松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年11月6日(日)
説教題「キリストに結ばれた家族」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章25〜27節

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

旧約聖書: サムエル記上1:21~28

「母教会」という言葉があります。もちろん、教会の中で使われる教会用語の一つと言えるでしょう。自分の母教会とは、どこになるのか。松本東教会で洗礼を受けられた方は、たとえ引っ越しなどで教会が変わったとしても、自分の母教会は松本東教会だ、そのように言うことができます。定義としては、受洗などで初めて信仰を持った教会ということになるでしょう。

母教会というように、教会という字に「母」を付ける。「父」を付けて「父教会」とは言いません。なぜ「母」なのでしょうか。いろいろな説明をすることができるかもしれません。一つの説明としては、新約聖書の元の言葉、ギリシア語では、名詞には男性、女性、中性の分類があります。ギリシア語の「教会」にあたる名詞は女性形です。

その他に、例えば主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」(一四・六)と言われましたが、「道」も「真理」も「命」もすべて女性形です。特に「命」もそうなのです。命を育むもの、教会もそうであると言えるでしょう。だから「父」というよりは、「母」の字を付ける。イメージとしても、すっかり「母教会」で定着をしています。

私たちが洗礼を受けて初めて教会生活をした教会、それを「母教会」と呼びますが、しかしそれの教会だけではなく、何らかの事情で教会が変わったとしても、やはり教会で命を育むということには変わりはありません。今からもう千八百年ほど前の人になりますが、キプリアヌスという北アフリカのカルタゴの教会の司教をしていた人がいました。このキプリアヌスという人はこのように言いました。「教会を母として持たないものは、神を父として持つ事はできない。」(『カトリック教会の一致について』)。

キプリアヌスのこの言葉にあるように、教会ではすっかり「母なる教会」が定着していきました。「父なる神」に「母なる教会」です。私たちは母なる教会に育まれて、そこで信仰生活をします。教会生活をします。決して母なる教会と私たちの歩みを切り離すことはできないのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、主イエスの十字架の場面です。先週からの続きの箇所です。しかしある人が、今日の聖書箇所をめぐって、このように言いました。「ここに教会が誕生した」、と。教会の誕生をめぐっては、一般的にはもっと後であると言われます。主イエスの十字架、復活が終わった後、主イエスが天に挙げられる。残された弟子たちがそれ以降、教会を建てていくのです。

したがって、今日の聖書箇所ではまだ教会が生まれていなかったということになりますが、この人はそれにもかかわらず、「ここに教会が誕生した」と言うのです。ある弟子がキリストの母を引き取りました。その弟子にとっては、キリストの家族になるということにもなります。このようにして、ここに家族が生まれ、ここに教会が生まれたということになるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所を、より詳細に味わっていきたいと思います。主イエスがすでに十字架にお架かりになっています。先週の聖書箇所では、四人の兵士たちが主イエスの服を奪い取り、分け合い、くじを引いていたことが記されています。今日の聖書箇所では、十字架の下に、複数の女性たちがいたことが記されています。

ここでの女性たちは何人いたでしょうか。二五節にこうあります。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(二五節)。よく聖書の言葉に注目していただきたいと思いますが、「と」という言葉が使われています。英語ではandという言葉です。「その母」「と」「母の姉妹」、「クロパの妻マリア」「と」「マグダラのマリア」。そして「母の姉妹」と「クロパの妻マリア」の間に「、」(点)が打たれています。これを純粋に見れば、四人の女性たちがここにいたということになります。

ところが、この「、」(点)が曲者なのですが、大昔の聖書というのは、実は点も丸もないのです。ここに点を打つか打たないかは、後の時代の読者が恣意的に打ったというものなのです。もしここに点がなかったとすれば、「母の姉妹クロパの妻マリア」と読むことになります。こうすると、四人ではなく一人減って、三人ということになります。

三人もしくは四人。いずれにしても、十字架のもとには複数の女性がいたということになります。このことは、どの福音書でも共通していることです。ルカによる福音書では、「ガリラヤから従ってきた婦人たち」(ルカ二三・四九、五五)と記されています。マタイによる福音書では、「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた」(マタイ二七・五九)と記されています。

