松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年7月17日(日)
説教題「勝利者キリスト」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第16章25〜33節

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

旧約聖書: ゼカリヤ書9:9

信仰を持つ、持たないにかかわらず、多くの人が祈りをしています。私たちもそうだったかもしれません。洗礼を受けてキリスト者になった。その日から突然、祈りを開始したわけではないでしょう。ずっと昔から、子どもの頃から、私たちは祈ることをしてきました。誰に祈るのか、どういう形で祈ればよいのか、あまりそういうことは分からないままだったかもしれませんが、私たちは祈りをしてきたのです。

そういう私たちが教会に通うようになり、やはりそこでも祈りをします。祈りを教わっていきます。多くの方が、このように習ったのではないかと思います。まず祈りの最初のところで、天の父なる神への呼びかけをする。私たちがどこのどんな神に祈ってもよいというわけではありません。天におられる私たちの神に対して祈りをする。そのことを表すために、「天の父なる神さま」とか「父なる神さま」という呼びかけをするのです。

続いて祈りの本文を祈っていきます。分類の仕方は様々ですが、神に対する感謝であったり、私たちの願いであったり、誰かのことを覚えての執り成しであったり、そのような具体的なことを、父なる神への呼びかけに続いて祈っていきます。

そして祈りの最後はこう結びます。「イエス・キリストの御名によって祈ります」。子どもでしたら「イエスさまのお名前によってお祈ります」と結びます。そして最後に「アーメン」と言います。本当に、真実に、その通りという意味です。

祈りの最後は、主イエスの名によって祈る。聖書的な根拠が、本日、私たちに与えられた聖書箇所の二六節か、あるいはこの前の聖書箇所になりますが、二三~二四節になります。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(二三~二四節)。

特に二六節の言葉、「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」と主イエスは言われていますが、私たちが父なる神と直通になるのです。まるで、イエスさまに間にいていただかなくとも良いような印象を受けます。

それなら、祈りの最後に、主イエスの名によって祈るというのはどういうことなのでしょうか。もしも主イエスが、私たちと神との間のお取り継ぎ役として考えるならば、私たちは誤解してしまっていることになります。私たちが直接、神に祈れないので、伝言ゲームのように、私たちの言葉を主イエスがまず聞き、それから主イエスが神に伝えてくれる。そうなると私たちは神と直接つながれない、直通ではないわけですが、そうではないのです。

「わたしの名によって」と主イエスは言われます。主イエスが名前を私たちに貸してくださいます。世の中には、軽い気持ちで名前を貸して、その結果とんでもないことになった、そんなニュースを時々、聴くことがあります。しかし主イエスは私たちに喜んで名を貸してくださる。むしろ、その名を与えてくださるのです。

日本語でも「名は体を表す」と言いますが、聖書の考えではそれ以上です。名前はその人の存在そのものです。主イエスは神と直接つながっておられます。そうであるならば、主イエスの名が与えられた私たちも、直接、神とつながることができる。主イエスの名によって祈るということは、そういう意味があるのです。

なぜそのような、ある意味では私たちにとって大それたことが成り立つのか。二七節にその理由が書かれています。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(二七節)。

ここに愛という言葉が出てきます。父なる神が私たちを愛してくださる。それと同時に、私たちも主イエスを愛する。父なる神をとは言われていませんが、父なる神のことももちろん、主イエスのことを私たちも愛する。両者が愛し、愛される関係でつながる。祈りにおいて直接つながることができるのは、この愛があるからなのです。

愛というのは、すべてのものを結びつける一番深いところにあるものです。なぜ夫婦がつながっていられるのか、なぜ親子がつながっていられるのか、なぜ友達とつながっていられるのか。いろいろな説明ができるかもしれません。しかし夫婦といえども、親子であっても、関係が冷え切っている場合もあるのです。そのような血縁関係だけでは、人と人は結びつくことはできません。しかしそこに愛があれば、夫婦は夫婦でいられるし、親子は親子でいられし、友は友でいることができるのです。

