松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年10月23日(日)
説教題「誰が真の王なのか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第19章16b〜22節

こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

旧約聖書: ヨブ記33:19~33

キリスト教会は二千年にわたり、讃美歌を歌ってきました。いったいいつ頃から讃美歌を歌ってきたのか。新約聖書の時代はもちろん、旧約聖書の時代にまでさかのぼることができます。神をほめたたえることを、歌を歌うことによって表してきたのです。

私たちは礼拝に集います。ここで讃美歌を歌います。礼拝に来る心というのは、それぞれ様々であります。喜びに満たされている人もいれば、悲しみに打ちひしがれている人もいます。いつも通りの平常心で来ている人も多いでしょう。自分の心も毎回のように揺れ動きます。今週は喜びに満たされている場合もあれば、翌週は調子が悪いという時だってあるでしょう。

しかしそのような私たちの心の状態にかかわらず、私たちは礼拝に集い、讃美を歌うことができる。しかも、どのような心の状態であれ、誰もが等しく同じ讃美歌の歌詞で歌うことができる。私たちの心の状態によって讃美歌を変えなければならないというわけではない。それが、讃美歌を歌うことの何よりもすばらしい恵みであると思います。

今も昔も、信仰者は讃美歌を歌ってきました。旧約聖書に詩編があります。一五〇の詩が収められています。詩編を読んでいますと、明らかにこれはメロディーを付けられて歌われたことがあったということが分かってきます。詩編は祈りでもあり、讃美でもあるのです。新約聖書の時代になっても、キリスト教会に集う者たちは皆、讃美を歌ってきました。新約聖書の中に、詩編のような讃美歌集こそはありませんが、この言葉は讃美歌のフレーズではないかと思われる箇所がたくさんあります。代表的なものが、フィリピの信徒への手紙第二章六~一一節です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ二・六~一一)。

新約聖書学者たちが教えてくれますが、ここでの言葉は、韻を踏むような形になっています。この手紙を書いたのは使徒パウロですが、パウロは当時、教会の皆がよく歌っていた讃美歌のフレーズをそのままここに入れたのです。「キリスト賛歌」と言われています。パウロもよく歌っていたでしょうし、手紙の読者もすぐにその讃美歌のメロディーと共に口ずさむことができたでしょう。

この讃美歌には、いったいどんなことが表されているでしょうか。前半部分と後半部分では調子が異なります。讃美歌の一番と二番の歌詞なのかもしれません。前半は謙るキリストのことが記されています。後半は挙げられるキリストのことが記されています。私たちが救い主だと信じるキリストはこのようなお方である、そのことを表した讃美歌ということになります。

今日の説教の説教題を「誰が真の王なのか」と付けました。皆さまももうお分かりだと思いますが、この説教題で表したかったのは、真の王は他の誰でもない、キリストであるということです。キリストがまことの王だ。そう私たちが思うときに、フィリピの教会に宛てて書かれた手紙の中に記されている「キリスト賛歌」を忘れるわけにはいきません。キリストは王です。しかし謙られた王なのです。

いよいよ今日の聖書箇所から、主イエスの十字架の場面になります。十字架に至るまでに、これまでずっと裁判が続けられてきました。先週の聖書箇所では、地方総督のピラトの前で最終の裁判がなされました。その結果、十字架に引き渡されて、主イエスの十字架がこのように起こったのです。

十字架の場面を実際に読んでみて、どのようなことをお感じになられたでしょうか。意外とあっさりしていると思われたかもしれません。主イエスがいよいよ十字架につけられたところは、こう記されています。「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。」(一八節)。

あっさりしすぎているかもしれません。例えば、主イエスの十字架の場面を描いた映画があります。映画の描写としては、主イエスが苦しみの表情を浮かべておられるとか、体の傷が生々しいとか、十字架の木がいかに大きかったとか、主イエスに打ち付けられた釘がいかに太かったとか、そういう描写がなされるものです。私たちもそれらの点が気になるかもしれません。しかしそれらのことは、何一つ聖書に書かれていません。本当にあっさりとしすぎている印象を受けます。

四つの福音書がありますが、十字架の場面をそれぞれ比較してみるとよいかもしれません。やはりどの福音書も、主イエスの十字架の描写については、同じなのです。その代りに、どの福音書の著者も決して落とすことなく記したことがあります。一八節後半に「また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」とありますように、主イエスの左右にも一人ずつ、合計三本の十字架が立てられたことが記されています。

それ以外に、どの福音書にも、罪状書きのことが記されています。マタイによる福音書では「これはユダヤ人の王イエスである」(マタイ二七・三七)、マルコによる福音書では「ユダヤ人の王」(マルコ一五・二六)、ルカによる福音書では「これはユダヤ人の王」(ルカ二三・三八)とあります。ヨハネによる福音書では「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(一九節)です。ヨハネによる福音書では「ナザレのイエス」が付け加わっていたことになっていますが、四つの福音書ともに「ユダヤ人の王」という罪状書きが掛けられていたことが記されています。

