松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年7月3日(日)
説教題「悲しみを退ける確かな喜び」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第16章16〜24節

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

旧約聖書: イザヤ書66:5~14

あなたにとって喜びは何ですかと聞かれたら、何と答えるでしょうか。今日の説教の説教題を「悲しみを退ける確かな喜び」と付けました。本日、私たちに与えられた聖書箇所に、喜び、悲しみという言葉が多く出てくるので、そのように付けたわけですが、喜びの反対は、いろいろな言葉が考えられるかもしれませんが、悲しみです。人生に悲しみばかり、それだと本当に人生を豊かに生きることはできません。何らかのことを喜びとしなければならない。それでは何を喜びにして生きたらよいのでしょうか。

私は牧師です。伝道者です。伝道者のあなたにとっての喜びは何かと聞かれることがあります。また、そのことに答えられる答えを用意していなければなりませんし、何よりも実際にそのように生きていなければなりません。私にとって、喜びとは何か。いろいろな答え方が確かにできるでしょう。自分が用いられる喜び、神に様々なことを感謝する喜び、神のために働いている喜び、キリストを信じる者が与えられたことへの喜び、いろいろな喜びがあります。

私だけではなく、皆様にとりましても、喜びとは何かと聞かれたら、何と答えることができるでしょうか。牧師の答え方と大部分が重なるところが多いと思います。信仰をもって、教会生活をしていく。長い教会生活でありますから、喜びがないというわけにはいきません。一時の喜びというだけでも不十分です。義務感から教会に来なければならない、それだと続きません。奉仕をするにしても、そこに喜びがなければ本末転倒になってしまうでしょう。献金をするにしても、いやいや献金をするというわけにはいきません。信仰生活に喜びがなかったとすれば、その生活を続けていくことはできないのです。

キリストの教会は、二千年にわたってその歩みを続けてきました。ずっと続けてくることができたのは、喜びがあったからです。迫害されたり、苦しい時代もありましたが、それらを乗り越えることができたのは、本物の喜びがあったからです。松本東教会も百年の歴史を数えることができるようになりました。この百年の間にも、やはりいろいろなことがありましたが、私たちは喜びをもって礼拝を続けてくることができたのです。

その喜びはすぐに消えてしまうような、一時の喜びではなかったのです。ずっと続く何らかの喜びがあった。その喜びを、主イエス・キリストは、本日、私たちに与えられた聖書箇所の中で、語ってくださっているのです。

そういうわけで、本日の聖書箇所には、喜び、悲しみ、喜ぶ、悲しむという言葉が出てきます。それらの言葉とともに、時間的な経過を表す言葉も多く使われていることがすぐに分かります。

「しばらくすると」、この言葉は一六節にも、一七節にも、一八節にも、一九節にも出てきます。「「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。」」(一六~一九節)。

二〇節も「変わる」という言葉で時間的な経過を表しています。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(二〇節)。

二一節も「時」という言葉を用いながら、出産前後の苦しみと喜びのことを表しています。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(二一節)。

二二~二四節のそれぞれの節の文頭に「今は」(二二節)、「その日には」(二三節)、「今までは」(二四節)という言葉を用いながら、やはり時間的な経過のことを表す内容を主イエスが語っておられます。今はこうだけれども、そんなに遠い将来ではなくやがてこうなると主イエスは言われているのです。

「しばらく」という言葉、元のギリシア語の発音そのままで言いますと、「ミクロン」という言葉です。科学の世界で、とりわけ細かいものを扱うときにはよく使う言葉で「ミクロン」という単位があります。一ミリメートルの千分の一のことです。目に見えないほどの小ささです。「しばらく」、つまり「ごくわずかな間」ということになります。ずっと先の話を主イエスはしておられるのではない。わずかの間、あなたがたは悲しむが、すぐに喜びが与えられると言われているのです。