この二七節で使われている愛という言葉は、元のギリシア語ではフィリアという言葉です。愛は愛でも、ギリシア語にはいろいろな愛があります。フィリアは同質のもの、いわば友に対する愛です。友愛です。その他にも、例えばエロスという愛もあります。これは、エロティックという言葉にもつながりますが、性的なものも含め、どちらかというと自分を中心に考える愛です。自己中心の愛。ただし、このエロスという言葉は、聖書では一回も使われていません。

聖書で一番多く使われている愛は、アガペーという言葉です。アガペーは、エロスとは正反対ですが、自己犠牲の愛のことを言います。自分がある意味では損をする愛です。このアガペーはフィリアよりも優れた愛であると考えられるかもしれません。自分も人を愛することを考えてみる。自己犠牲のアガペーの愛は無理だと思っても、友を愛する愛ならば自分もなんとかなるかもしれない。そう私たちは考えます。

ところがヨハネによる福音書では、アガペーの愛も、フィリアの愛も、あまり変わらないところがあります。フィリアが劣った愛というわけではないのです。第一五章一三節にこうあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(一五・一三)。友を愛する愛は、自己犠牲のアガペーの愛であると、主イエスは言われるのです。友に対しても、アガペーの自己犠牲の愛が注がれるのです。

今日の聖書箇所の二七節の文脈で考えてみますと、神が私たちを愛してくださる。フィリアの愛ですから、神が友として私たちを愛してくださるのです。畏れ多くも神が私たちに友としての愛を注いでくださる。そうなると、もはや間接的なお取り継ぎ役などは不要になります。主イエスと同じように直接、神とつながることができる。祈りにおいてもそうなのです。

今日の聖書箇所の最初のところで、主イエスはこう言われます。「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」(二五節)。

ヨハネによる福音書で、最近、私たちが御言葉を聴いている箇所では、第一四章以降、ずっと主イエスの言葉が続いています。おそらく一続きの言葉です。十字架にお架かりになる直前ですから、主イエスの告別説教とも言えます。最後の晩餐の席上において、そこから少し場所を移したところでも語っておられるかもしれませんが、様々なことを言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)と主イエスは言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(一五・五)とも言われました。これらの言葉は「たとえ」と言えるかもしれません。

結局、主イエスがこれらの譬えを語って来られて、何を言われたかったのか。その答えが、今日の聖書箇所に凝縮されていると思います。祈りにおいて、私たちは神と直通になることができる。神とも主イエスとも愛の交わりを結ぶことができる。

それに加えて二八節の言葉です。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(二八節)。この二八節の言葉に応え、弟子たちも言っています。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」(二九~三〇節)。

主イエスが父なる神のもとから来られ、そして帰って行かれる。しかし何事もなく、もともといたところに戻られるのではありません。痛みを伴われた上で、帰られるのです。十字架の死を、これから主イエスが味わわれるのです。

三一~三二節で主イエスがこう言われます。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」(三一~三二節)。十字架の前後の時のことが表されています。弟子たちは「散らされて自分の家に帰ってしまい」と言われています。

家という言葉が出てきました。家という言葉が、原文にあるわけではありません。「自分のもの」という意味の言葉が使われているのですが、自分のところ、自分の居場所と言ってもよい言葉です。

自分の居場所が一体どこにあるか。主イエスの弟子たちにとって、自分たちの居場所はどこだったか。十字架の時に弟子たちは散らされてしまいました。どこにいたか。ある家に閉じこもって、鍵をかけて怯えながら過ごしていたのです。これは、ある意味では人間の現実を表していると思います。自分の家、自分の居場所だと思っていたところがあるとしても、やはりそこも不安に満ちてしまう時があるのです。

