松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年9月4日(日)
説教題「人間の不正義とキリストの正義」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第18章12〜27節

そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

旧約聖書: 箴言21:1~7

本日、私たちに与えられた聖書箇所から、いよいよ主イエスが逮捕され、裁判にかけられる場面に入ります。最初の一二節にこうあります。「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り…」(一二節)。神の独り子である主イエスが捕えられ、不自由を味わわれる。そして裁判にかけられ、十字架の死を負われていくのです。

本日の聖書箇所は一二節から二七節までですが、この箇所の構造を押さえておきたいと思います。新共同訳聖書ではブロックごとに小見出しが付けられています。今日の聖書箇所では四つのブロックがあり、それぞれ小見出しが付けられています。かつての口語訳聖書ではこのようなブロックや小見出しはありませんでしたが、口語訳聖書でもやはり四つの段落には分かれています。

新共同訳聖書の小見出しは、もともと聖書にあったものではありませんが、それぞれの小見出しを見ていきますと、最初の一二~一四節のところには「大祭司」、そして三番目の一九~二四節のところにも「大祭司」という言葉が含まれています。つまり、主イエスが「大祭司」の前で裁判を受けられる話がそこには記されていることになります。

対照的に、二番目の一五~一八節のところには「ペトロ」、最後の四番目オン二五~二七節のところにも「ペトロ」という言葉が含まれています。つまり、主イエスの裁判の行方が気になって仕方ないペトロのことが、ここには書かれていることになるのです。

今日は一二~二七節、四つのブロック全体を朗読しましたが、来週もまた同じ聖書箇所を朗読します。今日は第一と第三のブロックである「大祭司」のことに関して、御言葉を聴きます。そして来週は第二と第四のブロックである「ペトロ」のことに関して、御言葉を聴きます。こっちの話からあっちの話へ行き、あっちの話からこっちの話へ戻っていく。そういう構造を持っている書かれ方をしているのです。

さて、大祭司として、今日の聖書箇所ではアンナスとカイアファという二人の名前が出てきます。「まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。」(一三節)。

アンナスとカイアファについて、歴史的に知られていることがあります。アンナスは紀元六~一五年まで大祭司の職に就いていたことが知られています。主イエスのこの十字架の時期には、もうすでに大祭司を退いていたはずです。この頃はすでにカイアファが大祭司でした。大祭司というのは、原則的に一人です。

ところが、アンナスはその後も大祭司としての影響力を持っていたのです。影の大祭司と言った方がよいかもしれません。ルカもこのように書いています。「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」(ルカ三・二)。使徒言行録を書いた同じルカは、こうも書いています。「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった」(使徒言行録四・六)。つまり、カイアファが大祭司ではありましたが、本当に力を持っていたのは、そのしゅうとであるアンナスということになります。

主イエスは捕えられ、このアンナスのもとにまず送られました。裁判が始まっていきます。一九節から、第三のブロックに入りますが、こう記されています。「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。」(一九節)。ここでは名前が記されてなく、「大祭司」とだけありますが、これはアンナスのことでしょう。二四節には「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」とありますので、アンナスでの裁判の後、カイアファのもとに送られて、また裁かれた。

他の福音書では、大祭司カイアファの裁判のことが記されていますが、ヨハネによる福音書では、カイアファの前での裁判が省略されて、逆にアンナスの裁判のことが細かく記されているということになります。

本日の聖書箇所から主イエスの裁判が始まっていきますが、聖書に記されている記事から、主イエスはアンナスの前で、カイアファの前で、ルカによる福音書には権力者のヘロデの前で、そしてどの福音書にも記されていますが、総督ピラトの前で裁かれた。夜から朝にかけて、短時間にたくさんの裁判を受けられたことになります。

裁判というものは、正当に行われなければなりません。それは当たり前のことです。裁かれる人の運命を決することになるのですから。旧約聖書でも、正当な裁判が行われるように心がけなさいということが、何度も繰り返し言われています。ところが、この裁判はどうだったでしょうか。正当な裁判が行われたでしょうか。まったくそうではありませんでした。

いったい主イエスが何の罪で訴えられているのか、そのことが明言されているわけでもありません。それどころか、主イエスはこう言われています。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」(二〇~二一節)。