しかしその後の喜びは、わずか一時であるというのではありません。ヨハネによる福音書の中で、喜びという言葉が使われている箇所が何箇所かあります。今日の聖書箇所がとりわけたくさん出てくる箇所ですが、例えば第五章三五節にこうあります。「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」(五・三五)。主イエスのお言葉です。洗礼者ヨハネは主イエスより少し前に現れ、救い主が来られるための道備えをした人ですが、そのヨハネが与えることができる喜びは、しばらくの間、ほんの一時の喜びだったと主イエスは言われるのです。

しかし、本日、私たちに与えられた聖書箇所は違います。主イエスは二二節で言われます。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(二二節)。主イエスが与えてくださる喜びは、決して奪い取られないものなのです。

今は悲しみの内にあると言われますが、しばらくすると喜びに変わる。単に悲しみ、喜びが交互に順番に連続して起こるというわけではないのです。そうだとしたら、何も主イエスに教えていただかなくても、私たちも知っていることです。そういうことではなくて、今は悲しみの内にあるかもしれないけれども、間もなくすぐに決して奪い取られない喜びが与えられる。産みの苦しみの末に喜びがあり、その喜びはなくならないのであります。

それでは、その喜びとはどんな喜びなのでしょうか。一般の辞書で喜びという言葉を引くと、いろいろな意味が書かれています。悲しみと対照的な状態を表わす用語、よろこぶこと、うれしく思うこと、祝いごと、おめでた、祝うこと、祝いの言葉、など、実に様々な喜びの意味が載せられていますが、それらはなくなる喜びであり、一時の喜びです。

聖書の事典を引いてみることにしましょう。喜びのところに、いろいろなことがやはり書いていますが、ある分厚い事典のところに、聖書の喜びの意味が上手にまとめられてこのように記されています。「新約本文の大部分において喜びは、人間が終末時の救いの出来事を先取りする際の、第一の方法である。しかしまた喜びは、この先取りに対する神の、あるいは神の使者たちの反応でもあり得る。」(『新約聖書釈義事典』)。

少し難しく書かれているところがあるかもしれません。言われていることは二つです。第一に、本当ならば終わりの時にしか得ることができない喜びがすでに先取りされていること。第二に、その喜びは私たちの喜びばかりでなく、神さまの喜びでもあるということ、その二つです。人間だけが喜んでいるのではなく、神が喜んでおられることを一緒に喜ぶことができる。そしてその喜びは終わることがない。そういう喜びが聖書に書かれている喜びだとこの事典は言うのです。

その喜びが与えられていますので、私たちは悲しみや苦難を積極的にとらえることができるようになります。二一節のところに、産みの苦しみの話が出てきます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」(二一節)。

他の節で使われている「悲しみ」となっていますが、この二一節だけは「苦しみ」「苦痛」となっています。二一節前半にあります「苦しみ」というのは、実は他の節で使われている「悲しみ」と同じ言葉です。そして後半で使われている「苦痛」というのは、「悲しみ」とは別の言葉です。「苦痛」「苦難」、かつての口語訳聖書では「艱難」とも訳されていました。聖書ではこれら「苦痛」のような出来事を、積極的に受けとめているようなところがあります。

ローマの信徒への手紙第五章三節にこのようにあります。「そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ五・三)。この手紙を書いたパウロは、「苦難」という言葉をまず使いました。今日の聖書箇所の「苦痛」と同じ言葉です。しかしその「苦難」から始まり、「忍耐」「練達」を経て、「希望」へ変わっていくとパウロは言うのです。

今日の聖書箇所で主イエスが言われているのも、それと同じです。二一節にあるように、子どもが生まれるときの「苦難」があります。しかしその苦難を乗り越えると、もはやその苦難が過去のものになる。苦難を思い起こすことはもうなくなると、主イエスは言われるのです。

この後で讃美歌五二〇番を歌います。この讃美歌の作詞をしたのは、左上のところに書かれていますが、ホレーショ・ゲーツ・スパフォードという人です。一八二八年にアメリカで生まれ、一八八八年まで生きた人です。牧師ではありませんが、熱心な信徒だった人です。

