松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年9月25日(日)
説教題「人間の死を背負うキリスト」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第18章38b〜40節

ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

旧約聖書: 創世記2:4~17

本日のこの礼拝は、逝去者記念礼拝として、礼拝を行っています。教会員であったご家族を亡くされた方々も今日はこの礼拝に集っておられます。この礼拝が終わった後、場所を中山霊園の教会墓地に移して、墓前礼拝を行う予定です。何人かの方々の納骨も予定しています。ぜひ多くの方々と共に、教会墓地においても礼拝を守りたいと願っています。

この墓前礼拝に合わせてというわけではありませんが、教会が時々発行しています『おとずれ』が今日、発行となりました。逝去者記念礼拝とおとずれ発行が時期的にも重なることが多いのですが、今日の日もそうなりました。

今回のおとずれは二六三号になります。いつもですと一二頁とか、多くても一四頁だったのですが、今回は全部で一六頁になります。夏の諸行事の報告・感想の記事が載せられています。子どもたちも書いてくれました。二週間前の教会設立において、受洗者・転入会者が与えられました。わずか二週間しかありませんでしたが、その記事も寄せていただきました。

そして今回のおとずれの中に、逝去者の方々を覚える追悼文も多く載せられています。松本東教会では、今年の五月、六月、七月と、相次いで愛する教会員の方々が逝去されました。その葬りの時が続きました。その逝去された方々のご家族、あるいは親しい教会の友からの文章が寄せられたのです。

毎回のおとずれにおいてそうなのですが、最終的な編集の責任を負うのが私になります。もちろん細かなところにいろいろと気を遣う作業ではありますが、毎回、この作業を私も楽しみにしています。まさに編集者の特権でありますが、いち早く、このおとずれの文章を、隅々まで読むことができる。毎回、編集をしていて、思うことがあります。それは、今回のおとずれが一番よいと思うことです。ああ、今回のおとずれが今までで一番よかった。そう思っていたら、またおとずれの編集時期がやってくる。そうすると次も、今回がこれまでで一番よかった。毎回のようにそう思うのです。

なぜそう思うのか。それはそれぞれの文章を読んでいると、神が確かに生きて働いておられることが分かるからです。その恵みを存分に味わうことができるからです。今回のおとずれの最後のところ、「牧師室だより」で書かせていただきましたが、私たちが「生きている」よりも神に「生かされている」ことがよく分かるのです。

今回の逝去者の方々の追悼文においてもそうであります。故人を偲び、いろいろなことが書かれています。こういう愛唱聖句・愛唱讃美歌に「生かされた」ことが書かれています。こういう家族や教会の仲間たちに支えられ「生かされた」ことが書かれています。こういう苦難があったけれども、「生かされた」ことが書かれています。

それぞれの葬儀においても、順風満帆に歩んで来られて、輝かしい人生でした、そのような形で葬儀説教が語られたり、故人略歴が飾られるようなことはなかったかもしれません。むしろ、いろいろなことがあったかもしれないけれども、よく生かされてきた。悲しみの中にあっても、その恵みを味わう葬りの時を過ごしてきました。このおとずれにも、そのことが書かれていますので、ご家族の方々をはじめとして、そのことをよく思い起こしていただきたいと思います。

ただ今、「いろいろなことがあった」と申し上げました。逝去者の方々だけでなく、私たちの人生にもいろいろなことがあります。嬉しいこと、楽しいこと、順調なこと、そればかりではありません。苦しいこと、悲しいこと、逆風なこと、いろいろなことがあります。苦しみや悲しみの受け止め方は、人それぞれだと思います。

しかし教会に集うキリスト者は、表面的な苦しみや悲しみだけを見ることはしません。その表面に表れてきていることだけではなく、苦しみや悲しみの根っこにあるものを見ます。そうすると何が見えてくるか。聖書が言う「罪」というものが見えてくるのです。この罪との戦いが人生においてある、それがキリスト者の考え方です。

先ほど、聖書箇所を朗読しました。ヨハネによる福音書の聖書箇所に、「罪」という言葉が出てきました。「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」」(三八節)。

