松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年8月28日(日)
説教題「神がここにおられる畏れ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第18章1〜11節

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

旧約聖書: 出エジプト記3:11~15

イエス・キリストの十字架の出来事は、世界の片隅で起こった出来事です。二千年前のその時から、全世界のすべての人が注目をしていたわけではありません。むしろ当時のローマ帝国という巨大な帝国の中で、ユダヤという一地方に過ぎない、それも民衆の一人の男が十字架につけられた、そのような出来事でありました。

今の私たちは学校で世界史を習います。歴史というものは、書かれた書物がもとになって構築されていきますが、ローマ帝国の歴史を書いているものはたくさんあります。しかし昔に書かれた歴史書の中で、イエス・キリストに関する記述はないのです。ローマの皇帝や地方総督、有名な議員がこのような形で死んだという記録はたくさんありますが、ユダヤ地方でイエスという男が十字架刑に処せられた、などという記録は皆無です。

当時の歴史家の誰もが、そのようなことは記録しなかったのです。誰からも目に留められないような小さな歴史的出来事だったかもしれません。しかしそれを教会の者たちが記憶し、記録し、語り伝えてきました。それが今の聖書です。特に新約聖書は、他の誰も記録しなかったイエス・キリストの十字架を伝えるために書かれた、そういっても過言ではないのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所から、ヨハネによる福音書では第一八章に入ります。第一七章まで、会話文がほとんどでありましたが、それもほとんど主イエスがお語りくださったことでありました。十字架を目前にして、主イエスが弟子たちに様々なことを語ってくださったのです。

そして第一八章に入り、もちろん会話文も出てきますが、記述が叙述的になっていきます。主イエスやそのほかの者たちがどのように行動したのか、そのことがよく分かります。十字架への道がどのようにしてたどられていったのか、そしてそれが何を表しているのか、教会の人たちはきちんとその記録を残したのです。

本日の聖書箇所の最初のところに、ギドロンという地名が出てきます。ギドロンの谷です。エルサレムという街は、小高い丘のような場所にあります。ということは、そこには山あり谷ありということになります。オリーブ山という山がありました。そのすぐ近くに、ギドロンの谷と呼ばれる場所がありました。旧約聖書の中にも何度もこの地名が出てきます。そしてその近くに、ゲツセマネの園があった。一節のところにも「そこには園があり」とありますが、ゲツセマネの園のことが言われています。

本日の聖書箇所の前半のところに、主イエスのお言葉があります。端的な言葉ですが、とても深い意味を含んでいる言葉だと思います。「だれを捜しているのか」(四節)にそのようにあり、「ナザレのイエスだ」(五節)という答えが返ってきます。そうすると主イエスは「わたしである」(五節)と言われます。まったく同じやり取りがなされます。「だれを捜しているのか」(七節)、「ナザレのイエスだ」(七節)、「わたしである」(八節)。

「だれを捜しているのか」(四、七節)。主イエスが二度も問うたほどに、この問いはけっこう重要な問いだと思います。ユダが引き連れてきた兵士たちは、「ナザレのイエス」を捜していると答えました。私たちは主イエスの問いかけに対して、どのように答えるでしょうか。

ずっと昔のことになります。私が大学生くらいだったと思いますが、教会の集会がありました。集会室のようなところに、椅子が円形に並べられ、皆がそこに座っていたわけですが、その中に小さな子どものいる若い夫婦がいました。まだ一歳とか二歳とか、歩き始めて間もない子です。父と母が離れて座っていましたが、その集会の間、その小さな子どもが、父親と母親の間を行ったり来たり、楽しそうに過ごしていました。周りの私たちもほほえましく見ていましたが、こんなに大勢の中で、よく父親と母親を間違えずに、行き来することができるねと感心をしていました。しかし子どもにとって、それは当たり前のことです。子どもは自分が本当に求めるべき人、捜すべき人をよく知っているのです。

私たちはどうでしょうか。本当に求めるべき人を知っているでしょうか。特に今のこの世の中、誰かに期待をするということが強すぎるような風潮があると思います。今の世の中がおかしい、それは誰もが認めることでしょうけれども、そんな世の中をなんとかしなければいけない。自分がこうしよう、そう思う人は少ないかもしれません。

戦争に敗れた直後、多くの日本人がこの国を立て直すために、自分がいったい何をすべきか、そのことを真剣に問いました。真剣に問うた人の中で、教会の牧師になった者も多い。この国を建てなおすために、自分が牧師になることを真剣に問うたのです。