一番古くに書かれたと言われているマルコによる福音書では、「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」(マルコ一五・四〇)と記されています。さらに「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(マルコ一五・四七)と続けられています。

いずれの福音書でも共通なのは、複数の女性たちが十字架の下にいたということであり、その一部始終を確かに見ていたということです。主イエスが十字架で死なれ、埋葬されていったことが確かであること、だからこそ死から復活されたことの証人になることができたのです。男性の弟子たちは、今日の聖書箇所に出てくる「愛する弟子」を除いて、みんな逃げてしまいましたので、証人になり損なってしまいました。主イエスの十字架の証人になることができた、ヨハネによる福音書に出てくる、この三人ないし四人の女性たちもまた、そのような証人なのです。

しかし、このヨハネによる福音書は、もう一つのことを強調しています。女性たちの中の筆頭者、最初に書かれているのは、主イエスの母マリアです。この母マリアが主イエスの「愛する弟子」と家族になった。主イエスの十字架によって、ここに新しい家族が生まれた。それが、ヨハネによる福音書が強調をしているもう一つの大事なことなのです。

今日のこの説教の説教題を「キリストに結ばれた家族」と付けました。家族とは何でしょうか。英語ではfamilyと言います。このfamilyという言葉の語源を調べてみましたら、どうやらこの言葉はラテン語の「奴隷」という言葉に関連があるようです。奴隷が家族と言われると、私たちの現代からの感覚からすると、あまりピンと来ないかもしれません。しかし古代のローマ帝国の文章などを読んでいますと、確かにその当時は、奴隷も家族の一員として数えられている場合が多いのです。奴隷を非人道的に扱うことも、その後の歴史においてはなされてきましたが、ローマ帝国では違った家族観があったようです。

その後、時代によって、地域によって、いろいろな家族観がありました。日本でも昔は家族と言えば、いわゆる大家族だったでしょう。現代では、親と子を中心とする核家族、あるいは夫婦、あるいは最近では最も多い世帯の形態としては一人暮らしになったとも言われます。家族観が変わってきたのです。

最近のニュースで、時々、話題になるのが、憲法第二四条に関することです。現在の憲法の第二四条にも、「家族」という言葉が出てきます。この第二四条を、自民党の新しい憲法草案では「家族は、互いに助け合わなければならない」とまで言い、義論になっています。「家族は、互いに助け合わなければならない」。それでは、家族とはいったい何なのか。親は子を、子は親を助ける。それでは兄弟は、祖父母は、孫は、親戚は、ということになるのです。

ある辞書には、家族がこのように定義されていました。「婚姻によって成立した夫婦を中核にしてその近親の血縁者が住居と家計をともにし,人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団」。どうやら、家族は血縁だけではないようです。「人格的結合」とか「感情的融合」とか言われていますが、なんだかよく分からない思いを抱かれるでしょう。

一つだけはっきりしているのは、この世の家族観はどんどんと変わっていくということです。しかしそれに対して、教会もまた家族観を持ちます。教会は「神の家族」だと言われることがあります。今日の説教題のように、「キリストに結ばれた家族」と考えることができるでしょう。大事なのは、この教会の家族とはどういう家族なのかということです。私たちがどういう教会の家族観を持つかです。

二六節にこうあります。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。」(二六節)。母マリアに対して、「婦人よ」と言われる。同じ血縁の家族なのにもかかわらず、何とも冷たい言い方ではないかと思われるかもしれません。

実は、主イエスが母マリアに対して、「婦人よ」と言われたのは、今回が初めてではありません。第二章のところに戻りますが、カナの婚礼での奇跡の話があります。結婚式に出席された主イエスが、水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行う話です。第二章一~四節をお読みします。

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」」(二・一~四)。

主イエスの「時」はまだ来ていないと言われますが、しかしこの十字架の時には、すでに「時」が来たということになります。

そしてその「時」において、十字架の下にいた「愛する弟子」に対して、自分の母を託すことになります。「それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(二七節)。「自分の家」とありますが、元のギリシア語の言葉では「家」に相当する言葉はなく、「自分のところ」と訳した方がよい言葉です。単に自分の「家」の中に引き取ったのではなく、ここに血縁を超えた家族が誕生をしたことになります。