ここに罪という言葉が使われています。聖書でよく出てくる言葉ですが、日本語で罪という言葉を使う場合、よく説明をして使わなければならないところがあります。罪と聞くと、どんなことを思われるでしょうか。犯罪のようなことを思い浮かべるかもしれません。まして自分は罪人などとは思わないでしょう。

ここでピラトという裁判官が使っている「罪」という言葉は、確かに犯罪の意味で罪という言葉が使われています。主イエスが裁判の被告人席に連れてこられたけれども、私には何の「犯罪」も見当たらないと言うわけです。

ところが、多くの聖書箇所で「罪」と言っている箇所では、この言葉とは別の言葉が使われています。英語の聖書を見ますと、この三八節に出てくる言葉は実に多様です。英語の聖書には、星の数くらいの翻訳がありますが、片っ端から聖書を開いてこの箇所を読んでみると、実にいろいろな違う言葉が使われています。guiltであったり、crimeであったり、fault、charge、accusationなど、犯罪や罪責を表す多様な言葉が使われています。

しかし聖書が本当に言いたい、人間の根っこのところにある「罪」は、必ずsinという言葉が使われています。これは「犯罪」などのようなことではなく、人間の誰もが持っている根っこのところに絡み付いているものです。逝去者の方々はこの「罪」に向き合って歩んだ。そしてこの「罪」がイエス・キリストによって赦されて「生かされてきた」のです。

もう少しこの「罪」ということを考えたいと思います。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記第二章になります。人類が最初、創造された時のことが記されています。特に今日の箇所では、聖書が人間をどのように理解しているのかがよく分かります。まずは第二章七節のところにこうあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記二・七)。

人間はその体が土の塵で造られた。そして土に返るわけですが、この体だけでは人間は生きるものにならなかった。その鼻に命の息、神からの息が吹き入れられて、人は初めて生きる者となったのです。これがまず「生」に関する人間理解です。

続いて、第二章一七節のところです。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記二・一七)。神は楽園のどの木からも食べてよい、ただし善悪の知識の木からだけは取って食べてはならないと言われます。神の唯一のご命令でした。それを食べると「死んでしまう」から、と言われたのです。

聖書の最初のところで、人間の歩みの最初のところで、生と死に関することが言われています。この後、最初の人間アダムとエバは、神のご命令を守ることができず、蛇にそそのかされて、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。何が起こったでしょうか。アダムとエバは直ちに死んでしまった…、かというと、そうではありませんでした。生物学的な死のことが言われているわけではないのです。

神のご命令を守らなかったことにより、神と人間の間の関係が壊れてしまいました。聖書ではこのことを「罪」(sin)と言います。つまり、関係が壊れ、「罪」のうちに死んでしまったのです。アダムとエバの二人の子ども、カインとアベルがいます。カインが怒って弟アベルを殺害してしまう事件も続いて起こります。これも人間と人間との間の関係が壊れてしまったのです。根っこにある「罪」によって、表面的な「犯罪」が引き起こされてしまった。まさにその典型的な出来事だと思います。

逝去者の方々は、この「罪」に真摯に向き合ったのです。自分は「犯罪」を犯しているわけではないかもしれないけれども、自分の中にこの「罪」がある。この「罪」をどうすればよいか。主イエス・キリストの十字架によって赦される以外に道はない。そう信じて歩まれたのです。

ヨハネによる福音書に戻りますが、三九節のところで、裁判官であったピラトがユダヤ人たちに対して妥協案を出します。「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」(三九節)。ピラトは無実の男を罰するわけにはいきませんので、こういう妥協案を出したわけです。しかしこの妥協案に対して、ユダヤ人たちは答えます。「すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。」(四〇節)。

バラバという人物が出てきました。バラバとはどんな人物だったのでしょうか。新約聖書には、四つの福音書があります。その四つの福音書すべてに、主イエスの十字架の場面が記されているわけですが、どの福音書であっても、このバラバのことは出てきます。ヨハネによる福音書は、バラバに関しては少しあっさりしているところがあるかもしれません。

