ねしたのは平日の日です。次の日曜日の実際の説教を聴いたわけではありません。どのような説教だったのかは分からないものの、その言葉の力強さを感じました。今でもよく覚えています。

私たちは愛する者が召されますと、一連の葬りをすることになります。やり方が必ずしも決まっているわけではありませんが、前夜の祈りをします。棺に納めます。葬儀の礼拝をします。火葬をします。ここまでは一気に進んでいくところがあります。愛する者が召され、悲しみのうちに過ごすわけですが、悲しんでもいらないようなところがあるかもしれません。

火葬まで終わり、その後、しばらく時間を置く場合が多いのですが、墓に埋葬をします。後日、ご家族の方々と、埋葬のときに再びお会いすることになりますが、以前の時、この時では少し空気が変わっているのを、感じることがあります。愛する者を丁重に葬ってきた。息を突く間もなく、一気に駆け抜けてきたところがあります。もう残されたやるべきことは、埋葬をすることだけです。

その埋葬も無事に終わる。やるべきことが終わった。人間の手でできることはそこまで。後は神に委ねる。そこでようやく息をつくことができる。そのようにして空気が変わるのです。

私たち人間の手でできることは、確かにそこまでであります。しかしそこですべてが終わりなのでしょうか。人生の終着駅が墓場なのでしょうか。教会の信仰ではそうではありません。まだその先があります。日本人も漠然と、死後のことについて、何らかのことを思っているところがあると思います。日本の今までの風土がそのようにさせているところがあるのでしょうか。死後のことを踏まえつつ、日本でこれまでなされてきたしきたりのようなものがあります。なんとなく、こうなのではないかという感覚があるかもしれません。

しかし、私たちは聖書をもとに考えます。そして聖書をもとに信じていくのです。死後、いったいどのようになるのか。聖書が私たちに教えてくれることは多いというわけではありません。しかしはっきりと言うことができることが一つあります。それは、イエス・キリストのたどられた道を、信じる私たちも歩むことができるようになるということです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエス・キリストの埋葬のことが記されています。先週の聖書箇所では、主イエスの十字架での死の確認がなされました。ある兵士が主イエスの脇腹を突き刺し、その死を確認しました。今日の聖書箇所では、数人がかりで主イエスの埋葬をしています。

その埋葬をする人たちの中に、アリマタヤ出身のヨセフという人物が出てきます。「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」(三八節)。

このアリマタヤのヨセフは、主イエスの埋葬の場面で、四つの福音書すべてに出てくる人物です。マタイによる福音書では、「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人がいた。この人もイエスの弟子であった。」(マタイ二七・五七)と出てきます。

マルコによる福音書では、さらに興味深い記述で出てきます。「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。」(マルコ一五・四三)。

ルカによる福音書ではこうです。「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤ出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところへ行き…」(ルカ二三・五〇~五二)。

これらの聖書箇所から総合して分かることは、アリマタヤ出身のヨセフはある程度、有力な議員であった。この世の力があった。財産もあった。しかし主イエスのことを慕い、隠れた弟子でもあった。そして今まではずっとそのことを隠してきたけれども、埋葬の場面に至って、ついに勇気を出して、主イエスと自分との関係を明らかにし、埋葬にかかわったということです。

この人は議員であり、財産があったゆえに、庭付きの墓を所有していました。「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」(四一節)。旧約聖書を読んでいると、王が墓付きの墓地に葬られた、などという記述に出くわすことがあります。主イエスの十字架の上には、「ユダヤ人の王」という札が掲げられていましたので、王として主イエスが葬られたことが示されているのかもしれません。

いずれにせよ、主イエスはアリマタヤのヨセフが、所有していた墓に葬られることになりました。主イエスの復活の出来事が第二〇章に続いていますが、マグダラのマリアは、復活した主イエスが立っておられるのを「園丁」(二〇・一五)だと勘違いしたと記されているくらいです。園丁がいるくらいの立派な墓です。アリマタヤのヨセフからすると、本当は自分が入ろうと思って用意していた墓だと思います。その自分が入る予定だった墓に、イエスさまどうぞという形で、主イエスのお体を埋葬した。それが、アリマタヤのヨセフの思いでした。

