松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年10月30日(日)
説教題「聖書のみ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章23〜24節

兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

旧約聖書: 詩編22:2~22

先週の火曜日から木曜日に書けて、日本基督教団総会が行われ、そこへ出かけてきました。三日間という長丁場で、疲れも覚えました。この総会の中では、いろいろなことがなされましたが、その中で一つだけ、この説教の冒頭のところでご紹介をしたいと思います。

日本基督教団には、宣教師と呼ばれる教師たちがおられます。世界各国に赴き、その地で福音を宣べ伝える働きをされています。その宣教師の中のお一人が、総会の中で、宣教の報告をしてくださいました。

皆様は、宣教師というと、どのようなイメージを抱かれるでしょうか。昔の戦国時代の頃でしょうか、日本にフランシスコ・ザビエルという宣教師が来て、伝道がなされました。また、明治の時代になると、プロテスタント教会の多くの宣教師たちが来日して、伝道がなされました。外国の地に赴き、その国の言葉で、現地の人たちを信仰へと導く。そういう宣教師のイメージが強いかもしれません。

しかし、宣教師としての報告をしてくださった方は、そういう働きよりもむしろ、外国に住んでいる日本人たちを信仰へと導く働きをされています。仕事、勉学、いろいろな理由で海外生活をしている日本人は多くいます。その日本人のための教会が世界各地にあります。その教会での働きです。日本基督教団の宣教師は、最近では、そういう働きをされている方も多いのです。

その宣教師の方が、こんな話をされていました。日本に住んでいる日本人よりも、外国に住んでいる日本人の方が、信仰に導かれやすい、と。私たちは自分の家族とか、自分の友人とか、多くの場合、日本に住んでいる日本人に伝道をしようとします。しかしその宣教師の経験では、外国に住んでいる日本人に対しての方が、伝道がしやすいと言うのです。

なんとなくその理由が分かるような気がします。外国に行きますと、いろいろな体験をします。外国によっても様々でしょうけれども、熱心に礼拝がなされていたり、熱心に祈る姿を見かけたります。日本ではお寺で葬式がなされていたり、神社で手を合わせている人を見たとしても、あまり感じるところはないのかもしれませんが、外国では、日常生活の中に、礼拝とか祈りとか、そのような信仰が染みわたっているところがあります。そういう環境の中に置かれると、どういうことを考えるでしょうか。自分は今までに特に何も信じてこなかった、熱心に祈りなどしてこなかったけれども、本当にそれでよいのかと思うようになる、その宣教師はそのように言われます。

そして外国で日本人として生活をしている。そういう自分はいったい何者なのかということを考えるようになる。そのような問いをたくさん抱えることになる。自分がどう生きるのかということと、信仰が結びついて来る。海外の教会で働いておられる宣教師たちの働きが、まさにそこで生きてくることになるのです。


「自分はいったい何者なのか」、このことに関連する話を続けたいと思います。今日は一〇月三〇日です。いわゆる「宗教改革記念日」が明日の一〇月三一日になります。今から四九九年前の一五一七年一〇月三一日、マルティン・ルターという人が、ある町のお城の門のところに、「九五箇条の提題」というものを掲げたと言われています。当時のカトリック教会のあり方が少しおかしいのではないか、だからこの提題によって議論をしようではないか。ルターはそのような思いをもって、この「九五箇条の提題」を掲げたと言われています。そのことをきっかけにして、いわゆる「宗教改革」が起こって行きました。

「宗教改革」と言われていますが、どちらかと言うと、「教会改革」と言った方がよいと思います。英語では、Reformation(改革)あるいは、Reformation of Chruch(教会の改革)と言います。宗教そのものよりも、教会を改革した。その最初の人物として挙げられるのがルターです。そしてルター後も、多くの改革運動が起こり、多くの改革者たちが次々と登場しました。その中に、スイスのジュネーブの教会を改革したジャン・カルヴァンという人を挙げることができます。私たちの松本東教会のルーツをたどっていくと、このカルヴァンが改革したジュネーブの教会に辿り着くことになります。

