松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年11月20日(日)
説教題「成し遂げられた」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章28〜30節

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

旧約聖書: 創世記2:6~7

人生の最期にどんな言葉を言って死ぬか。そのことを考えたことがあるでしょうか。普段、私たちは数々の言葉を口にしています。これが最後の言葉になるなどと考えて、あまり発言をしないでしょう。しかし誰もがいつかは必ず死ぬことになります。そしてそれと共に、私たちの最後の言葉というものがあるわけです。

テレビドラマや映画などで、脚本を作る場合を考えてみます。多くの登場人物がいて、その中のある登場人物が最期を迎えることになります。その際に、どんなセリフをその登場人物に言わせるのか。脚本家としての腕の見せどころということになります。おそらく、その人の生き様を表しているような言葉を、最期のセリフとして書くことになるでしょう。

この問題は、脚本の中の世界だけでは済まないところがあります。私たちの問題でもあります。自分の人生の最期に、何を言って死ぬのか。これは大きな問題です。もちろん、私たち人間の死に方は様々です。最期の言葉を言う間もなく、突然、召されてしまうことだってあるでしょう。しかし、最期に何を言うか、あるいは言えなかったとしても、何を思って人生を終えるのかというのは、とても大事なことです。自分の人生の生き方を問われることだからです。

そう考えると、最期の言葉というのは、決して人生の最期だけの問題では済まなくなります。今、私たちが生きていく。いろいろなことを考えていく。いろいろな言葉を発していく。それらのすべてが問われる中で、最期の言葉が出てくるということになるからです。

先週の説教でも申し上げましたが、主イエス・キリストが十字架にお架かりになり、その十字架上で主イエスの口から発せられた言葉が、全部で七つあります。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書では三つです。後で順番に確認したいと思いますが、今日の聖書箇所の直前の箇所に一つ、そして今日、私たちに与えられた聖書箇所の中に、いずれも短い言葉ですが二つあります。「渇く」(二八節)と「成し遂げられた」(三〇節)です。先週の説教は「渇く」という言葉に集中して御言葉を聴きました。今日は「成し遂げられた」に集中して、御言葉を聴きたいと思っています。

これら十字架上の七つの言葉は、四つの福音書のそれぞれの箇所に記されているものですが、時系列として、どのような順番で語られたのか。だいたいにおいて定められています。

最初の言葉がこうです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ二三・三四)。これはルカによる福音書だけが記録しているものですが、十字架上に主イエスが架けられて、まもなくすぐに言われたものと思われます。まさに今、自分を十字架に架けている者たちのことを覚えて、執り成しをしてくださった言葉です。

そしてルカによる福音書のその続きの箇所ですが、主イエスの十字架の左右に一人ずつ犯罪人が一緒に十字架につけられていました。その犯罪人との対話の中で、主イエスが言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ二三・四三)。これが二番目です。

それから、今日の聖書箇所の直前の箇所になりますが、主イエスと母マリア、愛する弟子との間で短い対話がなされます。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ一九・二六)。「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ一九・二七)。これをセットにして三番目です。主イエスの十字架によって新たな家族が生まれたことが言われています。これがいわば十字架の場面の前半と言えるでしょうか。

主イエスが十字架にお架かりになり、どのくらい時間が経過したときのことだったのかよく分かりませんが、後半に入ったと言ってよいと思います。主イエスが十字架上で叫ばれます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)。これが四番目です。

そして主イエスが息を引き取られる直前になりますが、短い言葉を言われる。マタイによる福音書やマルコによる福音書では、大声を出されたと記されているだけですが、ルカによる福音書やヨハネによる福音書では、きちんとそれを記録してくれました。

まず主イエスが言われたのが、本日の聖書箇所にあるように「渇く」(二八節)です。これが五番目。そして六番目の言葉として「成し遂げられた」(三〇節)。そしてこの直後、息を引き取られたということが記されます。

それでは七番目は何か。ルカによる福音書にこうあります。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ二三・四六)。このように主イエスが言われて、息を引き取られたことが記されています。

ヨハネによる福音書とルカによる福音書では、最期の言葉が微妙に違うということになるかもしれません。もちろん、辻褄を合わせる考え方もあります。今日の聖書箇所の最後に、「息を引き取られた」(四〇節)とあります。これは後で詳しく触れますが、元の言葉では「霊を渡す」という意味の言葉です。霊を渡す、つまり「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ二三・四六)と同じことが表されているわけです。

もっとも、四つの福音書を、無理やり調和させる必要はないと思います。ルカによる福音書は、ルカによる福音書の最期の言葉に意味を持たせているわけですし、ヨハネによる福音書だってそれは同じであります。私たちとしては、「成し遂げられた」という言葉が主イエスの最期の言葉であるとして、今日の御言葉を聴き取りたいと思います。

「成し遂げられた」。どういうことでしょうか。かつての口語訳聖書では「すべてが終わった」と訳されていました。さらに昔の文語訳聖書では「事終わりぬ」となっていました。「成し遂げる」と「終わる」のでは、受ける印象がだいぶ違うと思います。「終わった」というと、場合によっては絶望のうちに、ああ、もう何もかも終わりだ…、という意味で言われた言葉のように感じてしまうかもしれません。

しかしここでの言葉はそういう意味ではありません。ニュアンスとしては完了したということです。新改訳聖書では「完了した」と訳されています。なすべきことがすべてなされた、そういう意味です。主イエスにとって、まだやるべきことが残されていたのに、志半ばで十字架に架けられて死んでしまう、というのではないのです。これが最期。最期だけれども、言い残すこと、やり残したことが何もない。これで完了という意味の言葉を主イエスは言われたのです。

四〇節に「頭を垂れて」とあります。十字架の上で息を引き取ると聞くと、どのようなイメージを抱かれるでしょうか。首をガクンと垂れるようなイメージを想像されると思います。