主イエスの埋葬にかかわったもう一人の人物が出てきます。それがニコデモです。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」(三九節)。ニコデモは、ヨハネによる福音書だけにしか出てこない人物です。三回の場面で登場してきます。絵画でも彫刻でも、ほとんどの場合、老人として描かれています。なぜでしょうか。

一つには、ヨハネによる福音書第三章の記述からです。アリマタヤのヨセフと同じようなところがありますが、ニコデモは誰の目にもとまらないように、闇にまぎれて、こっそり主イエスのところを訪ね、主イエスと対話をしたことがあります。

その対話の中で、主イエスがこのように言われます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(三・三)。それに対し、ニコデモは答えます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(三・四)。おそらくこのニコデモの言葉から、ニコデモは老年だったと思われます。自分のことを「年をとった者」と言っていますから。

ニコデモが老人だった、もう一つの理由は、今日の聖書の箇所です。「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」(三九節)という記述からです。「没薬と沈香」というのは、埋葬のときに使います。遺体のにおいを防ぐためのものです。主イエスがお生まれになったとき、東の国の学者たちは「黄金」「乳香」「没薬」を献げ物として持ってきます。そのときの「没薬」が、すでに主イエスの十字架の死が暗示しているなどと言われることもあります。

ニコデモは「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり」持ってきました。「リトラ」とは何でしょうか。聖書の後ろの方にある単位表では、一リトラが約三二六グラムと記されています。つまり、百リトラは三二.六キログラムということになります。持って行くだけでも大変な量です。皆さまの中に、それほどの香料を今、ご自宅に持っている方がおられるでしょうか。おられないと思います。それなのになぜニコデモが持っていたか。考えられる理由は一つです。自分ももう老年になった。自分の死に備えて、自分のために用いる「没薬と沈香」を備えていたのです。

だからこそ、主イエスの十字架の死の場面でも、タイミングよく持ってくることができたのです。本当は自分もために用意していた。けれども、イエスさまどうぞという形で、差し出した。そしてそれが用いられて、主イエスのお体を埋葬した。その意味で、ニコデモもアリマタヤのヨセフと同じ思いだったということになります。

アリマタヤのヨセフもニコデモも、本当ならば自分のためのものだったけれども、イエスさまどうぞ、という形で差し出した。主イエスは十字架で処刑された人です。勇気が必要だったでしょう。しかし彼らは主イエスとの関係を明らかにした上で、これらのものを差し出したのです。

特に、アリマタヤのヨセフのその後のことを、少し考えてみたいと思います。自分の墓を提供しました。主イエスがそこに葬られます。大急ぎで葬りました。「その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」(四二節)。この日は過越祭の準備の日であり、翌日が安息日だった。翌日は遺体を埋葬するなどという労働はできませんので、日が暮れないうちに、大急ぎで葬りました。しかし丁重に、自分が本来入るべきところに葬りました。

第二〇章に入りますと、主イエスがお甦りになり、その墓から出られます。つまり、アリマタヤのヨセフの墓が空っぽになりました。主イエスが葬られ、主イエスがお甦りになられたその空になった墓に、やがて自分が葬られることになったわけです。そのときのヨセフの思いはどうだったでしょうか。ヨセフは何を思って死んでいったでしょうか。

聖書に書かれていませんので、想像する以外にはありませんが、おそらくヨセフも、ここが自分の人生の終着駅ではないと信じて、死んでいったと思います。主イエスがここに葬られたけれども、ここからお甦りになられた。主イエスの弟子として、主イエスの死と復活の後に、自分も続く者になることを信じていたと思います。

もうすぐクリスマスです。今年は一二月二五日の日曜日に、クリスマス礼拝を行います。そのクリスマス礼拝で、洗礼式を行う予定です。受洗志願者に、受洗の学びの中でも申し上げることですが、洗礼を受けるということは、古い自分に死んで、新しい人に生まれ変わることです。洗礼式の中で必ず読まれる聖書の箇所に、こういう言葉があります。