このカルヴァンという人、いろいろな働きをし、いろいろな著作を著した人でありますが、彼が書いた著書の中で、一番有名であり、一番膨大な量となっているのが、『キリスト教綱要』というものです。一九三六年にラテン語で初版が出版されました。以後、五度にわたって改訂がなされ、最終的なものが一五九〇年に出版されたフランス語版によるものと言われています。

膨大な著作ですが、その冒頭のところで、カルヴァンはこのように言っています。「神を知る知識と、われわれ自身を知る知識とは、結び合ったことがらである」。カルヴァンは冒頭のこの箇所で、二つのことを言っています。「神を知る知識」、神はどのようなお方であるかということです。そしてもう一つ、「われわれ自身を知る知識」と言っています。先ほど、宣教師の話をしたところで挙げた、「自分はいったい何者なのか」という問いです。神を知ること、自分を知ること、この二つは結びついているとカルヴァンは言うのです。

さらにカルヴァンはこう続けていきます。「自己自身を知ることなしには、神を知ることはできない」。「神を知ることなしには、自己自身を知ることはできない」。まるでコインの表裏のようです。そのコイン全体を知るためには、片側だけではいけない。両側を知らなければならない。神がどのようなお方かを知りたければ、自分自身を知らなければならないし、自分自身を知りたければ、神がどのようなお方であるかを知らなければならない。コインの表裏を分けることができないように、表裏一体だというのです。

そのようにカルヴァンが言うのも、もっともなことかもしれません。外国の地の日本人たちが考えるように、私たちは「自分は何者か」という問いを抱きます。自分はどこから来て、どこへ向って行くのか。自分の人生の目的は何なのか。何のために生きているのか。様々なことを考えます。もし神が私たち人間を、そしてこの世界を造られたとすれば、神をそっちのけにして、それらの問いを考えるわけにはいきません。何のために神が私をお造りになったのか。どういう目的を与えられているのか。神とのかかわりの中で考えることがどうしても必要になって来るのです。

そういうことを考え、カルヴァンの『キリスト教綱要』を読み進めていきます。しばらく読んでいると、このような言葉に出会います。「創造主なる神に達するためには、聖書がわれわれの導き手、また教師となることが必要である」。

皆様も聖書を読んでおられて、このような経験をされたことがあろうと思います。聖書にたくさんの人物が書かれています。聖人君主というわけではない。それどころか、多くの罪を抱えた人物たち。そういう人たちが出てきますが、人間の罪深さがよく分かってきます。そして自分もまた、そこに出てくる登場人物となんら変わらないところがある。聖書を読んでいると、そういう思いを抱きます。

しかし聖書がもっと強調して言っていることは、そういう罪深い人間を、神が救ってくださるということです。確かに聖書には、人間では決して救い得ないような、どうしようもない人間たちが出てきます。しかし聖書は、そういう罪人を救う神を、伝えている書物なのです。人間の罪深さを抉り出す一方で、神の救いを語っているのです。

聖書に触れていくと、自分は救われなければならない存在であることが見えてきます。「自分が何者か」が見えてくるのです。そしてその自分を救ってくださるのが、神である。神はそのようなお方であることが分かってくる。カルヴァンが言うように、コインの表裏が同時に分かってくる。そのことが聖書によって分かるのです。

「宗教改革」におけるキーワードに、「聖書のみ」という言葉があります。今日の説教の説教題としても付けました。「聖書のみ」。その他にも、「信仰のみ」「恵みのみ」というキーワードもあります。私たちが救われるのは、私たちが「善い行い」をしたからではない。ただイエス・キリストを信じる「信仰のみ」によって救われる。人間の「善い行い」によって救われるのではなく、ただ神の「恵みのみ」によって救われる。そのことを表したキーワードです。

「聖書のみ」。教会の偉い人たちによって、「自分が何者か」「神とはどのようなお方か」を知るのではない。そうではなくて、「聖書のみ」によって、私たちは知ることができる。「宗教改革」とは、聖書の原典に戻っていく改革運動でもあったのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所も、「神とはどのようなお方」であるのか、そして「自分が何者」であるのか、そのことが聖書によって見えてくる箇所でもあります。

