松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年11月13日(日)
説教題「渇く」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章28〜30節

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

旧約聖書: エレミヤ書17:5~14

先週、アメリカの大統領選挙が行われました。予想外の結果に驚かれた方も多いと思います。なぜ、あのような結果になったのか。いろいろな分析や説明がなされています。

ここではその詳細について語ることはしません。しかし、一つの分析としては、ある種の「渇き」をアメリカ国民が覚えていたからだと、言うことができるかもしれません。かつてのアメリカはこうだった。しかし今は違うようになってしまっている。そういう思いがあったということなどが分析に挙げられています。現在にも、そして未来にも希望が持ってない場合、人間というものは過去の栄光にしがみつくものです。あの潤された時代が懐かしい。今の「渇き」のゆえに、そのように思うのです。

しかしその渇きが、今回の選挙結果によって満たされるのかどうか、それはまた別問題でしょう。様々な問題が新たに生じてくるかもしれません。おそらく渇きは満たされないでしょう。そしてなおも「渇き」を覚え続けることになると思います。しかしこの話は、私たちにとって、太平洋を隔てた遠くにある国の話ではありません。今回のこの選挙は、私たち自身にも様々な問題を投げかけています。

例えば、私たちは今の自分を過去の自分と比べることがあります。あの頃のかつての自分は輝いていた。希望に満ちていた。体力に溢れていた。ところが今はどうか。私は様々な意味で「渇き」を覚えている。そのように私たちはつい考えてしまうところがあると思います。

それだけではありません。私と隣の人とを比べてみる。隣の人はあんなものを持っている、こんなもので満たされている。それに比べて私はどうか。私は渇いている。まずはそう思います。そしてもし、隣の人が持っているものを、私も手に入れることができたとしたら、どうなるでしょうか。今度はまたその隣の人と比べて、私は満たされていない、渇いている。際限なく、そのように思ってしまうと思います。

アメリカ国民だけではありません。日本にいる私たちだって、何らかの渇きを抱えています。私たちもそう、この私もそうです。私たちの誰もが、ある種の「渇き」を抱えながら生きているのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、「渇く」という言葉があります。主イエス・キリストのお言葉です。主イエスの十字架上での言葉として知られているのは、全部な七つの言葉です。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書は、そのうちの三つを記録しています。今日の聖書箇所の「渇く」(二八節)と「成し遂げられた」(三〇節)がそうです。

今日は「渇く」という主イエスのお言葉に集中して御言葉を聴きます。来週は「成し遂げられた」です。これらの言葉以外に、先週の聖書箇所に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(二六節)と「見なさい。あなたの母です。」(二七節)がありました。これらの二つは、一つの事柄ですので一つとして数えます。

これ以外にも、他の福音書に記録されている言葉を合わせると、全部で七つあるというわけですが、それらの言葉は長い言葉というわけではありません。それは考えてみると当たり前のことで、主イエスが十字架に架かられているのです。その苦痛の中、なんとかしぼり出すようにしてお語りになった言葉です。それらの言葉の中でも、今日の聖書箇所の「渇く」というのは、最も短い言葉です。聖書の元の言葉のギリシア語では、わずか一単語です。

「渇く」。この言葉は、子どもがすぐに覚える言葉です。「渇く」と言うよりも、「喉、渇いた」と言うことになるかもしれません。子どもも生まれてすぐに、渇きを覚える。そして渇きを訴え、その渇きを潤してもらう。そのための言葉が「渇く」です。大人になるにつれ、喉の渇きだけではなく、いろいろな渇きをやがて覚えていきます。「心が渇いた」などと言うようになったり、思うようになるのです。

キリストのお言葉は「渇く」です。元の言葉では、私は渇くという現在形の意味です。いったい何に渇かれたのか。「喉が」とか「心が」とか、何に渇かれたのか、その対象は特に記されていません。

私たちが御言葉を聴いているヨハネによる福音書の一つのテーマは、渇くこと、そして潤うことに関してです。第四章のところに、主イエスとサマリアの女との対話が記されています。「水を飲ませてください」(四・七)と主イエスは言われます。元の言葉には「水」という言葉はないのですが、「飲むためにください」というようなことを主イエスは言われています。明らかに旅の疲れで、正午のことでありましたから、主イエスが喉の渇きを覚えておられました。

しかしそのような飲み水をめぐる対話が、だんだんと深まっていきます。主イエスは言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(四・一三~一四)。サマリアの女が答えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(四・一五)。

