松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年8月21日(日)
説教題「愛の回復」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第17章20〜26節

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

旧約聖書: ホセア書3:1~5

「伝道」という言葉があります。漢字で書きますと、伝えるという字に道という字を書きます。日本語独特の響きを持っている言葉と言ってもよいかもしれません。この伝道という言葉も、日本でそれこそ伝道がなされるようになってから、外国語から日本語にされた言葉でありますが、外国語では、伝道にあたる言葉がいくつかあると言われています。

英語で考えてみますと、一つ目はPreaching(プリーチング)という言葉です。説教を意味する言葉です。二つ目はMission(ミッション)という言葉です。日本語にそのままなっているところがありますが、ミッションとは宣教とか派遣という意味です。日本におけるキリスト教主義学校をミッションスクールと言います。それらほとんどの学校は宣教師たちが宣教するために建てられたので、そのように言います。三つ目はEvangelism(エヴァンジェリズム)という言葉です。これは、よき知らせを意味する福音という意味があります。福音を宣べ伝えることです。

外国語ではPreaching、Mission、Evangelismという三つの言葉が、日本語では「伝道」という一つの言葉で表されている。もちろん、三つの意味すべてを含んでいる。それが「伝道」という言葉です。

主イエスも弟子たちを伝道に派遣されました。あるときは十二人の弟子たちを、別のときは七十二人の弟子たちを伝道に派遣されました。教えを宣べ伝え、病人を癒し、福音を伝えたのです。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目にお甦りになられて、そして弟子たちの前に現れ、天に上げられるときも、主イエスは伝道をせよと言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ二八・一八~二〇)。

「伝道」という言葉は、とてもよい言葉であると私は思います。道を伝えるのです。先ほど考えてきたように、外国語には「道」という意味は少なくとも直接的にはないかもしれません。しかしこの道こそが、真理の道であり、命の道であると信じて、その道を伝えていくのです。どの道を歩むか、悩みの中にある者に対して、迷いの中にある者に対して、時には絶望している者に対して、ここにキリストの道があると伝える。そして私もすでに歩んでいるから、一緒に伝えていこうと勧める。それがまさに伝道です。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の二〇節のところに、伝道のことが視野に入れられている主イエスのお言葉があります。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(二〇節)。

久しぶりにヨハネによる福音書の第一七章に戻ってきましたが、少し思い起こしていただきたいと思います。第一三章から第一七章までが、一つの大きなまとまりを持っています。いわゆる最後の晩餐の席上の話であり、主イエスがいよいよ十字架にお架かりになろうとしている時のことです。弟子たちに対して、最後の告別説教をされている。そのような内容が続きます。第一七章は、弟子たちに対する説教というよりは、主イエスが弟子たちのために、父なる神に祈ってくださる、そういう内容です。大祭司の祈りとも言われます。当時の大祭司のように、弟子たちのために執り成しをしておられる祈りです。

その祈りが、二〇節でも続いてきますが、ここに出てくる「彼ら」というのは、主イエスの弟子たちのことです。しかしこの二〇節では「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と主イエスは祈られているのです。弟子たちが伝道し、それを聞いて信じる者たちが現れます。直接、主イエスには会ったことがない。彼らのためだけではない、私たちも含めて、主イエスは祈っていてくださるのです。

「お願いします」(二〇節)と主イエスは言われます。本日の聖書箇所の中に、「お願いします」あるいは「してください」というような言葉が何度も出てきます。主イエスの願いであり、主イエスの望みであり、主イエスの意志が表れている言葉だと思います。

私たちは「お願いします」という言葉を使うでしょうか。おそらく多くの人が、「お願いします」という言葉をよく使うと思います。あるいは、誰かが自分のために「お願いします」という言葉を言ってくれることもあると思います。