ある人が、今日の聖書箇所をめぐって、このように言っています。「十字架は産みの苦しみである」、と。主イエスが十字架で苦しんでおられます。苦しみの中、今日の聖書箇所で言われている言葉を、何とか紡ぎ出したと言えるかもしれません。苦しんでそこで終わりというわけではなかった。そこからむしろ新しいことが始まるのです。

母マリアにとって、主イエスの十字架での産みの苦しみを経て、新たな子が与えられる経験をしました。愛する弟子にとって、主イエスの十字架での産みの苦しみを経て、新たな母が与えられる経験をしました。これは、キリストに結び合わされた家族です。単に、あなたはお世話をしなさい、あなたはお世話になりなさいということが言われているのではありません。新しい家族の歩みが始まった。私たちの新しい歩みも、新しい命も、新しい生活も、ここから始まっていくのです。

神の家族が生まれる。母なる教会が生まれる。そこで私たちは教会生活をします。誤解を恐れず申し上げます。私たちの教会生活は、人間的な近しさや親しさによってうまくやっていくのではありません。教会のみんなと仲良くしたり、それぞれの個人的な事柄をなんでも打ち明けるというのでもありません。この家族観を踏まえておくことが何よりも大事です。

洗礼を受けたい、信仰告白をしたい、そのような志しが与えられた方と一緒に学びをします。具体的に何をするか。使徒信条の学びをします。キリスト者が何を信じているか、ここに私たちの信仰が言い表されていますので、そのための学びをします。その中で、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」について学びます。この学びをすると、ほとんど多くの方々が安心をします。

どういうことでしょうか。洗礼を受けて教会員になったら、奉仕をたくさんしなければならないのではないか。礼拝だけではなく、他のところにももっと顔を出さなければならなくなるのではないか。教会の皆さんと仲良くしなければならないのではないか。それらのことを考え、不安になることもあるでしょう。

もちろん、それらのことは、悪い事ではありません。教会でそれらのことをしても、何ら差支えはありません。しかし、一番大事な事ではありません。使徒信条の「聖徒の交わり」とは、人間的な親しみで仲良くするような交わりではなく、礼拝での交わりです。共に御言葉を聴き、共に聖餐に与る。その交わりです。たとえ相手のことをよく知らなかったとしても、名前すら知らなかったとしても、一緒に神を礼拝している。一緒に御言葉を聴き、聖餐に与っている。それだけで交わりが成立をしているのです。

この交わりは、神を父とする交わりです。同じ神を信じ、同じ主イエスに救われている交わりです。主イエスを「長子」(ローマ八・二九)とする交わりです。それだからこそ、お互いに「兄弟姉妹」と呼び合うことができるのです。人間的な親しさによって「兄弟姉妹」となるわけではありません。

エフェソの信徒への手紙の中にもこうあります。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり…」(エフェソ二・一九)。この手紙では、ユダヤ人とギリシア人が、教会のメンバーとして隔ての壁が取り除かれ、一つになることが言われています。いがみ合い、対立する両者でした。しかしキリストによって、教会で神の家族になることができたのです。

先週の聖書箇所になりますが、このようにあります。「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。」(二三~二四節)。上着は裂かれました。しかし下着は裂かれなかった。

十字架の下には、二組の異なる人たちがいました。一方には、四人の兵士たちがいました。しかし他方には、三人の女性たちと理解したいと思いますが、三人の女性たちに匿名の「愛する弟子」を加え、四人の者たちがいました。一方の人たちは、主イエスの上着のように裂かれてしまった。他方の人たちは、主イエスの下着のように裂かれることはなかった。

私たちはどちらの側でしょうか。私たちは母なる教会に連なっている者たちです。ここで御言葉を聴きます。ここで聖餐に与ります。主イエス・キリストが私たちの罪のために肉を裂き、血を流してくださった。私たちは、その信仰のもとに、一つに集められている者たちです。ここに、この世のどのような家族をも超えた、神の家族、母なる教会があるのです。