第六章に入り、主イエスがたった五つのパンと二匹の魚で、五千人以上もの人を養うという奇跡の話が記されます。この奇跡は、奇跡だけでは話は終わらず、この奇跡をめぐって、主イエスがユダヤ人たちとやはり対話をされていきます。ユダヤ人たちがこう言います。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(六・三四)。主イエスはこう答えられます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(六・三五)。

このように、ヨハネによる福音書の一つのテーマが、渇くこと、そしてその渇きをどのように潤わせることができるか、そのことがよく分かります。そして、主イエスが十字架上で「渇く」と言われた。いったい何に渇かれたのでしょうか。

一つの考えられることは、主イエスがこの時、肉体の渇きを覚えられたということです。十字架にお架かりになり、どのくらいの時間が経過をしていたのかは分かりません。数時間が経過をしていたでしょう。血がしたたり落ちていきます。痛みのため汗が噴き出ます。太陽が照りつけます。体中の水分が失われていく。その意味で、どんどんと体も喉も渇いていく。まずはそのことが考えらえます。

二九節のところに、「酸いぶどう酒」のことが触れられています。このことは、どの福音書の中にも触れられていることです。いったい何のために、この「酸いぶどう酒」が用いられたのでしょうか。いろいろな説があるようです。のどの渇きを潤してやるために、当然ながら、そういう説があります。しかしそれならば水でもよいはずです。

別の考えとしては、苦痛を和らげる作用があったとも言われます。あるいは、あまりにも苦しむことになるので、その死を早めるために、これを用いていたという説もあります。あるいは、それとはまた正反対の考えかも知れませんが、十字架に架けられた者は、あまりの痛みのために気絶してしまうことがあったようです。きちんと苦しみを味わわせるために、「酸いぶどう酒」によって気絶をしないように、そういう説もあります。いずれにしても、渇ききった体を少しでも潤すために用いられていたのが、「酸いぶどう酒」と呼ばれるものでした。

当たり前のことですが、人間は生きていくためには水分が必要です。生まれたばかりの赤ん坊は、最初、母親の乳房から水分を取っていきます。そして人間はやがて死ぬわけですが、死の間際まで人間が最後まで取るのが水分です。たとえ口から食べ物を取ることができなかったとしても、最後まで水を口にするのです。

主イエスは、十字架の死の間際に「渇く」と言われた。ここでの渇きは、死に至る渇きです。その渇きを覚えられた。主イエスが十字架を負われた。なぜか。この渇きを引き受けて下さるためです。それが、主イエスが覚えられた肉体の渇きということになります。

もう一つ、考えられることがあります。肉体は潤っていても、心は渇いていることがあります。私たちもそのことはよく分かるし、実感できるものです。逆に、肉体は渇いていても、心は満たされているということもあり得ます。そういう意味で、肉体の渇きだけではない、心の渇きを考えることができます。

アメリカの大統領選挙の話をいたしましたが、いろいろな「渇き」によって、このような結果になったと分析できるでしょう。人間というものは、様々な欲を持って生きています。食欲があります。性欲があります。金銭欲があります。名誉欲があります。そのような様々な欲求があります。そしてその欲求が満たされたいと思うものです。その時には、肉体の渇きを潤すのではない。心を潤そうとするのです。

聖書は、人間にそのような欲求があり、そして人間を貪欲の罪を犯していると見なしています。貪欲、それは必要以上に欲しがるということですが、貪欲が罪を生むと考えているのです。これらの欲求は、たとえ満たされたとしても、もっと欲しい、もっと欲しいという貪欲に結びついていきます。私たちは決して満足することができず、金ならもっと金を求めるようになる。名誉ならもっと名誉を求めようになる。欲望には際限がないと言うのです。つまり、いつまでたっても、どこまで行っても、心が満たされないのです。

心が渇くと言うときに、私たちはいったいどんな時に心が渇いているでしょうか。もちろん、いろいろな時に私たちの心は渇いています。しかし私たちの心が最も渇いているのは、一人だけの時、孤独を覚えている時ではないかと思います。自分がこんな苦しみを抱えている。けれども、誰も自分のことをよく理解してくれない。自分は一人、孤独だ、そのように思う時です。

しかし、たとえどんなに辛いことがたくさんあったとしても、もしも自分のことをよく理解してくれる理解者がたった一人でもいたとすれば、状況はまるで違うと思います。自分のそばにいて、自分を支えてくれるならば、決して「渇く」と言うことにはならないと思います。

