松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年7月24日(日)
説教題「永遠の命とは」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第17章1〜5節

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

旧約聖書: 創世記3:22~24

本日の礼拝は、献堂記念礼拝として覚えています。一九八〇年のことになります。その年の七月に、私たちの教会に初めて会堂が与えられました。それまでは会堂を一度も持ったことはなく、公民館や教会員のお宅などで礼拝をしてきました。今から三六年前に初めて会堂が与えられ、七月末に「会堂落成祝謝会」を行った。そのことにちなんで、私たちの教会では毎年、この時期にこのような礼拝を行っています。

会堂が与えられてから三六年。それ以前もそうでしたが、特に会堂が建ってから、もちろんいろいろな時期がありましたが、礼拝出席者も右肩上がりに増えてきました。多くの人たちがここに導かれてきました。今はもうすでに地上の生涯を終えた仲間たちもいます。皆、ここに集い、御言葉を聴き、生かされてきたのです。そういうことも覚えつつ、私たちは今後の会堂のことも考えなければならない時期になってきました。

三六年前に、ちょうど会堂を建てようとしていたその時期に、当時の牧師であった和田正先生が、教会報『おとずれ』の中に、このような文章を書いています。「会堂のあることによって信仰の堕落を恐れることを考えると今なお消極的にならざるを得ない」。この文章は、毎年、献堂記念礼拝で紹介していますが、これから会堂を建てようとしているその時、牧師としてはかなり消極的であったことがうかがえます。

和田先生は続けてこう書いています。「会堂が出来たからと言って教会の問題が解決するとは思っていません。会堂を生かすも殺すも、信仰次第だと思います」。牧師よりも信徒の方が積極的だったようです。しかし会堂が出来たからと言って、教会の様々な問題が一気に解決をするわけではない。牧師としての一つの危機意識だったのでしょう。

和田牧師は慎重姿勢だった。『おとずれ』に書いたその言葉を考えると、信仰の堕落がもしかしたら起こるかもしれない。そう考えていたようです。無理もないかもしれません。それまでの数十年間、私たちの教会はずっと会堂を持たずにやってきたのです。一つの信仰をもとに集まるという姿勢が明確でなければ、とてもやってくることはできなかったでしょう。果たして教会堂ができて、そこの部分が揺らぎはしないか。「会堂を生かすも殺すも、信仰次第」という言葉も、正直な思いだったのでしょう。

会堂がある、ないにかかわらず、会堂という目に見えるものよりもずっと大事なことがある。それは明らかでありましょうし、そのことを踏まえておくことは大事なことです。和田先生はそれを「信仰」という言葉で表した。今の私たちにとっても、大事なことだと思います。

それではいったい何が大事なのでしょうか。和田先生が言われた「信仰」とは何だったのでしょうか。その大事なものを、本日、私たちに与えられた聖書箇所で、主イエスが私たちに教えてくれています。

ヨハネによる福音書の第一七章に入りました。この第一七章全体は、主イエスによる一つの祈りになっています。長い祈りと言えるかもしれません。この祈りは多くの人たちによって、「大祭司の祈り」と名付けられて呼ばれてきました。大祭司とは、神殿の一番奥のところ、普段は誰一人入ることができない場所ですが、大祭司だけが入れる場所、それも大祭司といえども一年に一度しか入れません。その場所に入って礼拝を献げる。それが大祭司の務めです。何のための礼拝か。民のための執り成しをするための礼拝です。その務めにあたるのが、大祭司だったのです。

主イエスが大祭司でいてくださる。そのための祈りをしてくださっている。それが「大祭司の祈り」です。主イエスはこれから十字架にお架かりになろうとしています。弟子たちのもとから、間もなく離れなければなりません。そうなってしまう弟子たちのために、そして私たちのために、主イエスが執り成しの祈りをしてくださっている。そういう祈りが、この第一七章全体に記録されているのです。

主イエスが祈られている。その祈りの姿を、福音書記者たちは記してきました。また、主イエスご自身の祈りの言葉を記録した箇所も、何箇所かあります。しかしそれらの箇所の中で、この第一七章は最も長い祈りの言葉になっています。十字架前の祈りです。十字架前の祈りとしては、ゲツセマネの園での祈りが有名です。他の三つの福音書は、主イエスのその祈りをきちんと記しました。ところがこのヨハネによる福音書には、そのゲツセマネの祈りがありません。代わりにこの「大祭司の祈り」が記されているのです。

