松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年7月31日(日)
説教題「私たちを執り成すキリストの祈り」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第17章6〜19節

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

旧約聖書: サムエル記上2:22~26

昨日のニュースに、カトリック教会のローマ法王が二九日、アウシュビッツ強制収容所に赴き、犠牲者に祈りを献げたというニュースがありました。ナチス・ドイツによって、ユダヤ人たちをはじめ多くの人たちが第二次世界大戦中に犠牲になりましたが、犠牲者も最も多く生み出した収容所の一つです。そのニュースの中に、ローマ法王がポーランド軍人の身代わりになって死んだコルベ神父の監獄の跡でも静かに目を閉じた、と記されていました。

コルベ神父という人物をご存知でしょうか。この人はポーランドのカトリックの司祭でした。一八九四年に生まれ、一九四一年、アウシュビッツ強制収容所にて命を取られた人です。幼少時代は母親が心配するほど小柄だったようです。しかし母の信仰を受け継ぎ、カトリックのフランシスコ会の修道士になり、司祭になっていきます。一九三〇年に日本の長崎にも来ました。その後、ポーランドに戻り、第二次世界大戦が勃発していきます。コルベ神父はユダヤ人ではありませんでしたが、ナチス・ドイツによって迫害され、アウシュビッツに送られることになったのです。

強制収容所での生活が続く中、一九四一年七月末のことです。脱走者が出ます。そこで、連帯責任として、無作為に選ばれた十人が処刑されることになりました。実際にそれはどうも脱走ではなく、後日、脱走したと思われた人が、収容所内で溺死していたのが見つかったようですが、しかしその事実がその時は分からず、十人の者が選ばれた。その中に、ガイオニチェクという人がいました。

このガイオニチェクはポーランド人の軍人でした。自分が選ばれてしまい、前に連れ出された時、自分には妻と子どもがいる、と声をあげて泣きました。それを聞いたコルベ神父は、自らが前に進み出た。自分はカトリックの神父で、妻も子どももいないから彼の代わりにしてくれと言ったのです。そしてガイオニチェクの身代わりに死ぬことになりました。コルベ神父も含めその十人は、監獄の中に水も食料も与えられず閉じ込められて、二週間のうちに死んでいったのです。

コルベ神父に助けられたガイオニチェクは、アウシュビッツ収容所を生き残ることができました。ガイオニチェックの回想をある人が紹介してくれていますので、ここでも引用します。

「副所長の命令が下り、餓死刑にするための囚人を選び出しました。その中に選ばれてしまった私は、妻に会いたい、子どもに会いたいと絶望のあまり叫んだのです。すると、一人の囚人が前に進み出で、私が身代わりになると申し出たのです。その人こそコルベ神父でした。私はその時に起こった出来事を、直ちに理解することはできませんでしたが、これは夢かと思いました。他人の命を救うために、自発的に自分の命を差し出すなんて…。私はコルベ神父に何かを言う間もなく、自分の元いた場所に戻されましたので、目で感謝を伝えることしかできませんでした。このニュースは瞬く間に収容所に広がりました。私は救われたのです」。

コルベ神父が監獄に閉じ込められていた二週間、水も食料も与えられず、そこは希望のない場所でありましたが、しかし絶望の監獄の中から、讃美や祈りの声が聞こえてきたと、多くの者たちが証言しています。最後は讃美にもならないうめき声だったようです。

ガイオニチェクの回想は、さらにこう続いていきます。「コルベ神父の犠牲のおかげで、私は彼がしたことをこのように伝えることができます。その間、コルベ神父のことを思うたびに、自責の念に駆られました。私は自分の命を救うために、彼の死の宣告書にサインしたのです。しかし今は、コルベ神父のことを思うとき、私には彼のような人には、ああするのが自然だったと理解できます。おそらく彼は、神父である自分の居場所は、死にゆく者と共にあると考えたのでしょう。実際彼は、最期の最期まで彼等と一緒だったのですから」。

ガイオニチェクが語っているように、人の命の犠牲の上に、自分の人生が成り立っている。これは想像を絶するような体験かもしれません。しかしその後の人生において、自分を救ってくれたコルベ神父のことを、ガイオニチェクはいろいろなところで伝えていきました。自分のために、こんなことをしてくれた人がいる、と。そういうこともあってでしょう。コルベ神父はやがてカトリック教会の聖人になりました。

コルベ神父がしたことは、確かにすごく偉大なことです。とうてい真似をすることはできないと多くの人は思うでしょう。しかしコルベ神父もまた、キリストによって身代わりの命を受けた人です。自分もまたそのキリストに倣った。ガイオニチェクはコルベ神父の執り成しによって命が助かりましたが、キリストもコルベ神父と同様、いやそれ以上に多くの人の執り成しをしたのです。