「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」(ローマ六・三~四)。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ六・八)。

これが洗礼によって神から与えられる約束です。私たちが洗礼を受ける。それは単なる儀式ではありません。十字架で死なれたキリストと一緒に死ぬことを意味する。そして同時に、墓からお甦りになられたキリストと一緒に生きることを意味する。その意味で、古い自分に死に、新たな人に生まれ変わるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所には、アブラハムの妻であったサラが死に、埋葬をする出来事が記されています。愛する妻、サラを葬る。いろいろな思いがあったと思います。しかしアブラハムが抱いていたのは、ここでも神の約束を信じて、サラを葬るということでした。

今日の旧約聖書の箇所には、アブラハムがこの地での埋葬にやたらとこだわっている様子が記されています。なぜでしょうか。創世記第一二章四節以下にこうあります。

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」(創世記一二・四~七)。

このときはまだアブラムという名前でした。七五歳の時に、旅に出よと神から言われます。サラは六五歳でした。サラが死んだのは一二七歳でしたから、後半の半分くらいが、アブラハムと共に、旅をしていた人生ということになります。この第一二章七節に「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の言葉が記されています。神の約束です。アブラハムとサラはこの約束を信じ続けて旅をした。そして死んでいった。そういう人たちです。

「この土地」とはいったいどこか。それがカナン地方と呼ばれるところでした。サラが死んだのもこの土地でした。ところが、アブラハムたちは寄留者でした。旅人ですから、土地を持っていなかった。そこで、アブラハムはこの地にサラを葬るために、土地を得ようとするのです。そこの住人は「どうか、御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」(創世記二三・五~六)と言います。

なんだかとても好意的ですが、この言葉では、アブラハムが土地を売ってもらったのか、土地を貸してもらったのか、曖昧なところがあります。そこでアブラハムは粘り強く交渉を続け、土地を売ってもらう。「銀四百シェケル」(二三・一五)というのは、相当な額ですが、いずれにしてもアブラハムはきちんと代価を支払い、土地を手に入れ、サラを葬った。

この聖書箇所は、アブラハムが初めて「約束の地」の土地所有者になった話でもあります。アブラハムもやがて百七十五で死に、サラと同じところに埋葬されることになります(創世記二五・七~一一)。サラやアブラハムだけではありません。息子のイサクも、その息子のヤコブも、この同じところに埋葬された。

その息子のヨセフの埋葬はもっと壮大な物語で、ヨセフもこの地に埋葬されることを願い、エジプトで死にました。その遺骨はモーセによって出エジプトの時に携えられ、モーセの後継者のヨシュアに引き継がれ、ヨシュア記の終わりのところでようやくカナンの地に葬られることになります。いずれの人たちも、神の約束を信じて、この地に埋葬されていったのです。

アブラハムもサラも、寄留者であったことを覚えたいと思います。私たちもそうです。この世では寄留者です。神のもとから来て、神のもとに召されていく。たとえこの地上で、広大な土地を手に入れたとしても、私たちに最後に必要なのは、ごく小さな埋葬をするためのスペースです。庭付きの墓だとしても、それは飾りにすぎない。最終的に私たちは小さな墓へと赴きます。

しかしその墓が終着駅ではありません。最初の説教題を思い起こしたいと思います。「人生の終着駅は墓場ではない」。キリスト者なら誰も言うことができる言葉です。その胸に抱いて死んでいくことができる言葉です。

私たちキリスト者は根拠なく、埋葬の中で希望を抱くのでも、あやふやな復活を信じるのでもないのです。キリストが死にまでその足を伸ばしてくださった。そしてそこから甦ってくださった。キリストが切り開いてくださった、そのような道がすでにあるのです。

アリマタヤのヨセフのように、私たちがやがて赴くことになる墓にも、キリストの足跡がすでに残されています。キリストが私の墓に先に入ってくださった。そしてそこから出られた。そのことが、私たちの希望になるのです。