松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年11月27日(日)
説教題「聖書に基づく現実」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章31〜37節

その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

旧約聖書: 詩編34

主イエス・キリストが十字架での死を遂げられた。聖書には、神の独り子が十字架で死なれたことが、中心点として書かれています。しかしそれで終わりというわけではありません。私たちも親しい者が死んだら埋葬をします。私たちもやがて埋葬されます。主イエスも私たちと同じように埋葬されました。十字架の後に、埋葬が続くのです。

聖書は、主イエスが埋葬されたことを、私たちが想像する以上に大事にしているところがあります。私たちが先ほど告白した使徒信条にも、主イエスが十字架で「死にて葬られ」とあります。主イエスが単に死なれ、すぐに復活するという文言が続くのではない。埋葬のことが間に挟まれる。その埋葬のことが丁寧に聖書に書かれているのです。

教会員の方が召されますと、葬儀をします。たいていは葬儀の前夜になりますが、前夜の祈りをします。ご家族や親しい者たちが集まって、短い祈りの時を持ちます。そしてその際に、納棺というものをします。召された方のお体を、棺に納め、明日の葬儀、火葬への備えをするのです。

近頃は、埋葬の仕方もいろいろな形式も増えているとのことを聞きます。場合によっては散骨するという考えもあるのかもしれません。しかし私がもしご家族から散骨をしたいと言われた場合、少し困ってしまうことになります。なぜか。松本東教会の教会墓地には「信ずる者は永遠の生命をもつ」(ヨハネ六・四七)と刻まれています。キリスト者は、聖書に従い、復活の望みを抱いています。

主イエスもお甦りになられました。パウロが記した言葉によれば、私たちも「霊の体」で甦る。そうであるならば、体を大事にしなければならない。もちろん、火葬するわけですから、体はなくなります。しかしここに眠っているということを、明確に言えた方がよいと思います。散骨するよりは、お骨であろうときちんとお墓に納めた方が聖書的だと思います。主イエスもお墓の中に、丁重に埋葬されました。

当たり前のことですが、葬儀をする際には、その方が本当に死なれたという確認が必要です。医師に死亡診断書というものを書いてもらうことになります。そして、葬儀や火葬の打ち合わせをご家族としていくわけですが、死亡診断書の時刻から二四時間が経たないと、火葬をすることができません。私たちは、医師に死んだということを確認してもらう。そして二四時間という時間が経過することによっても、死を確認する。死の確認というのも、大事なことであります。

主イエス・キリストの場合もそうでありました。本当にこの方は十字架に架かられた。それだけではなく、本当にこの方が死なれた。今週と来週の聖書箇所は、主イエスの埋葬の場面が記されていますが、主イエスが本当に死なれた、その確認がなされているのが、本日、私たちに与えられた聖書箇所に記されていることです。

主イエスの十字架での死をどのように確認するのか。槍で突くという方法がなされました。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。」(三四節)。

伝説上の人物ですが、ロンギヌスという人がいます。聖ロンギヌスとも言われます。ローマ帝国の百人隊長で、主イエスの十字架に立ち会った人物と言われています。その左の脇腹を槍で刺しました。もちろん、どの福音書の中にも出てきません。あくまでも伝説上の人物です。彼は盲目、あるいは白内障であった。目に障害を抱えていたわけですが、主イエスの脇腹を刺した時に、その血が目に振りかかった。そのことによって視力が回復した。その出来事があってか、彼は回心し、洗礼を受けた。今でもその時の槍がどこかに保管されているとの話まであります。

絵画の世界におきましても、この場面というのは、極めてよく描かれます。主イエスの十字架の場面。左脇を注目していただくと、たいていの絵画には傷がしっかり書かれています。左脇というのは、心臓に近い位置だからでしょうか。聖書の記述によれば、そこから「すぐ血と水とが流れ出た」(三五節)とあります。

絵画のキャンバス上では、水を表現するのはなかなか難しいのかもしれませんが、主イエスの脇腹からしっかりと血が流れ出ている。そして絵画によっては、天使が杯を持って主イエスの血と水を受けとめていたり、場合によって教会の聖職者のような者が、やはり杯をもって主イエスの血と水を受けとめている。教会はその血と水によって、洗礼を行い、聖餐を祝っているということを受け留めているわけです。