しかし他の福音書では、もう少し詳しく書かれています。例えば、マルコによる福音書にはこうあります。「さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の中に、バラバという男がいた」(マルコ一五・七)。ルカによる福音書でも、ほぼ同じ記述があります。「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである」(ルカ二三・一九)。

マルコとルカには、暴動を起こして人を殺めてしまったことが記されています。ヨハネによる福音書では、ただ「強盗であった」だけです。ここで使われている「強盗」という言葉、もちろんただの「強盗であった」とも読めるのですが、それ以上の人物だったと思われます。ヨセフスという主イエスの時代よりも少し後のユダヤ人歴史家がいますが、このヨセフスが同じ「強盗」という言葉を、ある書物の中で使っています。もちろんここでのバラバではない別人物に対してですが、この人物はローマ帝国への革命家でありました。

そう考えると、このバラバも単なる強盗ではない。ローマ帝国に対する抵抗運動をリードしていた、革命家だったと考えられます。その暴動の最中に、おそらくローマ帝国の兵士だと思いますが、その兵士を殺してしまった。その容疑で逮捕されて、刑罰を受けるのを待っている身分だったのです。

こういうバラバのような人物に待ち受けていたものは何だったのでしょうか。それは、十字架刑であります。十字架刑というのは、決してローマ帝国の市民が受けるようなことはありませんでした。ローマ帝国の市民以外で、ローマ帝国に刃向った者たちに対して、見せしめのためになされたのが十字架刑でした。つまり、バラバは十字架刑間違いなしというような人物だったのです。

マタイによる福音書では、バラバの名前をもう少し詳しく書いています。この人物は「バラバ・イエス」という名前でした。そこでピラトは言います。「どちらを釈放して欲しいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」(マタイ二三・一九)。二者択一です。どちらのイエスか。バラバか、それともメシア(キリスト)か。どちらをあなたがたは望んでいるか。ピラトの問いはそういう問いでした。

ユダヤ人たちにとっては、ローマの支配への抵抗運動をしてくれるバラバの方が都合がよかった。ピラトにとっては、ローマに刃向ったバラバ釈放などとんでもない、ローマ帝国にとって無害なキリストの方でありました。しかしピラトの思い通りには事が運ばなかった。ユダヤ人たちに押し切られてしまった。本当の身代わりとしての十字架刑が確定することになったのです。

バラバという人物が、こういう人物だと分かったとしても、バラバのような「犯罪者」と自分の姿を重ね合わせるのは、なかなか難しいことであるかもしれません。「ミッション・バラバ」というグループがあります。いわゆる元ヤクザだった者たちが回心をして伝道者になった。そういう者たちが集まって形成されたグループです。かつて、私たちの教会もかかわりを持っているMCC(松本キリスト教協議会)でも、お招きをしたことがあります。その頃のことをご存知の方もあるでしょう。

「ミッション・バラバ」のグループに属する者たちは、自分たちはかつて「バラバ」のようだった。そのように自分たちの姿をバラバに重ね合わせているところがあるのだと思います。私たちとしてはどうでしょうか。なかなか重ね合わせるのは難しいというのが正直なところかもしれません。

しかしバラバがやってしまったことはさておいても、バラバにこの後待ち受けていたのは、人間として、最も苦しい苦しみでありました。一説によると、十字架刑に決まった人間に対して、まず鞭打ちがなされます。人間の肉体を切り裂くような鞭が使われていたようです。この後の十字架刑があまりにも苦しいので、絶命を早めるために、まず鞭で打つことがなされたと言われています。そんな慈悲とも言えないような慈悲をかけなければならないくらいの刑が十字架刑です。バラバはそれを味わわなくて済んだ。主イエスがそれを代わりに味わわれた。そのことが分かるのが、とりわけ重要であると思います。

主イエスが実際に十字架で味わわれたこの苦しみは、どれほどの苦しみだったのでしょうか。その苦しみを想像することはもちろん無意味なことではありませんが、決してその苦しみの深みにまだ、私たちは到達することはできません。