しかし、聖書学者たちが教えてくれることですが、どうもこの「垂れる」という言葉は、そういう意味合いの言葉ではないようです。この言葉は、元のギリシア語の発音で「クリノー」と言います。これを名詞にすると「クリネー」になります。寝床、寝台、床、担架という意味になります。どう考えても、体を横たえるものばかりです。首を前にガクンと垂らすよりも、首を後ろに落ち着いて寝かせるという意味合いを持つ言葉なのです。

実際の十字架上ではどうだったのか。それは確かに、前か後ろか、左か右かは分かりませんが、首を垂らすことにはなったと思います。しかしこの主イエスの死は、「成し遂げられた」死です。この首を垂れた主イエスの死に方は、やるべきことをすべて成し遂げた。ある意味では、そのような安らかな死であったとも読み取ることができるでしょう。

「成し遂げられた」。今一度、この言葉のニュアンスを、聴き取っていただきたいと思います。「成し遂げられた」です。「成し遂げた」ではないのです。文法的に言ってもこれは受け身の形です。「成し遂げた」と「成し遂げられた」とでは、まるで意味合いが違ってきます。そして、人生の最期に「成し遂げた」と言って終わるのと、「成し遂げられた」と言って終わるのも、まるっきり違う人生を歩んできたということになります。

「成し遂げた」、そのように言って人生を終えた人のことを、考えてみましょう。なかなか「成し遂げた」などと言って死ぬ人はいないと思います。仮にそう言えたとすれば、それは自分の力によって自分で生きてきたということになります。しかし、そんな人は本来ならばいないはずです。その人生において、必ず「成し遂げられなかった」こともたくさんあったはずです。つまり、本当の意味で「成し遂げた」人なんかはいない。せいぜい、自分の力で、なんとか人並みに生きてきた、その程度のことを、「成し遂げた」と言うのでしょう。

私たちキリスト者の歩みはどうでしょうか。これとは正反対の歩みを私たちはなしています。キリスト者は、主イエスのお言葉を借りて言うならば、自分が何かを成し遂げたことよりも、成し遂げられたことを知っている者たちです。受け身であることを学んでいくのが、キリスト者としての歩みです。

私は牧師です。牧師として、これをする、あれをする。今日はここで説教を語っています。確かに私が語っています。しかし私だけが主体として語っているのかと言うと、そうではありません。使徒言行録には、ペトロをはじめとして使徒たちが、聖霊に満たされて語っていることがはっきりと書かれています。自分が「成し遂げる」のではない。「成し遂げられる」のです。

このことは何も牧師だけの話ではありません。キリスト者すべてに言えることです。信仰を持ち、洗礼を受けて、キリスト者になる。自分がキリスト者になることを選んだと最初は思っているところがあるかもしれません。しかし自分が選んだのではない、選ばれたことを学んでいきます。受け身であることを体得していくのです。自分が主体となっていろいろとやってきたようだけれども、自分は導かれてやってきたことを知ります。生きているのではなく、生かされているのです。

そのようにして歩んできた時に、「成し遂げられた」という言葉を、私たちも人生の最期に、主イエスに倣って言うことができます。実際にそういう言葉を口にできなかったとしても、キリスト者の人生というのは、そういう人生なのです。自分の人生を、自分が「成し遂げた」人生ではなく、神に導かれ、「成し遂げられた」人生として、受けとめることができるのです。

主イエスはこのようにして、「息を引き取られた」(三〇節)。「息を引き取る」というのは、日本的な表現なのかもしれません。死ぬということを婉曲的に言っているわけです。「息を引き取る」、なぜこのような表現で言うのでしょうか。当然ならば、死ぬと息をしなくなります。それまでは息をしていた。最期の瞬間、息をすべきところで息をしなくなる。その息を自分の中に吸い込む、引き入れるということから、「息を引き取る」という言葉が使われているようです。

しかし、ある聖書学者が指摘しているように、聖書はまるで逆のことをここで言っています。元の言葉では、息を自分の中に入れるのではなく、むしろ反対の方向性です。直訳すれば「霊を渡す」、「霊を引き渡す」となります。ちなみに、息と霊と風は、日本語では皆、違う言葉ですが、聖書の元の言葉では同じなのです。「風を渡す」というと少しおかしくなりますが、「霊を渡す」「息を渡す」という意味なのです。

それでは、「霊を渡す」として、主イエスはいったい誰に霊を渡されたのでしょうか。一つには、神に対してです。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記第二章六~七節です。聖書の人間観がよく表れています。人間が造られます。土の塵で形づくられます。

しかしこれだけでは、人は生きる者にはなりませんでした。「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記二・七)。人間には神の霊が吹き入れられてと言うのです。それが入れられて生きる者となる。死ぬということは、この霊が出て行くことにもなる。つまり、人間として歩まれた主イエスは、ここで本当に死なれ、霊を父なる神にお返しになった。まずはそう考えることができます。

しかし、キリスト者たちは、もちろんそのことも考えますけれども、それだけではなく、主イエスの霊が十字架の周りにいた者たちに渡されたとも信じてきました。十字架の周りにいた者たちから、教会が始まっていきます。教会の私たちもまた、主イエスの霊を、息を、風を受けていると信じてきたのです。

この霊、息、風は、主イエスの十字架を源とします。ここから吹いてくるのです。そしてここに教会の土台があるのです。主イエスが私たちの罪を背負い、死んでくださった十字架がその土台です。ここで罪との戦いが成されました。「成し遂げられた」戦いです。キリストがその戦いに、もはや何も加える必要がないほどに勝利をしてくださいました。私たちはキリストを信じ、キリストに従う者として、「成し遂げられた」人生を歩むことができるのです。