このような絵画の中に描かれていることは、史実としては少々無理があるかもしれません。しかし主イエスのこの場面というのは、様々な形で解釈されてきましたし、様々な伝説が生まれてきた場面でもあるのです。主イエスの血と水で何を表しているのか。

一つには、主イエス・キリストがまことの人間だということを表しているということです。ヨハネによる福音書と密接な関係があると言われているヨハネの手紙一に、このように記されています。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。」(Ⅰヨハネ五・六)。人間の中に備わっているものとして、「水と血」が挙げられています。主イエスは見せかけではなく、本当の人間だと言われているわけです。

もう一つ、大事なことがあります。それは、先ほどの絵画の杯を持った教会の聖職者に表れていると言えるかもしれません。キリストの血と水が、教会にとって極めて大事だということです。

例えば、パウロがローマ教会に宛てて書いた手紙の中に、このようにあります。「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)。私たちはキリストの十字架で流された血に洗われるようにして、罪赦された、義とされたと言うのです。

エフェソ教会に宛てた手紙の中にも、こうあります。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:25-27)。キリストの水による洗いによって、教会がきよめられた。しみやしわなど一切ない状態にされた。

教会は、キリストの血と水を極めて大事なものとして受けとめてきました。私たちが洗礼を受ける水、私たちが聖餐でいただく杯。それらは、キリストが十字架で流された血と水であるとして、受けとめてきたのです。

今日の聖書箇所の最初のところで、足を折ることに関する記述があります。「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。」(三一節)。準備の日とは、過越祭のための準備の日です。具体的に何をするか。小羊を屠ることをします。各家庭でそれを食し、過越祭を祝うのです。

準備の日の翌日は特別な安息日でした。安息日というのは、文字通り安息をしなければならない。遺体の処置や埋葬などはできないわけです。しかも夜通し遺体をさらしておくわけにもいきませんでした。そこで、主イエスの埋葬も急がなければならなかったわけです。

そこで、足を折るということがなされます。十字架上で虫の息となっていた者に対して、なんとも残酷な話ですが、棒のようなもので足を叩き、足を折ることがなされていたようです。絶命を早めるためです。十字架の左右の者たちに対しては、まだ息があったのでしょうか。足が折られます。ところが、主イエスの息を確認したところ、もうすでに息絶えていた。なぜ主イエスの絶命が他の二人よりも早かったのか。十字架の前に鞭で打たれていたからとか、前日の夜は徹夜だったからとか、いろいろな説明がなされています。しかしいずれにしても、主イエスは足が折られなかった。

なぜそのようなことまで、事細かく書かれたのでしょうか。一つの理由は、過越祭と関係があります。旧約聖書の出エジプト記の第一二章に、主の過越に関する記述があります。この時、イスラエルの民は、エジプトで奴隷生活をしていました。モーセがリーダーとして立てられ、エジプトを脱出しようとします。ところが、王様であるファラオがなかなか去らせてくれません。そこで、エジプトの国中で、次々と災いが起こっていきます。それでもファラオはかたくななままです。

そして最後の災いが起こります。エジプト中の初子が撃たれるという災いです。ただし、小羊の血を入口の柱のところに塗っている家は、その災いが過ぎ越す。イスラエルの人たちは事前にそうしていましたので、イスラエルの人たちの家にはその災いが起こらなかったわけです。このような災いが起こってはたまらん、ということで、ファラオはようやくイスラエルの人たちを奴隷から去らせてやる。自分たちが奴隷の家から救い出された。その記念として、小羊を屠り、それを食べて祝うのが過越祭だったのです。

出エジプト記のこの記述の中に、このように記されています。「一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。」(出エジプト一二・四六)。なぜかはよく分かりませんが、骨を折ってはいけないことが言われています。確かにこのように小羊が犠牲になりました。その犠牲の上に、イスラエルの民は救われたのです。その小羊と主イエスが重ねられている。主イエスの足も折られることはなかった。つまり、主イエスこそが神の小羊であり、その犠牲によって私たちが救われたのだということを、表しているのです。