私たちも、これが自分の居場所だ、そのように思って安心して暮らしていたとしても、その場所が揺らいでしまうことがあります。自分の家庭が自分の居場所である、それは確かにその通りでしょう。その他にも、自分が安心できる場や、自分を認めてくれる場が、自分の居場所になります。しかしそれらの場といえども、あるとき突然、その場が揺らぎ、自分の居場所になり得なくなることがあります。主イエスも言われました、自分には枕をする所もない、と。使徒パウロも言いました、私たちの本国は天にある、と。

私たちに問われているのは、たとえこの世の居場所が揺らいだとしても、主イエスのように、父なる神と共にいる、そう言えるのかということです。十字架の出来事が起ころうとしていました。実際に起こりました。世のすべての人たちが主イエスを見捨てる。弟子たちさえも見捨てる。三二節で「わたしをひとりきりにする」ことがその通りに起こる。そういう中で、「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(三二節)と言えるかどうかが問われているのです。

そう言えるために、主イエスが様々なことを語ってくださいました。主イエスがご自分の名前を与えてくださいました。譬えではなく、直接はっきりと語ってくださいました。父なる神と直通にして愛の関係を結んでくださいました。そこまで私たちにしてくださったのです。だから「わたしはひとりではない」と、私たちも言えるのです。

最後の三三節にこうあります。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(三三節)。主イエスが苦難を味わわれたように、あなたがたにも苦難があるとはっきり言われます。

先週の水曜日、教会員の方が逝去されました。木曜日の夕方に前夜式を、金曜日に葬儀、火葬を行いました。また土曜日には、教会員の結婚式も行われました。週報に記されている通りです。先週はまさにそのようにして冠婚葬祭が多く行われたわけですが、冠婚葬祭というのは、人生の危機と言われることがあります。通過儀礼がなされますが、私たちにとって通過儀礼とは礼拝です。危機において、神を拝む礼拝をするのです。

葬儀の危機というのは分かりやすいかもしれません。今までは故人がおられる中で生活をしてきた。そのご家族にとって、故人なしでこれからはやって行かなければなりません。違う自分になることが求められるのです。結婚もまた危機です。喜びの時かもしれませんが、これからは一人ではなく二人で生きていくわけです。今までとまったく同じように振る舞うわけにはいきません。これもまた、違う自分になることが求められる。その危機、ある意味では苦難のために、主イエスが備えをしてくださるのです。

先週、召された方は、教会が用意した「葬儀への備え」のための用紙を、あらかじめ提出しておられました。自分の葬儀や埋葬のことをどうするか、二、三年前にご自分で書かれ、私が預かっていました。それに則って、今回の葬儀を行いました。

ご自分で書かれたのは、ご自分の略歴や信仰歴、葬儀の形式、愛唱聖句や讃美歌、埋葬のことなどです。これを書いて提出するのは、少しの勇気がいるかもしれません。自分で自分の死をまっすぐに見つめなければなりませんし、コピーをご家族にも渡しておく必要があります。家族にも、自分の死を見つめてもらわなければならないからです。

しかしこのような備えをしておくのは、とても大事な事だと思います。苦難があるということを、主イエスのお言葉の通りに、私たちは受けとめなければなりません。苦難の中で死がその最たるものです。結婚の誓約をする際にも、きちんと問うのです。「健やかな時も病める時も…」。新たな生活を始めるお二人にとっても、様々な苦難がある、それを受けとめることが大事です。

その上で主イエスが言われます。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(三三節)。既に世に勝っている。これは文法で言いますと完了形です。苦難があろうとも、主イエスの勝利がもはや確定しているのです。

たとえ、この世に居場所がなかったとしても、苦難があろうとも、主イエスが用意をしてくださったものがあれば大丈夫です。主イエスの名、存在そのものを与えてくださるのです。父なる神と直通の交わりを与えられます。愛の交わりの中に入れられます。死に敗れ、罪に敗れ、悲惨に敗れるというわけではない。主イエスがおられるからこそ、私たちはそれらに打ち勝ち、勝利をすることができるのです。