このように言われた主イエスに対して、彼らが平手で主イエスを打ったことが記されています。「イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った」(二二節)。平手で打つというのは、主イエスを黙らせるための行為だったようです。それでも主イエスは言われます。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」(二三節)。結局、彼らは主イエスのどこが悪かったのか、最後まで言うことはできませんでした。

今日の説教の説教題を「人間の不正義とキリストの正義」と付けました。もうすでに、裁く側の人間側が不正義であること、裁かれる側の主イエスに正義があることは明らかです。ここでなされていたのは、不正義な裁判です。一四節にこうあります。「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」(一四節)。

この言葉は、ヨハネによる福音書の第一一章ですでに出てきた言葉です。少し長い引用になりますが、その前後の箇所も合わせてお読みしたいと思います。

「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(一一・四五~五三)。

主イエスの友、ラザロの復活の直後の出来事です。皆が主イエスを信じるようになる。そうすると革命のような出来事が起こり、ローマ軍がやって来て鎮圧され、我々が滅びてしまうのではないか、それがユダヤ人の為政者の心配事でした。そこで大祭司のカイアファが口を開くのです。あの男一人を犠牲にすればよいではないか。そうすれば我々は助かるではないか。カイアファが何気なくそういったのです。

ところが、ヨハネによる福音書の著者はこの言葉を違ったように解説します。カイアファ自身もまるで気付いていなかったけれども、主イエス一人が死なれることによって、人間に救いが与えられる。カイアファの意図を超えたことが、主イエスの十字架の死によってなされたのだ、そう解説をしているのです。

もっとも、カイアファはそんなことは知る由もなかったわけです。あの男一人が犠牲になればよい。その方が「好都合だ」、そのように言ったにすぎません。カイアファがそう思っていたように、このときのアンナスも同じ思いだったでしょう。「好都合だ」。新改訳聖書では「得策である」と訳されています。利益になる、役に立つということです。何が自分たちにとって都合がよいのか、利益になるのか、役に立つのか。利権争いなどという言葉がありますが、いつの時代も為政者たちは利権争いを繰り広げているのです。もう裁きの結果が決まっているような、そういう裁判でありました。歪んだ、不正義な裁きだったのです。

私たちも人を裁くことを、よく考えなければなりません。主イエスはあるとき、このように言われました。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ七・一~五)。

人を裁こうとする。少し比喩的な表現ですが、相手の目の中におが屑がある。そのことが分かる。取り除こうとして相手を裁く。しかし主イエスは、自分の目の中に丸太があるではないかと言われるのです。丸太があれば、相手から「あなたの目にはおが屑どころか丸太があるではないか」と言われてしまい、何も言い返すことができなくなってしまいます。主イエスはまず自分の目から丸太を取り除け、そうすれば他人のおが屑を取ることができるようになると言われます。丸太があるままでは正当な裁判ができないことは明らかです。だから裁くなと主イエスは言われる。ここでの大祭司による裁きも、自分たちの目の中の丸太が見えていなかったことは、明らかでしょう。

私たちも、アンナスの裁きを笑えないところがあります。主イエスの「人を裁くな」という言葉を自分のこととしてしっかり聞かなければなりません。私たちも不義や不正義に束縛され、そこから自由になることがなかなかできません。そういう不義や不正義から自由になるためには、どうすればよいでしょうか。聖書が言っている答えは実に単純です。不義を赦していただくしかない。そして神に義と認めてもらうしかない。答えはとても簡単なのです。

そのことに関連して、ウェストミンスター小教理問答をご紹介したいと思います。教会の歴史の中で、多くの問答集が作られてきました。私たちの教会でも、ハイデルベルク信仰問答を現在、学んでいます。ウェストミンスターの教理問答も、このハイデルベルク信仰問答に並ぶ、世界的な信仰問答です。

イギリスのロンドンに旅行に行きますと、ほぼ必ず行くことになる場所として、ウェストミンスター寺院を挙げることができます。寺院というよりも、大聖堂や教会と言った方がよいと思います。英国の教会の中心地であっただけでなく、歴史的にも王の戴冠式が行われたり、著名人がそこに葬られていたり、とても有名な教会です。