足が折られなかったことに関して、もう一つのことを加えたいと思います。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第三四編です。最後の方に、このようにあります。「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」(詩編三四・二〇~二一)。

「主に従う人には…」、幸いが与えられるではないのです。「主に従う人には災いが重なる」とまず言います。場合によっては、足を骨折するようなこともあるのかもしれません。しかし、最後にこのようにあります。「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。」(詩編三四・二三)。

この詩編第三四編は、聖餐を祝う礼拝の際、招きの言葉としてお読みしている詩編です。六節から一〇節のところです。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。」(詩編三四・六~一〇節)。

「味わい、見よ」と言われています。主イエスの骨が損なわれなかったように、私たちの存在も損なわれないようにしてくださる。その恵みを「味わい、見よ」ということです。たとえ骨折するようなことがあったとしても、「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。」(詩編三四・二三)、そのような言葉によって、私たちの人生を結ぶことができるのです。

今日の聖書箇所の最後の三七節にこうあります。「また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。」(三七節)。これも旧約聖書からの引用です。ゼカリア書にこうあります。「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカリア一二・一〇)。

このゼカリア書には、厳しい言葉が多く並べられています。イスラエルの民が神に対して罪を犯した。神に罪を犯すとは、神を遠ざけることです。神さま、あなたなどもう要らない。そのようにしていわば神の言葉を遠ざけ、神を殺すことです。ゼカリア書での「彼ら」とはイスラエルの民のこと、「わたし」とは神ご自身のことです。イスラエルの民である「彼ら」が主なる神である「わたし」を刺し貫く。

ヨハネによる福音書において、このゼカリア書の言葉が引用しているのです。主イエスが槍で突かれました。槍で突いた兵士だけではない。十字架に主イエスを架けた者たちだけでもない。主イエスの母マリアも、女性たちも、主イエスの愛する弟子もこの場に居合わせました。皆が刺し貫かれた主イエスを目撃したのです。三五節にこうあります。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」(三五節)。この福音書の著者、あるいは少なくとも深いかかわりがあると認められる記述です。ゼカリア書の聖書の言葉も、このようにして実現したのです。

新約聖書には、このような形で旧約聖書の引用がけっこう多くなされています。本日、私たちに与えられた聖書箇所でも、少なくとも二箇所があります。少し前の第一九章二四節にも、主イエスの服の取り分を決めるに際して、くじ引きがなされましたが、これも旧約聖書の実現だと言うのです。

そのような多くの引用の中で、「その骨は一つも砕かれない」(三六節)という引用の仕方は、他の引用とは違う、特異な引用の仕方と言えます。三七節の「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」もそうですが、普通はこういうことが実現した、という形で引用されます。ところが、「その骨は一つも砕かれない」(三六節)というのは、こういうことが実現しなかった、という形で引用されているのです。

なんでもない例えですが、先週の木曜日、松本では雪が降りました。一一月の雪でありましたので、早すぎる雪でした。慌てて冬の装備を施した方も多いと思います。金曜日、私は遠くまで出かける用事がありました。幸い、木曜日中に冬の装備が終わり、金曜日は雪が降りませんでしたので、無事に出かけ、帰ってくることができました。木曜日には雪が降るということが実現したけれども、金曜日には実現しなかった。だから道中が守られたと私は受け止めています。

私たちが生かされている現実の中で、いろいろなことが起こって行きます。こんなことが起こった、あんなことが起こった、起こったことを一つ一つ受けとめて行けば、たくさんの出来事が起こっていきます。しかし他方で、起こらなかったこともたくさんあるはずです。起こった出来事以上に、起こらなかった出来事の方が多いと言った方がよいかもしれません。

ヨハネによる福音書の著者はそのことに目を留めました。他の福音書の著者は、主イエスの十字架の場面で、このようなことは書いていません。こういうことが起こった。しかしこういうことも起こらなかった。骨の一本も損なわれることがなかった。主イエスは私たちを救うための神の小羊という犠牲として屠られたのです。

主イエスの十字架、埋葬という現実が二千年前にありました。聖書に基づく現実です。私たちが生かされている現実もまた、このような聖書に基づいているものです。こういうことが起こった。こういうことが起こらなかった。神が私たちも救い、守り、導いてくださる現実がここにあるのです。