十字架を前にして、主イエスは熱心に祈られました。一方ではゲツセマネの祈りに表されているように、主イエスの苦悩が描かれています。しかし他方では「大祭司の祈り」に表されているように、主イエスが私たちのために執り成してくださったことが描かれています。どちらも主イエスの真実な祈りです。

その「大祭司の祈り」の中で、今日は一節から五節までの箇所ですが、特に大事なのが二節から三節にかけての言葉です。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(二~三節)。和田先生が大事だと言われた「信仰」も、この言葉から考えることができると思います。

主イエスのこの言葉の中に、「永遠の命」という言葉が出てきました。永遠の命とはいったい何でしょうか。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記の第三章の箇所です。アダムとエバが「善悪の知識の木」の実から取って食べてしまい、神との関係が崩れてしまいます。この関係の破れを、聖書では罪と言います。

この創世記の箇所を読んでいますと、人間は最初から永遠だったわけではないことがよく分かります。永遠なのは神のみです。もし人間が楽園で「命の木」の実を取って食べれば、永遠に生きる可能性が出てくるわけですが、人間は罪を犯してしまったので、神が永遠を遠ざけるため、楽園から私たちは追い出されてしまったのです。私たちは罪のまま、永遠に生きることは許されていません。

こういうことを考えていきますと、永遠の命とは、死では終わらない命だと、まず考えることができます。確かにそれはそうかもしれません。しかし永遠の命はそれだけで説明し尽くすことができるでしょうか。死で終わらない永続する命だけなのでしょうか。他の聖書箇所を読んでいると、決してそれだけではないということが分かってきます。

「永遠の命」、英語では“eternal life”と言います。もちろん「永遠の命」と訳すことができますが、「永遠の生活」と訳してもよいわけです。神を信じ、キリストを受け入れ、洗礼を受けて、古い人から新しい人に生まれ変わる。そうするとそこから新たな「生活」が始まる。いつか始まるのではなく、すでに始まっている。つまり、キリスト者はすでに「永遠の命」「永遠の生活」が始まっている。新約聖書を読んでいると、特にそのことがよく分かってきます。

今日は一節から五節まででしたが、来週は聖書箇所として、六節以下を読みます。主イエスの「大祭司の祈り」が続きますが、私たちのことを覚え、執り成してくださる祈りが続いていきます。主イエスが私たちのために、「ずっと長く生き永らえますように」などとは祈られていません。むしろ、私たちの「生活が守られますように」ということを祈ってくださいます。

一三節にはこうあります。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(一三節)。彼ら、つまり弟子や私たちに喜びがあふれるようにと祈ってくださいます。一五節にはこうあります。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」(一五節)。私たちの生活が守られるようにとの祈りです。一八節にはこうあります。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」(一八節)。私たちが遣わされる生活をすることが祈られています。

私たちはキリスト者として、教会「生活」をしています。信仰「生活」をしています。決してこの世だけの話ではありません。私たちがこの世ではもちろん、私たちが御国においても、同じ神を礼拝する礼拝をしているはずです。私たちはこの世の礼拝で聖餐を祝います。その聖餐は、御国での食卓の先取りです。地上でも御国でも、私たちは同じ信仰の「生活」をしている。その意味で永遠です。

ある聖書学者が、三節の言葉を解説し、このように言っています。「永遠の命とは、信仰告白のようだ」。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(三節)。この三節の言葉は、そっくりそのまま信仰告白の言葉に置き換えることができます。なぜそうなるのでしょうか。

マルコによる福音書の第一〇章に、金持ちの男が出てきます。たくさんの財産を持ち、神の律法を忠実に守る、自他とも認める非の打ちどころのない男でした。しかしこの人は確信を持つことができなかった。それゆえ、主イエスのところに来て、問うのです。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコ一〇・一七)。

主イエスは言われます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(一〇・二一)。金持ちの男は、主イエスの言われたことをすることができないと分かり、主イエスのところから悲しみながら、立ち去って行きました。