例えば、親が子どものために、頭を下げて、「どうかこの子をお願いします」と言います。子どもからすれば、それは大変有り難いことです。その有り難いことを、主イエスがしてくださるのです。親の願いは、いくら思いを込めてお願いをしたところで、叶わないこともあるかもしれません。しかし主イエスの「お願いします」には、絶対的な力があるのです。

ルカによる福音書第八章に、嵐を静める奇跡の話が記されています。「湖の向こう岸に渡ろう」(ルカ八・二二)とまず主イエスは言われます。主イエスと弟子たちは舟に乗り込みます。主イエスは伝道のお疲れからか、舟の操作は弟子たちに任せて、眠られます。ところが嵐に遭ってしまう。弟子たちの中の何人かは漁師でした。必死に舟を操ろうとしますが、そんな者たちでもどうしようもないくらいの嵐に遭ってしまいます。そこで弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」(八・二四)と主イエスに言い、主イエスを起こしてしまう。主イエスは風と荒波をお叱りになる。そうすると嵐が静まり、すっかり凪になったという話です。

今日はこの話に深入りすることはできません。しかしこの話の非常に重要なポイントとなるのは、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われた主イエスの最初の言葉です。主イエスの意志、望み、願いが表れた言葉です。この言葉のゆえに、向こう岸に必ず渡ることができる。主イエスのお言葉は必ず実現します。それが弟子たちの信仰であり、私たちの信仰です。本日の聖書箇所での主イエスの執り成しの祈りの言葉にも、そのことが表れています。

主イエスはこれから別れなければならない弟子たちのことを覚えて「お願いします」と祈ってくださった。弟子たちだけではなく、その後の信じる者たち、私たちのことも含めてですが、信仰者のことを覚えて「お願いします」と祈ってくださった。頭を下げてくださったのか、どんなお姿かは分かりませんが、「お願いします」と言われ、執り成してくださった。どんなに深く、私たちのことを覚えてくださっていることでしょうか。

それでは主イエスが「お願いします」と言われて、どんなことを祈っていてくださるのでしょうか。具体的に考えてみたいと思います。本日の聖書箇所の前半のところに、「一つ」という言葉がたくさん出てきます。二一節から二三節前半まで、改めてお読みいたします。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(二一~二三節)。

ここでまず言われていることは、父なる神と主イエスが「一つ」であることです。「内にある」「内にいる」という表現もありますが、実質的には同じことです。父なる神と主イエスが一つであることと同じように、「彼ら」も一つであるように、と主イエスは願われます。彼らとはもちろん弟子たちだけでなく、私たちも含めてのことです。

さて、主イエスの願いがそういう願いであることが分かりましたが、そもそも「一つ」とは何でしょうか。私たちには、私とあなたは一つだ、そのように言える人がいるでしょうか。結婚をしている人ならば、私は夫と一つだ、私は妻と一つだ、そう言えるでしょうか。

旧約聖書の創世記に、世界が造られ、人間が造られる話が記されていますが、その中にこういう言葉が出てきます。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記二・二四)。「一体となる」とは何でしょうか。

人間が最初から男と女に造られ、このような結婚の秩序もはじめから定められていました。「男は父母を離れて女と結ばれ」とありますが、「女は父母を離れて男と結ばれ」というように考えてもよいわけです。いくら親が子に対して、愛情を注ぎつくして育てたとしても、親と子が「一体となる」わけではない。子はやがて父母のもとを離れていくことをはっきり語ります。そして神がはじめから定められた結婚の秩序によって、相手と「一体となる」のです。

新約聖書の中に、この創世記の言葉を引用している箇所があります。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(エフェソ五・三一)。この手紙の中では、創世記の結婚の秩序を語りながら、何を本当に言いたのかというと、夫婦の本当の望ましいあるべき姿が「キリストと教会」の関係であるということです。夫と妻の関係を、キリストと教会の関係になぞらえながら語っているのです。