ところが今はどうでしょうか。教会の私たちもそうかもしれませんが、この曲がった世の中に対して、自分がどうこうするということはあまり考えない。それよりも、誰か優れた人が現れて、この世の中を変えてくれ、そう思っている人の方が多いのではないかと思います。そして、ある政治家に期待する。ある経済界の人に期待する。いろいろな人に期待をよせる。しかし残念ながら、一つも期待通りに行かない。この人も駄目だった。あの人も駄目だった。求める人をコロコロと変えていくような、そのような風潮があると思います。

さて、私たちはどうでしょうか。いったい誰を求め、誰を捜すでしょうか。曲がったこの世の中を変革してくれる人を捜すでしょうか。自分の小さな悩みや病の問題だけを解決してくれる人を捜すでしょうか。それとも、私たちの全存在を変えてくれるような救い主を捜すでしょうか。主イエスの問いかけによって、そのことが問われています。

主イエスのお答としては、「わたしである」(五節、八節)という短い回答です。これは、ヨハネによる福音書の中で、とても重要なフレーズです。主イエスはたびたび「わたしは…である」と言われました。「わたしが命のパンである」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは復活であり、命である」「わたしは道であり、真理であり、命である」「わたしはぶどうの木」というように、「わたしは…である」と何度も言われたのです。その基本形が「わたしである」あるいは「わたしはある」という言葉です。英語で言えばI amという、たった二語で表される言葉です。

この言葉を主イエスが言われたら、驚くべきことが起こりました。「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」(六節)。ある説教者が「地に倒れる」というのは「ひれ伏す」と訳すことができると指摘しています。つまり、主イエスの言葉によって彼らが畏れを感じた。それゆえに後ずさりをして倒れた、つまりひれ伏さざるを得なくなったというのです。本当に神に出会った畏れです。

神に出会うと、私たちは変えられます。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記の第三章です。イスラエルの人たちはエジプトで奴隷生活を強いられていましたが、モーセがリーダーとして立てられ、イスラエルをそこから解放していくことになります。そのリーダーとして立てられる、その使命が神から与えられるのが、今日の場面です。

先週の木曜日、オリーブの会が行われました。聖書の初歩的なことを分かりやすく学ぶことができる会です。先週のテーマは、喜びについてです。みんなで話し合っていたときに、私が発言をする番になり、私の喜び、つまり牧師としての喜びを語る際に、まずこう言いました。「牧師になりたいと思っている人は、牧師になることができないでしょう」。

こう言ったら驚かれましたが、実際にそうだと思います。牧師になったら、こんないいことがある、こんな特典がある、ということでは牧師になれないのです。むしろ正確な言い方としては、「牧師になる、その志が与えられる」ということです。なりたくなかったとしても、志が与えられてしまったら、ならざるを得ないのです。

モーセは、今日の箇所の後のところで、神から使命が与えられるわけですが、神からのそのような使命に対して、はっきりと拒否します。なぜ私が、他にふさわしい者もいるだろうに、そもそも私は人前で話すのが苦手である。そういう形で神に抵抗します。しかしそれでもモーセはリーダーとして立てられました。なぜでしょうか。

それは、神が「わたしはある」(出エジプト記三・一四)と言われたからです。神がこここにおられる、そのような畏れを感じる言葉です。モーセもある意味では、後ずさりして倒れたと言えるかもしれません。モーセはこんな思い、あんな思いを抱いていた。そのような自らの思いを退けて、神の使命を受け入れざるを得なくされたからです。

ヨハネによる福音書に戻りますが、ここでの兵士たちは、主イエスの「わたしである」という言葉に、非常に強い畏れを感じたのです。まさに神がここにおられるという畏れです。神のことなどまったく考えなかった。そのような状況で「わたしはある」と言われ、主イエスの中に神の存在をごく身近に感じる。主イエスの言葉には、それほど威力があったのです。

今日の聖書箇所に限らず、聖書が伝えている信仰というのは、何よりも言葉が大事です。旧約聖書の最初の創世記に、天地創造の話が語られています。そこで強調されていることは、いろいろあると思いますが、一つは神の言葉によって世界が造られていったことです。「光あれ」(創世記一・三)と神が言われると、本当にその通りになった。言葉による創造です。また、旧約聖書の中に、預言者と呼ばれる人たちが出てきます。その字が表している通り、神からの言葉を預かって、それを伝える者たちのことです。人々はその言葉によって導かれてきました。

主イエスも同じです。言葉が大事なのです。しかし単に主イエスが語られる言葉だけが大事というわけではありません。主イエスの存在そのものが「言」であると言われています。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書の冒頭にこうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(一・一~四)。

「言」によって、主イエスが表されています。単なる象徴的な表現ではありません。主イエスこそが本当の「言」であるということです。「葉」が取れた字になっていますが、葉っぱのように薄っぺらいものではなく、ゆらゆらと揺れ動くものでもなく、本当の言葉そのものであることを表しているのです。