五月、六月、七月と、葬儀が続き、その葬儀の際に、あるいはその後に、逝去された方々のご家族から、いろいろな話を伺いました。長年連れ添ってきたけれども、その心の奥底でどのようなことを考えていたのか、そのことは分からなかったという声を聞きました。召された後、荷物の整理をしていたら思いがけないものが出てきた。それを見て初めて、ああ、こんなことで悩んでいたのか、信仰に向き合っていないと思っていたけれども、実は心の奥底でそんなことに苦しんでいたのか、そのことが今になってようやく分かったという出来事もあったようです。私たちが他人の心の内にある苦しみを、本当によく知ることはできません。

まして、主イエスの苦しみがどれほど大きかったのか、背負わされた罪がどれほどの重荷だったのか、私たちは想像するかもしれませんが、本当の重荷を知ることはできません。それよりもむしろ、私たちがわきまえておくべきことは、主イエスがどの人間よりも、最も深い苦しみを味わってくださったということです。それも私たちの代わりに味わってくださったということです。私たちがその苦しみを味わわなくて済むようにです。

主イエスはバラバの罪を負ってくださいました。何の咎めるべきところもないのに、十字架にかけろと叫んだユダヤ人たちの罪を負ってくださいました。本当は無罪判決を下さなければならなかったピラトの罪を負ってくださいました。そして私たちの罪を負ってくださった。私たちが抱える罪、苦悩、悩み、死、それらよりもずっとキリストの苦しみの方が大きい。そのことが分かり、信じることができれば幸いです。

この後で讃美歌第二編九九番を歌います。「人よ、汝が罪の」という讃美歌です。この讃美歌は今からずっと前ですが、ヨーロッパで教会が改革されていった、今から五百年ほど前に作られた者です。作詞者・作曲者の二人によって作られましたが、その後もかなり親しまれてきました。教会音楽で有名なあのバッハも、大変この曲を好んでいたと言われます。バッハは代表作であるマタイ受難曲を作りました。彼の大作でありますが、マタイ受難曲の第一部の最後の合唱の曲として、「人よ、汝が罪の」を取り入れました。

マタイ受難曲は、そのタイトルに表されているように、マタイによる福音書に基づく、主イエスの十字架での受難のストーリーが奏でられています。第一部と第二部があります。第一部が主イエスの逮捕まで。第一部の最後のところで「人よ、汝が罪の」の合唱がなされます。第二部は主イエスの逮捕後です。バラバの場面もあります。不協和音で、人々がバラバを解放せよと叫ぶ「バラバ!」という声も取り入れられています。そして第二部の最後は、やはり合唱の曲ですが「われらは涙流してひざまずき」という曲で終わります。

第一部、第二部とも、それぞれの終わりは、罪を嘆いたり、涙を流したり、そういう終わり方です。バッハは何を表したかったのでしょうか。単に悔いなさい、涙を流しなさい、そういうことだけではありません。むしろ、主イエスが死や罪を代わりに背負ってくださった。だから、あなたがたはこのように歩みなさいということをバッハは表しているのです。讃美歌第二編九九番にも、そのことがよく歌われています。一節には「死にたるを生かし、病をとり去り」という歌詞があります。二節にも「されば感謝もて、み傷あおぎつつ、み旨にしたがわん」という歌詞があります。

これらの言葉は、みな、主イエスの十字架に「生かされた」ことから出てくる言葉です。自分を見つめ、自分の罪をしっかりと見つめなければならない。確かに悔いて涙をしなければならない。しかしそれ以上に、キリストの十字架を見上げ、自分のために十字架にお架かりになってくださったことを覚えるのです。

キリストはバラバのために十字架にお架かりになってくださいました。バラバだけではありません。私のため、私たちのため、全人類の罪を背負い、キリストが十字架に赴いてくださった。だから教会は十字架を掲げます。この十字架が私たちの赦しのしるし、愛のしるしになるのです。