今日の説教の説教題を、「私たちを執り成すキリストの祈り」と付けました。キリストが私たちを執り成してくださる。私たちを覚えて祈ってくださるのです。先週の説教でも申し上げましたが、ヨハネによる福音書の第一七章に記されている一連の祈りは、「大祭司の祈り」と呼ばれることがあります。大祭司は人々を執り成す人でした。キリストが大祭司として私たちのために執り成してくださった。祈りに於いてだけではありません。文字通り命を懸けて執り成してくださったのです。

今日の聖書箇所は六節から一九節まででありましたが、この祈りの言葉の中に、「彼ら」という言葉が出てきます。主イエスの弟子たちを指している言葉ですが、「彼ら」となっています。日本語だと「彼ら」「彼女ら」「それら」と使い分けなければなりませんが、外国語だと、例えば英語の“they”のように、一緒にまとめて言うことができます。

主イエスがこれから十字架にお架かりになり、「彼ら」、つまり弟子たちのところから去って行こうとされていますが、教会の人たちは弟子の「彼ら」限定で考えてきたわけではありません。男も女も、この中に自分たちが含まれると考えてきた。主イエスが私たちのために祈っていてくださる、執り成していてくださる、そのようにこの祈りを聞いてきたのです。

実際に弟子たちがこの主イエスの祈りを聞いた時、「彼ら」という言葉が耳に聞こえてくるたびに、心が動いたと思います。主イエスの祈りの言葉の細かいところまでは分からなかったと思いますが、しかし「彼ら」という言葉を聞くたびに、ああ、自分たちのために主イエスが祈ってくださったと感じていたでしょうし、その後の弟子たちの歩みの中で、あの時、主イエスが祈ってくださったことを、いつまでも覚えていたと思いますし、今も主イエスが祈ってくださっていることに支えられていたと思います。

執り成しの祈りの本文が、今日の聖書箇所である六節から始まっていきます。六節にはこうあります。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。」(六節)。ここには選びのことが出てきますが、ここだけでも主イエスはすごいことを祈っていてくださることが分かります。

私たちは選ばれた。キリストが選んでくださった。それだけでなく、そもそも神から選んでいただいた者だというのです。今日、私たちがここにある、それは私たちが選ばれたからです。キリスト者としての人生を送れる、それは私たちが選ばれたからです。私たちは自分の意思で動いているように思ったとしても、私たちには自分を超えているものがある。それが私たちの信仰です。

礼拝に来るのにも、今日の気分が晴れないとか、調子が悪いとか、何か別の都合があるとか、いろいろなことが起こります。そのような中で、私たちが礼拝に来ることを選び取る。それも一つの側面かもしれません。しかしそれだけではなく、自分を超えたもっと大きなものがある。キリストに選ばれている。キリストに執り成されている。そのようなことが、私たちの根底にはあるのです。

今日は全部の節を取り上げて解説することはできませんが、そのように六節から始めていって、主イエスの祈りの言葉を味わっていく。主イエスがどれほど弟子たちのために心を砕き、歩まれ、祈ってくださったのかがよく分かります。

例えば、八節にこうあります。「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」(八節)。

さらには、一一節にこうあります。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(一一節)。解説の必要がないくらい、主イエスの心がよく伝わってくる祈りの言葉です。弟子たちの心も動いたでしょう。

そのように主イエスの言葉を味わっていくと、一二節のところで少し立ち止まりたくなります。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。」(一二節)。

「滅びの子」という言葉が出てきます。誰のことでしょうか。これはどうやらユダのことであるようです。主イエスを裏切ったユダ。もうこの場にはいなくなっていたユダです。ただ、この箇所でははっきりとユダとは記されていませんし、ユダについて、今日は深入りをしないでおきたいと思います。ユダもまた最後の晩餐から除外されずに、パンと杯に与った。他の聖書箇所では、主イエスが十字架で死なれた後に、陰府に降られた。そのことからユダの救いの可能性を考える道もあります。しかしそのことに今日は立ち入りません。

けれども、ここで「滅び」ということが語られている。そのことを無視するわけにはいきません。先ほど考えた「選ばれる」ということ、それはイコール「救われる」ということ。逆に「選ばれない」ということ、それはイコール「滅びる」ということになるからです。

キリスト教会は二千年にわたって、聖書をもとにして、この選びのことを真剣に考え続けてきました。昔は教会の人たちは、自分たちが選ばれたということ、とても大事にしてきました。ところが、現代はどうもその考えが希薄になってしまっているところがあります。選びなんていうと、なんだか特権意識を感じてしまったり、選ばれることの裏側に選ばれないことがあるわけですから、そのことを配慮しなければならないと思ってしまったり、どうも遠慮が生じて、選びを語れなくなってしまっている。だから教会の力が弱くなってしまったのだ、とも言われます。