「永遠の命」のために、主イエスは「わたしに従いなさい」と言われます。主イエスを信じ、主イエスと関係を持つように言われます。今日の聖書箇所と同じです。主イエスは私たちの救い主であり、私たちを罪から解き放ってくださいます。そのことがないと、永遠の命が得られないのです。

今日の聖書箇所の三節の言葉を、もう一度、味わいたいと思います。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(三節)。

「知る」という言葉が出てきました。単純にちょっと知っているという意味ではありません。知識として知っているという意味でもありません。そうではなく、深く知るということ。自分と深くかかわるという意味において知っているということです。
何を「知る」必要があるのか。二つのことだと主イエスは言われます。一つは、唯一まことの神である父なる神を知ることです。もう一つが、主イエス・キリストのことを知ることです。

「イエス・キリスト」という言い方が出てきます。ヨハネによる福音書では、ほとんどの場合が「イエス」という表記です。この福音書では、この箇所と第一章一七節の二箇所だけにしか使われていない表現です。なぜこの箇所では「イエス・キリスト」となっているか。それは、ヨハネによる福音書の教会の「信仰告白的な言い方」であると言われています。イエスがキリストであること、つまり、イエスが救い主、メシアであることを知るのです。

先週の木曜日、オリーブの会が行われました。信仰の初歩的なことを分かりやすく知ることができる会です。先週のテーマは、信仰を持つ前後では何が変わるか、というテーマでした。それぞれにいろいろと思うことがあって、話し合いました。

洗礼を受ける前と後では何が変わるか。なかなか変われない。そう思っていたとしても、私たちはやはり変わるのです。先週の木曜日には、はっきりと自分は変わった、そう言われた方もありました。やはり変わるのです。

いやいや、なかなか変われない。そう思われている方もあるでしょう。もちろん、自分だけを見つめていたら、私たちはちっとも変われません。洗礼前も罪を犯したし、洗礼後も相変わらず罪を犯す自分がいます。しかし主イエスを見つめる。主イエスを知る。そこで何を知るか。主イエスに赦されていることを知るのです。主イエスに赦されている安心感があります。それこそ、イエスがキリストであることを知ることなのです。それを知れば、赦されていることも愛されている自分を見いだすことができます。

この信仰を私たちが持つことができるのです。これが和田先生の三六年前に言われていた信仰です。この信仰を私たちが持つことが、神の栄光、主イエスの栄光につながっていきます。

本日の聖書箇所に、栄光という言葉がたくさん出てきます。一節、四節、五節のところに出てきます。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」」(一節)。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(四節)。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(五節)。

四節には「地上であなたの栄光を現しました」とあります。十字架の出来事はこの直後に起こります。時間的にはまだですが、もう間近だったので、十字架も含まれた地上で主イエスが表した栄光のことが言われています。五節では、主イエスが父なる神のもとを離れ、この地上に来られた前に持っておられた栄光のことが語られています。しかし主イエスはその栄光を捨てて、地上に来てくださいました。その栄光が今一度、現されようとしている。

三六年前に、私たちの教会は会堂を建てました。その時の記録を読むと、やはりいろいろな面で大変だったようです。例えば資金をどうするか。そんなところに、大きな献金が与えられた。教会員からももちろんでありますが、それ以外のところからの大きな献金もあったようです。そのようにして、会堂が建った。

そうなったときに、いったい誰が栄光を受けるでしょうか。別の言葉で言えば、誰が誉れを受けるでしょうか。献金をした人でしょうか。和田先生でしょうか。そうではありません。私たちの教会はいつでも、神を讃美し、主イエスに栄光を帰してきたのです。だからこそ、私たちは献堂記念の礼拝を毎年しています。この礼拝堂を神に献げ、栄光はいつも神に、主イエスにあることを覚えているのです。

だから私たちも目を天に上げます。今日の聖書箇所の最初に、「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」(一節)とあります。主イエスが天を仰がれたように、私たちも父なる神、主イエスを見上げます。神さま、ありがとうございます、感謝します。その讃美、その喜びに生きるのです。これが、主イエスが私たちのために用意してくださった永遠の命です。そのような永遠の生活を、することができるのです。