私たちは、この罪状書きのことよりも、主イエスの苦しみとか釘の太さとかの方が気になるかもしれませんが、しかし四つの福音書を書いた者たちにとっては、そんなことよりも、この罪状書きの方が大事だと言うのです。その中でも、とりわけヨハネによる福音書の著者は、この罪状書きにこだわっているところがあります。今日の聖書箇所の半分以上にあたりますが、一九~二二節まで、全部が罪状書きについてなのです。

美術の世界において、十字架の絵がたくさん描かれてきました。主イエスが真ん中で十字架にお架かりになっている。その左右に二人がいる。そしてそれらの多くの絵には、主イエスの十字架の上のところに、罪状書きとして、INRIという文字が記されています。アルファベット四文字です。これは何を表しているのかと言うと、ローマ帝国の言語のラテン語で「イエス・ナザレ・王・ユダヤ人」の四つの言葉の頭文字を取ったのです。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(一九節)という四単語の頭文字です。これらの絵画の罪状書きは、ヨハネによる福音書の一九節を根拠にしているということになります。

絵画のキャンバス上では、細かな文字を書けないところがありますので、これらの四文字が取られました。しかしヨハネによる福音書では、三つの言語で書かれたことが記されています。「それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」(二〇節)。ヘブライ語はユダヤ人が使っていた言語、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシア語は今で言う英語のような言語です。実際に多くの人が主イエスの十字架を見て、この罪状書きを読んだようです。

なぜピラトはこのような罪状書きを書き、これを掲げたのでしょうか。罪状書きを掲げること自体は、自然なことであったようです。なぜこの人は十字架刑に遭っているのか、その罪状を示す必要もあったでしょう。しかしなぜ「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」だったのか。ユダヤ人たちはこれを見て、ピラトに文句を言いました。「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」(二一節)。ピラトはこれには取り合いませんでしたが、ある意味ではユダヤ人たちの方が正しいのかもしれません。そのように自分を自称した、不敬罪のようなものだと言った方が、筋は通っているのかもしれません。

なぜピラトはこのような罪状書きを書いたのか。はっきりとはよく分かりません。本当にそう思っていたというわけではないでしょうし、おそらく「ユダヤ人の王」などと言って、ローマ帝国に反乱など企てるな。そのような反乱を企てたならば、このようになると見せつけたかったのか。そんなところかもしれません。

しかしピラトが思っていたその意思を超えて、結果的に、四つの福音書の著者たちによって、この罪状書きがはっきりと記されました。画家たちがその絵画の中にINRIの四文字を記した。いったい何を表したかったのか。それは、この十字架にお架かりになったイエスというお方こそが、王なのだ、ということです。

王とはいったい何でしょうか。私たちもいろいろな王を知っています。そしてそれらの王から、共通点を探ることができるでしょう。王には権威があります。あらゆる人たちの中で頂点に立っています。王の命令は絶対です。王はあらゆることを自分の思い通りにすることができます。

聖書にも、様々な王が登場します。それらの王たちを取り上げていればきりがありませんが、主イエスがお生まれになったクリスマスにも、ヘロデ王が出てきます。息子のヘロデ王と区別して、ヘロデ大王と呼ばれています。このヘロデ大王のところに、東方から学者たちがやって来ます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ二・二)。ここでも「ユダヤ人の王」ですが、この学者たちはずいぶん大胆なところがあります。ヘロデ大王という王がすでにいたのに、その本人に向かって「ユダヤ人の王」などと言うのです。ヘロデは「不安を抱いた」(マタイ二・三)と記されています。

今、こどもの教会では、一二月のこどもクリスマスに向けて、クリスマス劇の練習をしています。ヘロデ王が出てきます。「私が王様だ、キリストなんか許さない。私が王様だ、他の王様などあり得ない」というセリフがあります。もちろん聖書にはこのような言葉はありませんが、しかしヘロデのその心の奥底をよく表していると思います。

主イエスが王である。まことの王である。そうなると、主イエスが私たちの上に立ちます。私たちがその王の僕ということになります。その王に対して、あらゆることを明け渡さなければなりません。自分が大事に握り、これは自分の裁量でいくらでもどうにでもなると思っていたことも、王に対して明け渡さなければなりません。私たちは明け渡すでしょうか。なかなかそれができないのが私たちです。私たちは大きな王ではないかもしれません。しかし小さな王であることに固執するのです。