この讃美歌の歌詞が作られるにあたって、スパフォードにいろいろな「苦難」が襲い掛かります。作詞をする二年半ほど前に、一人息子を亡くします。二年前には、シカゴの町の大火で財産の大部分を失ってしまいます。さらに、同じ年の秋に、家族でヨーロッパへの伝道旅行に出かけることになりました。ムーディーという大変有名な伝道者と共に、伝道旅行に出かけることになったのです。

出発直前、スパフォードに緊急の用事が入り、妻と余人の娘たちは先に行かせ、自分もすぐにその後の別の船に乗ることになりました。ところが、妻と娘たちが乗った船が沈没をしてしまう。妻だけは救助されましたが、娘四人を一気に失うことになりました。スパフォードがその知らせを受けて、船に乗り、沈没現場へと赴きます。その場所で、涙ながらに作詞をしたのが、この讃美歌であると言われています。

一番はこのように歌います。「しずけき河のきしべを、すぎゆくときにも、うきなやみの荒海を、わたりゆくおりにも、こころ安し、神によりて安し」。たとえ静かな河を渡っているときも、つまり人生の順境においても、たとえ荒波のようなところを渡っているときにも、つまり人生の逆境においても、「こころ安し、神によりて安し」と歌うのです。

「こころ安し、神によりて安し」というのは、英語では“It is well, with my soul”と繰り返し歌います。「私の魂は大丈夫だ(平安だ)」と歌うわけですが、日本語の歌詞は「神によりて」と付け加えます。誰が日本語の翻訳をしたのは不明となっていますが、「神によりて」と付け加えたのは、名訳だと私は思います。順境であっても逆境にあっても、神による平安があると、スパフォードは歌っているのです。

今日の聖書箇所の時点では、何も分からなかった弟子たちでありました。悲しみで心が満たされていて、喜びなどはなかった。しかし喜びが与えられる約束を主イエスからいただいた。それが本当に実現します。第二〇章二〇節にこうあります。直前の一九節からお読みします。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(二〇・一九~二〇)。弟子たちは復活の主イエスに出会い、本当に「喜んだ」のです。

この第二〇章一九節に「週の初めの日」とあります。日曜日のことです。第二〇章二六節にも「さて八日の後」とあります。その日を入れて数えますので、ちょうど一週間後になりますが、次の週の日曜日に、主イエスに会い損なってしまった弟子のトマスも、やはり日曜日に会うことができました。日曜日、それは主イエス・キリストがお甦りになった日です。キリスト者は二千年前から日曜日を大事にしてきました。主イエスがお甦りになられた。復活の祝いをするために、日曜日の礼拝を大事にし、この日を喜びの日として礼拝をしてきたのです。

主イエスがお甦りになられる。それは死を乗り越えることです。それだけではありません。私たち人間の罪を乗り越え、悲惨さを乗り越え、病を乗り越え、悲しみを乗り越え、苦難を乗り越える。あらゆることを乗り越える喜びがあるのです。

たとえ私たちの人生がどのようであっても、小さな悲しみや苦しみ、病や死さえあったとしても、一週間ごとに喜びが約束されている人生が私たちの人生です。たとえどのような一週間を送ったとしても、私たちはここに集い、与えられている喜びを新たに受け取り直して、新たな一週間を再び始めていくのです。

今日の聖書箇所の最後の二三~二四節にこうあります。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(二三~二四節)。

二四節の「願いなさい」というのは、今日の聖書箇所の文脈に合わせて「願いなさい」と訳してしまったのでしょうけれども、本当ならば「求めなさい」と訳した方がよいと思います。「求めなさい。そうすれば与えられ」る。何が与えられるのでしょうか。喜びです。決して取り去られることのない喜びが与えられる。主イエスがそのように約束をしてくださり、その約束が本当に私たちの間で実現をしているのです。