夫と妻が一体である、自分のことも含めて、そんな事例をどこにも見出せないかもしれません。しかしキリストと教会に目を移してみる。キリストが十字架にお架かりになり、その血をもって私たちの罪を赦し、贖い取ってくださった。それが教会です。そのキリストに対して教会は仕える。愛し、仕える関係が成り立っている。これが「一体となる」ことのモデルです。この世のどこを探しても、本当の理想の夫婦を見いだすことができないでしょう。どんなに理想的に見えたとしても、そこには必ずどこかほころびがあります。しかし理想の夫婦のモデルが、キリストと教会なのです。

これと同じことが、今日の聖書箇所においても言うことができます。父なる神とキリストが「一つ」であることは、あらゆる結びつきのモデルです。教会では「三位一体」という言葉を使います。父なる神、キリスト、聖霊の三つが一体であるということです。しかしそういう難しい言葉をたとえ使わなかったとしても、父なる神と主イエスが一体であることは、聖書を読んでいればすぐに分かります。いつでも主イエスは父なる神と心を通わせている。いつも父なる神に祈られている。いつでも父なる神の御心を問うて行動されている。それが「一つ」になっているモデルです。

主イエスが「一つ」となることができるように祈っていてくださる。父なる神と主イエスが「一つ」であるように、彼らも教会の人たちも私たちも、皆、父なる神と、そしてお互いが「一つ」となることができるように、それがキリストの願いであり、祈りです。

本日の聖書箇所の前半に「一つ」という言葉が繰り返し出てきましたが、後半に入っていくと「一つ」という言葉がなくなり、代わりに「愛」という言葉が出てきます。残りの二三節後半から二六節までを改めてお読みします。

「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(二三~二六節)。

ここでの愛もまた、父なる神がキリストを愛する愛がモデルになります。二三節後半で「また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを」と主イエスは言われています。父なる神がキリストを愛しておられる、その愛と同じ愛が「彼ら」にも注がれていることが言われます。

二六節では「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」と主イエスは言われています。キリストに対する神の愛が「彼ら」の内にあることが言われているのです。父なる神からキリストへの愛、その愛が私たちにも注がれ、私たちもその愛によって「一つ」に結び合わされるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、ホセア書第三章です。旧約聖書には、新約聖書ほど「愛」という言葉が出てきませんが、ホセア書の中には何度か愛という言葉が出てきます。ホセア書をはじめ、旧約聖書の愛は、どこかはかないところがあります。

神とイスラエルの関係が、夫と妻になぞらえられています。神が夫として妻のイスラエルの民を愛する。けれども、イスラエルの民は夫になかなか忠実であることができません。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」(ホセア三・一)。

夫である神はもちろん怒られます。しかしそれでもなお妻を見捨てることなく、見返りもないかもしれない愛を注いでいきます。「そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」」(三・二~三)。

それでもなお、愛してくださる愛を、神はイスラエルに対して注いでくださるのです。裏切られてしまうかもしれない愛、いや、実際に裏切られてしまった愛、その愛を神が注がれる、こういうところははかない、切ないところがあるかもしれません。

しかしこういうはかなさ、切なさを超えて、それでもなお神は愛を私たちに注がれるお方です。神の願いは、主イエスのここでの祈りに表れているように、私たちと「一つ」であること、「一体となる」ことなのです。

主イエスが父なる神のもとから来られました。神との関係が破れ、罪を犯す私たちを赦すためにです。主イエスがヨハネによる福音書第一七章の箇所で、この執り成しの祈りを献げてくださいました。そして第一八章、いよいよ十字架への道を進んで行かれます。私たちの罪をすべて背負い、十字架にお架かりになり、私たちの罪を赦してくださる。

このことを信じる信仰によって、「一つ」になることができるのです。父なる神と主イエスと「一つ」になることができる。同じ信仰に生かされている者たちとも「一つ」になることができる。それが教会というところです。主イエスの救いを信じ、聖霊に導かれて、父なる神と一つにされている。信仰の仲間と一つにされている。主イエスのここでの願いが、教会において実現しているのです。