新約聖書の中に、使徒パウロが書いた手紙があります。パウロが様々な教会に宛てて書いた手紙ですが、教会の人たちに対して、パウロは「教会を建てなさい」とか「人を造り上げなさい」ということを繰り返し語っていきます。具体的に、どのようにパウロはせよと言っているのか。言葉を語ることによってです。「教会を建て上げる言葉を語りなさい」「人を慰め、励まし、造り上げる言葉を語りなさい」という具合にです。その言葉が語られているのが教会なのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、その言葉の威力が表れています。ヨハネによる福音書は、他の三つの福音書と比べて、だいぶ違うところがあります。しかしそれでも、やはり同じことを言っているのです。主イエスが十字架にお架かりになる前の一週間を受難週と言います。他の福音書では、この受難週に様々な論争がなされたことが記されています。それらの論争すべてにおいて、主イエスが勝利なさいました。何とか打ち負かそうと準備をして臨みますが、誰一人、主イエスに歯が立たず、何も言えなくなってしまったのです。主イエスの言葉の威力がよく分かります。

ヨハネによる福音書には、それらの論争の記事は記されていません。しかしそれらがなかったとしても、今日の聖書箇所を読むだけで、主イエスの言葉がどれほど力強かったかが分かります。人々を地に倒れさせ、ひれ伏せさせるほどだったのです。

こう考えますと、主イエスが十字架に向かわれる思いがよく分かると思います。ユダが引き連れてきた兵士たちの武力が強かったから、主イエスをやり込めて捕えることができたというわけではないのです。彼らは地に倒れたほどです。むしろ主イエスが自らの意志で捕えられ、十字架へ赴かれたのです。

八節のところで主イエスがこう言われています。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(八節)。それに引き続き、九節ではこう記されています。「それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」(九節)。

九節のこの言葉は、第一七章一二節の主イエスの祈りが表されていると言われています。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。」(一七・一二)。

前の説教の時にも申し上げましたが、ここでの「滅びの子」とはユダのことを表しているようです。ユダの救いの問題はまた別問題として考えなければなりませんが、少なくともユダ以外の弟子たちのことを、主イエスは守ってくださった。それが「この人々は去らせなさい」という主イエスの言葉なのです。

興味深いことに、他の三つの福音書では、主イエスの弟子たちが主イエスのことを見捨てて逃げてしまったという記述になっています。しかしヨハネによる福音書は、そういうことはほとんど書かれていません。実際にはどうだったのか。他の三つの福音書が言っているように、ペトロのように剣で切りかかった、そのような弟子もいたのかもしれませんが、主イエスのもとから離れてしまったのです。しかしヨハネによる福音書は、そのことではなく、弟子たちが守られたのは、主イエスが去らせてくださったからだ。そのように主イエスが守ってくださったことを強調するのです。

主イエスの弟子たちにとって、自分たちの師匠を見捨ててしまったことは、恥ずかしい出来事であったと思います。ペトロはあなたのために死ぬなどと言っておきながら、そうすることはできなかったのですから。来週の聖書箇所では、ペトロは主イエスとの関係を三度にわたって否定してしまいます。ある意味では、そのような恥ずかしさを抱えながら、伝道しなければならなかったわけです。しかしそのような単なる恥ずかしさを超えて、主イエスが自分たちを守ってくださったのだ、自分たちを保護し、去らせてくださったのだ、その恵みの方を大きく伝えていったのです。

このように、本日の聖書箇所は、主イエスお一人が際立つ仕方で書かれています。主役は主イエスです。ユダでも、兵士たちでも、弟子たちでも、ペトロでもありません。ある説教者が今日の箇所の説教でこのように言っています。「主導権は主イエス側にあった。そのようにこの箇所が書かれている」。

四節のところには「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた」とあります。六節のところには「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」とあります。一一節のところには「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とあります。これらの箇所に表しているように、最初から最後まで、主イエスが主導権を握っておられます。もはやユダの姿も消えています。ペトロも退けられました。お一人で、人間の罪を背負い、自らの意志で十字架に向かわれる主イエスの姿が描かれているのです。

世界の誰からも目に留められないような、一人のユダヤ人の男が十字架刑に処された。当時の歴史家たちは、誰もそのようなことを記録しませんでした。しかし教会の者たちが、その十字架を克明に記録し、その意味を、しかも自分たちの救いの出来事として、語り伝えてきたのです。主イエス・キリストが私たちの救いのために、十字架に向かわれ、私たちの罪を赦し、救い主になるために十字架に向かわれたことを伝えたのです。私たちが本当に誰を探し求めるべきなのか、答えは明らかです。十字架にお架かりになった主イエスです。