別の福音書によれば、主イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)と言われました。ヨハネによる福音書にはありません。しかし、この「渇く」という言葉の中に、主イエスの同じ思いを読み取ることができると思います。主イエスは人に見捨てられた。そして今や、私たちの罪を背負い、罪人の一人として数えられて、神から裁かれ、神に見捨てられている。一人である、孤独である。その状況に置かれている。その「渇き」に置かれている。主イエスがその渇きを、十字架上で引き受けてくださったのです。

このようにして、主イエスが肉体の、そして心の渇きを含めて、すべての渇きを引き受けてくださいました。二八節のところには、「聖書の言葉が実現した」とあります。いったい何のことでしょうか。

一つはっきりと言うことができるのは、旧約聖書の詩編第二二編のことです。先々週、詩編第二二編を朗読しましたが、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編二二・二)という言葉で始まっていた詩編です。その途中のところで、このようにあります。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」(二二・一六)。この詩人が苦しめられ、まるで口がカラカラに渇いていたと言うのです。

他の詩編を挙げることもできます。詩編第四二編です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、「お前の神はどこにいる」と。」(四二・二~四)。この詩人も、何らかの苦しみを味わっていました。周りの人から「お前の神はどこにいる」とまで言われてしまっていたようです。神を見失い、孤独だったのです。

詩編第六九編にもこうあります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。」(六九・二二)。この詩人もどんな苦しみを味わっていたのかはよく分かりません。しかしこの人も、周りの人からもっと大きな苦しみを味わうようにと責められていたようです。

三つの詩編を挙げました。これらの詩編は、詩人たちが救いようのない苦しみを味わっていると言えるかもしれません。これらの詩人たちに始まり、実に多くの人間たちが孤独の中、これらの叫びを祈ってきました。その叫びを、主イエスが十字架で御自分のものとしてくださったのです。今までに渇いてきた多くの人たちの渇きを担ってくださったのです。主イエスが救い主として誰を救ってくださるのか、このように渇く人たちを救ってくださるのです。

預言者エレミヤという人も、孤独の苦しみの渇きをよく知っていた人です。エレミヤは苦悩の預言者と言われています。悔い改めなければ、あなたがたは滅びると神の言葉を預言させられた人です。当然かもしれませんが、迫害を受けます。孤独になります。心も渇きます。しかしエレミヤはどこに渇きの潤いがあるのかをよく知っていました。

今日の旧約聖書の最初の方ですが、こうあります。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ一七・七~八)。そして今日の旧約聖書の箇所の結びである一四節に至ります。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。あなたをこそ、わたしはたたえます。」(一四節)。

今、私が抱えているこのような苦しみは、誰にも分からない。私は孤独だ。そのように私たちは思うことがあります。確かにそれはその通りです。いくら近しい者であっても、その人の苦しみはその人にしか分かりませんし、その苦しみを担うことなどできません。しかし、キリストだけは違います。キリストは私たちの苦しみを分かってくださる唯一のお方です。なぜなら、キリストは私が苦しんでいる以上の苦しみを、確実に受けてくださったのですから。

聖書が私たちに伝えている信仰というのは、信じたら私たちの苦しみがなくなるとか、信じたら私たちの渇きがなくなるとか、そのようなことではないのです。信仰を得たとしても、私たちは相変わらず苦しみますと、相変わらず渇きます。けれども、その苦しみ、渇きをキリストが担ってくださる。私は孤独ではない。キリストが共にいて下さる。その信仰に生きることができるのです。

私が日々、用いている祈りの本があります。その中に、このような祈りの言葉があります。「あなたはわたしのいのちに、み霊を吹き入れ、わたしの心をあなたを探し求めるようにおつくりになりました。またわたしのたましいを、あなたを愛するように傾け、あなたのうちに平安を見いだすまでは、安らかにいることができないようにしてくださいました。わたしのうちに、地上のすべての喜びによってもたらされることのない、飢えと渇きを与えてくださいました。」(ベイリー『朝の祈り、夜の祈り』)。

この祈りは、真理をついた祈りです。神が私たちをお造りになった。なぜ私たちのお腹が空くのか、なぜ私たちが渇くのか、なぜ神がそのように私たちをお造りになったのか。それは、この世の中のいかなるものによっても、決して満たされないようにするためであると、この祈りは言うのです。本当の潤いはどこにあるのか。どこでその潤いが得られるか。十字架にお架かりになった主イエス・キリストに、その答えがあるのです。