主イエス・キリストの実際の十字架の場面が続いています。先週の聖書箇所で、主イエスが十字架につけられました。十字架でどのくらいの時間が経過をしていたのか、よく分かりません。主イエスが人間の罪を背負い、苦しんでおられる。その十字架の下での人間たちの様子が描かれている箇所です。

そこには兵士たちがいました。主イエスの十字架を実際に実行した人たちです。もちろん、上からの命令です。命令には逆らうことはできません。人の命を奪わなければならない。自分がその手を下さなければならない。誰でも、これはやりたくないことです。そのためか、この兵士たちにはある特権が与えられていました。それは、十字架に架かる人の持ち物を好きにしてよいとの特権です。

ここでの兵士たちが四人であったことが分かります。「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。」(二三節)。上着はこのように分けましたが、下着についてはこう記されています。「下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。」(二三節)。
主イエスが最後までまとわれていたこの下着は、上等なものだったようです。これは裂くことはしないで、四人の誰かが手に入れるのか、くじ引きがなされていた。そんな様子が記されているのです。

主イエスは、ありとあらゆるものを奪われてしまいました。最後まで身にまとっていた下着までもが取られてしまった。そして十字架で苦しみを味わわれている。その苦しみの一番近くにいた四人の兵士たちは、主イエスの苦しみに同情するのでもない。その苦しみに見向きもせず、自分たちの物欲のままに、一生懸命くじ引きをしていた。そんな人間の姿が描かれているのです。

続く二四節のところに、こうあります。「それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。」(二四節)。

この聖書の言葉というのは、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の詩編第二二編にあります。この詩編第二二編というのは、有名な詩編の一つです。なぜ有名なのか。それは主イエスの十字架と非常によく結びついているからです。まるで主イエスの十字架の苦しみがここに表れていると言ってもよいほどです。

第二二編二節のところです。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」(詩編二二・二)。マタイによる福音書と、マルコによる福音書では、主イエスの十字架の叫びを記しています。同じことです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになられたのか」。主イエスも詩編第二二編をよく知っておられ、その言葉でこのように叫ばれたのです。

また、第二二編八~九節にかけて、こうあります。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」」(二二・八~九)。他の福音書を読んでみると、頭を振って主イエスを罵る人たちの姿や、「他人を救ったのだから、自分自身を救ってみろ」と言われていることが書かれています。

そして、ヨハネによる福音書に引用されている箇所ですが、第二二編一九節のところです。「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」(二二・一九)。

この詩編の詩人が誰なのかはよく分かりません。非常に大きな苦しみを受けている人だということは分かります。けれども匿名です。多くの信仰者たちは、自分の思いをこの詩編第二二編に重ねて、この祈りを祈ってきました。ああ、自分もこのような苦しみを受けている者として、この詩編の詩人の叫びを共にしてきたのです。

おそらく、この詩人も、このような苦難の中で、自分はいったい何者なのか、神が本当に自分を救ってくださるお方なのか、そのことを自問してきたことでしょう。そういう中で、今日は二二節までしかお読みしませんでしたが、二三節以降が続いていくことになります。二三節以降が後半の部分になります。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。」(二二・二三)。

あるいは、こういう言葉もあります。「それゆえ、わたしは大いなる集会で、あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。」(二二・二六)。どうやらこの詩人は、自分の人生経験を、ある集会の中で語った様子が分かってきます。私たちで言うところの証しをしている、という感じでしょうか。

最後の三一~三二節にかけてはこうあります。「子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう。」(二二・三一~三二)。

この詩人も、苦難の中、自分は何者かと問いました。周りからは罵られて、自分が何者かという本当の答えは見出せませんでした。むしろお前なんか要らないというような者だったのです。ところが後半のところでは、神によって、そのような者ではなかった。そのことが分かったのです。神によって救っていただいた者だということが分かったのです。

これこそ、聖書が示していることです。主イエスは、この詩編第二二編の詩人の叫びを引き受けてくださいました。私たち人間の叫びを引き受けてくださった。聖書に書かれている通り、私たちの罪を背負い、苦難を引き受けて下さり、十字架にお架かりになってくださった。このことを深く知った時、私たち自身の姿も見えてきます。私たちはそれほどの代価が支払われるほどに、神にとって大事な存在なのです。