使徒パウロは、ガラテヤ教会に宛てて手紙を書きました。その中でこのように記しました。「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ二・二〇)。文語訳聖書の表現です。愛唱されている方も多いでしょう。心に残る言葉です。しかし厳しい言葉です。もはや生きているのは私ではない。キリストが王であることを認め、自分のすべてを明け渡さなければなりません。半分くらいは明け渡してもよいけれども、この部分だけは自分のものだ、この部分だけはキリストにすら渡したくない、自分が小さな王様でいたい。そう思っているとすれば、決してパウロのようには言うことができない言葉です。私たちがいかにキリストに明け渡すことができるのか、それが信仰の戦いです。

聖書は、この世の価値観とはまるで違うところがあります。王について、聖書の事典で調べてみますと、このようなことが記されていました。「神の国はこの世の王国とは違う性格をもっていたため、イエスはこの世的王の栄光を廃止、世俗的目には隠された生に徹した。イエスは…王権を奉仕と苦難のうちに完成しようとした」(『聖書大事典』、教文館、二四八頁)。事典ですから少々難しい表現になっているところがあるかもしれません。しかし言われていることは非常に単純です。主イエスはまことの王として、謙る王であられた。奉仕と苦難の王であられた、ということです。

本日の聖書箇所の一八節後半にこうあります。「また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」(一八節)。主イエスの他に、二本の十字架が立てられました。他の福音書では、左右の十字架に架けられた人たちは強盗や犯罪者たちであったことが記されていますが、ヨハネによる福音書では特に何も記されていません。この二人の男は十字架につけられてしかるべきだった、などということはないのです。苦しみを味わう二人です。その苦しみの真ん中に主イエスがおられた。この二人と共におられた、苦難の王であられたのです。

聖書を読んでいますと、主イエスが私たちと共に苦しんでくださる救い主であることが分かってきます。信じたら苦しみがなくなる、などということは書かれていません。むしろその苦しみを主イエスが共に苦しんでくださることが分かる。聖書を読み、御言葉を聴き、主イエスのお姿が見えてきます。まさに私の苦しみ、私たちの苦しみのただ中にいてくださる。その主イエスの近さが分かってくるのです。遠い存在だと思っていたけれども、私の苦しみのただ中にいてくださった。それが、三本の十字架の意味です。

本日、私たちに合わせて与えられたのが、旧約聖書のヨブ記です。ヨブ記にも、それと同じことが記されていると言えるでしょう。詳しくお話をする時間はありませんが、この書にはヨブの物語が記されています。ヨブは自他共に認める非の打ちどころのない人でした。

ところがこのヨブに、突如、苦難が襲い掛かります。子どもをすべて失い、財産をすべて失ってしまいます。そのような苦難の中、三人の友人が見舞いにやってきます。しかし見舞うどころか、三人との間に議論が起こります。ヨブよ、お前が何か悪さをしたのではないか、だからこのようなひどいことが起こっているのではないか。いやいや、そんなことはない、私は潔白だ、ひどいのは神の方だ。そういう議論が延々としていくのです。

この議論がひと通り済み、ひと通りどころか三廻りもするのですが、エリフという三人以外の年若い人物が口を開いてヨブに語りかけます。エリフという人は分かったので、今までは遠慮して黙っていたようですが、ついに口を開きます。それが今日の聖書箇所です。

エリフはヨブにこのように言っています。「千人に一人でもこの人のために執り成し…」(ヨブ三三・二三)。千人に一人という表現は、時々、旧約聖書に出てきますが、めったにいない、まったくいないことを表しています。ヨブのために本当の意味で執り成しをしてくれる人がまったくいない、しかしもしいたならば…とエリフは言うのです。そうであるならば、ヨブは「私は潔白で、ひどいのは神だ」などとは言わないだろう。まっすぐに神と向き合い、悔い改めるだろうと、エリフは言うのです。

ヨブも知らなかった、「千人に一人」もいなかった、そのような執り成しをしてくださる王が、主イエス・キリストです。普通の常識では考えられない王です。謙る王です。苦しみのただ中に一緒にいてくださる王です。罪状書きに表されたように、十字架にお架かりになった王です。

この王に対してなら、私たちはすべてを明け渡すことができます。他のこの世のどんな王に対しても、明け渡す必要はありません。この王にだけはすべてを明け渡すことができますし、私たちは明け渡すのです。この王が救い主として、私たちは救い出してくださいます。

フィリピ教会の人と同じように、私たちも「キリスト賛歌」を歌いたいと思います。この説教の後で、讃美歌を歌います。第二編の一八五番です。「カルバリ山の」という讃美歌です。「カルバリ」というのは、ラテン語でも英語でも同じ音の響きですが、「ゴルゴタ」と同じ意味です。「主イエスの十字架、わがためなり」という同じ歌詞の讃美歌を、共に味わいたいと思います。