そんな中、二十世紀最大の神学者とも呼ばれるカール・バルトという人が、選びについて再考しました。バルトが言っていることを単純に言えば、こういうことになります。選びは人間の側から考えるのではなく、あくまでもキリスト側から考えるべきであること。しかも、神はキリストにおいて人間に対して「然り」を選ばれる。人間は罪ゆえに「否」のはずだが、キリストがその「否」を引き受けてくださった。そのように選びを考えなければいけないと言うのです。

「然り」とか「否」とか、少々、難しいことのように聞こえますが、実は非常に単純なことです。そもそも人間は罪ゆえに選ばれることはできなかった。そんな特権はなかった。しかし本当はその特権を持っていたキリストが、その特権を捨てて、私たちに与えてくださった。だから私たちが「選ばれる」ということが起こったのです。

バルトは、これはあくまでもキリスト側から考えないと分からないと言います。ユダが救われるのかとか、滅びの子は誰なのかとか、あの人は救われるのかとか、この人は選ばれているのかとか、人間側の問題としては論じられないのです。

私たちにできることは限られています。主イエスがこのように執り成しの祈りを祈ってくださった。その祈りを軸にして、私たちも選びを考えることができます。主イエスは何度も「彼ら」と言ってくださいました。その中にこの私が入れられていると信じる、それが私たちの信仰です。選ばれない人は誰か、滅びの子は誰なのか、そういう問いは神に委ねるしかない。それも私たちの信仰です。

この一二節を通り抜けて、今日の聖書箇所の後半に進んでいきます。主イエスの執り成しの祈りが続いていきますが、「世」という言葉がたくさん使われています。世とキリストとの戦いがあったように、「彼ら」と世との戦いもあります。その戦いを戦い抜くために、キリストが執り成してくださっているのです。

一七節のところに「聖」という言葉が出てきます。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」(一七節)。この「聖なる者とする」という言葉と同じ言葉が、実は一九節に二回使われています。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」(一九節)。聖という言葉は出てきませんが、「ささげる」という言葉がそうです。

この言葉は、ハギアゾーというギリシア語の言葉ですが、英語の“holy”と同じ言葉です。聖とか、聖なるとか、聖にするというのは、どういう意味なのでしょうか。聖という言葉は、私たちの信仰生活において、けっこういろいろなところで使っている言葉かもしれません。「聖書」は「聖なる書物」ということです。なぜ聖という字を付けているのか。また、当たり前ですが、神に対して「聖なる神」と付けて呼ぶことができます。あるいは、教会によっては、礼拝堂のことを「聖堂」と言うことがあります。

さらに、松本東教会の献金感謝の祈りの中にも出てきます。「わたしたちは生きるときも死ぬときも、体も魂もすべてあなたのものです。その恵みに感謝して、いま献身のしるしとして献金をおささげいたします。どうぞわたしたちのすべてをきよめて受けいれ、みこころのままにお用いください。わたしたちはあなたのものです」。この祈りの中の「きよめて」という字、ひらがなになっていますが、漢字にすれば、複数の漢字をあてることができるでしょうが、「聖めて」とあてることができます。私たちがきよめられるのですから、私たちが聖なる者ということになります。

この「聖」というのは、私たちがすぐに考えるような「きよい」という意味も、もちろん考えることができるかもしれませんが、しかしもっと大事なのは、「特別なものとして分けられる」ということです。「聖別」という言葉をお聞きになられたことがあると思います。「聖なるものとして区別する」という意味です。

キリストに選ばれ、救われた者として「聖なる者」であるということ。一九節にこうあります。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」(一九節)。

キリストが命を献げてくださることが、はっきりと言われています。キリストが十字架で命を献げてくださったことによって、私たちは罪赦され、真実にきよめられ、この世にあって、この世と区別された。そしてこの世での歩みを、主イエスが執り成してくださるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のサムエル記に、こんな言葉が出てきます。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。」(サムエル記上二・二五)。エリという人物が、祭司である息子たちにこう言っているわけですが、神に仕える務めにあたっているお前たちが神に対して罪を犯したら、いったい誰が執り成してくれるのか、誰も執り成してくれない、とエリが言っているのです。

しかし新約聖書が伝えていることは、キリストが和解をさせてくださったということです。ユダヤ人とギリシア人という対立する両者を和解させてくださっただけではありません。神と人との間にキリストが立ち、和解をさせてくださった。その執り成しが、今日の聖書箇所の主イエスの祈りに表れています

第二次世界大戦の最中、コルベ神父がガイオニチェクの代わりにその命を献げたように、キリストが私たちの代わりに命を献げ、執り成してくださいます。弟子たちのキリストの執り成しの祈りに、支えられました。私たちも命を懸けたキリストの執り成しによって支えられるのです。