そのウェストミンスターの教会に、一七世紀、神学者や牧師たちが集まり、信仰告白、大・小の教理問答が作成されました。これらをまとめて「ウェストミンスター信仰基準」と言われていますが、主にこれを受け入れたのは、長老主義の伝統にある教会です。私たちの松本東教会もそのルーツの上にあります。しかし決してごく狭い範囲でしか通用しないものではなく、イングランド、スコットランド、アイルランドを中心に広く通用するように作られ、それが受け入れられ、普遍的に用いられているところがあります。日本の教会でも、このウェストミンスター信仰基準を大事にしている教会も多いのです。

そのウェストミンスター小教理問答の問三三にこうあります。

問三三:義認とは、何ですか。
答:義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受けいれてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受けとるキリストの義のゆえです(日本基督改革派教会大会出版委員会編)。

義認というのは、その文字通り、義と認められることです。神があなたを義である、正しいと認めてくださるということです。その義認がどのように起こるのか。答えのところに「転嫁」という言葉が用いられています。転嫁とは何でしょうか。よく私たちは「責任転嫁」という言葉を使いますし、責任を転嫁したり、されたり、ということを日常茶飯事のこととして経験していると思います。責任という言葉がつかなかったとしても、転嫁という言葉だけで、罪や責任を他人になすりつけることという意味があります。自分にも悪いところがあるのに、お前が悪い、いやそもそもこうなったのは神が悪い、などと相手を裁きまくっている。私たち人間の罪がよく表れている言葉だと思います。よい意味で本来は使われることのない言葉です。

ところが、このウェストミンスター小教理問答では、良い意味でこれを用いています。キリストの義、正しさが転嫁されると言うのです。キリストが私たちに、責任をなすりつけてこられるのではなく、義をなすりつけてくださる。つまり、キリストからお前が悪い、お前にこんな罪がある、そう言われるのではなく、お前はよい、お前は正しい、お前は義である、そう言っていただけると言うのです。

これが義認だと、ウェストミンスター小教理問答は言うのです。義と認められる。なぜなら、キリストが義を転嫁してくださったからです。なすりつけてくださったからです。キリストの十字架によって、私たちの不義が赦されている。だからこのようなことが起こるのです。

本日の聖書箇所に戻りますが、今日の箇所から一連の裁判が始まっていきます。ヨハネによる福音書に限らず、四つの福音書では、主イエスの十字架前の裁判を克明に記録しているところがあります。礼拝の中でも告白した使徒信条でも、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と唱えます。これはピラトの前で裁判を受けて、苦しみを受けられたことを表しています。

主イエスが十字架で死なれる。どんな死に方でもよかったというわけではありません。石を投げられて殺されそうになる場面もありましたが、そのようにキリストは死なれなかった。きちんと裁かれた。その上で十字架という刑が下された。私たちの代わりに罪を背負ってくださり、私たちの代わりに裁きを受けてくださり、私たちの代わりに死んでくださった。そのことによって、私たちの罪の責任がキリストに転嫁され、キリストの義、正しさが私たちに転嫁されたのです。

今日の聖書箇所の二〇節で、主イエスはこう言われています。「わたしは、世に向かって公然と話した。」(二〇節)。主イエスはひそかに話されたのではない。公に、公然と話された。文法的には、完了形が使われています。もうすでに、主イエスは公然と語ることを完了されたのです。これ以降、裁判の場で特に主イエスが何か新しい教えを付け加えられているわけではありません。むしろ、黙って裁かれ、死を受け入れておられる姿が描かれています。キリストが義を転嫁してくださるお姿です。キリストはすでに語られた。十字架にお架かりになった。あとは私たちがキリストを受け入れて、信じるかだけです。

最後に、もう一度、今日の説教の説教題に立ち返りたいと思います。「人間の不正義とキリストの正義」。「人間の不正義」と「キリストの正義」、二つのものが並べられていますが、両者は肩を並べるものではありません。確かにこの世には、「人間の不正義」が満ちあふれている、それは事実です。確かに私たち人間の罪が渦巻いている、それも事実です。しかし、それにもかかわらず、キリストの正義が人間の不正義に勝っている。人間の罪がキリストの十字架の中に飲み込まれた。キリストがすべてに打ち勝ってくださった。それが私たちの信仰なのです。