松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年6月26日(日)
説教題「真理の霊に導かれる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第16章1〜15節

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。

旧約聖書: エゼキエル書39:25~29

「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」(一節)。本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところで、主イエスはこのように言われています。主イエスが何のために、これらのことを語られたのか。その目的がこの言葉に表れています。

「つまずく」という言葉が出てきています。聖書の中にも、比較的よく出てくる言葉です。例を挙げればきりがないくらいです。「つまずく」、「つまずき」、「つまずきの石」という言葉も出てきます。教会の外ではあまり使われない言葉かもしれませんが、教会内ではよく使われる言葉です。何気なく使っているところもあるかもしれません。

しかし元のギリシア語の言葉の元来の意味としては、このような意味があったのだそうです。「罠の中のえさをつける腕や棒の部分」。動物が罠であるとは知らずに、えさにつられて棒に触れる。そうすると、ばねが外れて罠にかかります。罠にかかってしまった動物たちにとっては、命取りになる出来事です。

つまり「つまずく」というのは、石のようなものにちょっとだけつまずいてしまった。すぐに体勢を立て直して歩くことができる、というような意味ではないのです。もともとは破滅へと誘い込む恐ろしい意味がありました。翻訳では「つまずく」となっています。もちろんそれはそれでよいのでしょうけれども、本当ならば「破滅する」くらいのことが意味されているのです。

主イエスがそのように言われる。「あなたがたをつまずかせないため」(一節)。恐ろしいことが言われているとも言えますが、しかし主イエスがそれほどまでに心配りをしてくださっている。そのように今日の聖書箇所を読むことができます。あなたがたがそのような破滅へと至らないように、ということです。

そうならないように、「これらのこと」を主イエスは語ってきたと言われます。一節でも四節でも六節でも「これらのこと」が出てきます。「これらのこと」とは何でしょうか。

第一五章の終わりのところ、先週の聖書箇所になりますが、その箇所で主イエスは迫害のことを言われています。今日の箇所でもそうです。第一六章一~四節も迫害の話を受けて、その話がなおも続いているのです。

二節の前半に「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」とあります。これはすでにヨハネによる福音書に出てきた表現です。単に「会堂」から追放するにとどまらない。会堂は人々の生活の中心でもありましたから、会堂から追放される、イコール、村から追放される。村八分になるということです。

さらに二節後半に「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」とあります。使徒パウロがまさにそうでしたが、最初は教会の迫害者でした。それが神に対してよかれと思ってやったことです。しかしそうではなかった。迫害する側は、自分たちに正義があると思ってやっているのです。ところがそうではないと主イエスは言われます。「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」(三節)。

このような迫害に加えて、主イエスが弟子たちの前からいなくなるということが、弟子たちにとって大変なショックでありました。今まではずっと主イエスと一緒でした。このお方についていけば、優れた教えを聞くことができるし、すばらしい奇跡がなされていくし、弟子たちの人生にとっても、今までにないくらいの充実した時だったでしょう。

しかしその主イエスがいなくなってしまう。五節から六節にかけてこうあります。「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」(五~六節)。

弟子たちの心をそのまま言い当てている言葉です。弟子たちも、主イエスが自分たちから離れてしまう、そのことは感じていました。実際に、あなたはどこへ行かれるのか、私たちにはわかりません、というような言葉を弟子たちも口にしてきました。しかしこの時は尋ねることすらできなかった。悲しみで心がいっぱいだったからです。

主イエスがおられなくなる。主イエスが不在である。そのことは、私たちにとっても大事なことです。ヨハネによる福音書の最後の方、第二〇章に、復活された主イエスと弟子のトマスとのやり取りが記されています。他の弟子たちが復活の主イエスに出会いましたが、その時、どういうわけかトマスは会うことができませんでした。トマスは復活の主イエスを見ていないので、かたくなに信じようとしません。

ところが主イエスがトマスに出会ってくださる。そして主イエスがトマスに言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(二〇・二九)。この言葉は読者である私たちに対する問いかけでもあります。見る、見ないで信じる、信じないことを決めるのか。「見ないのに信じる人は、幸いである」、この言葉は、この福音書の一つの大きなテーマでもあります。

さらに、ヨハネによる福音書と非常に関連の深い書と言われていますが、ヨハネの手紙一があります。その手紙の冒頭のところに、こうあります。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(Ⅰヨハネ一・一)。この手紙の著者が誰なのかという問題もありますが、仮に主イエスのことを直接目で見て、手で触れたことがある人が書いたとしても、読者にとっては目で見たこともなく、手で触れたこともない主イエスのことが伝えられているのです。

見たこともない、触れたこともない。それは私たちの問題でもあるのです。主イエスがこの地上にはすでにおられない。主イエスの直接の弟子だけが、その特権にあずかることができたのです。

しかし、もし仮に主イエスがこの地上に今もなお、おられるとしたらどうでしょうか。一方では、それはすばらしいことだと言えるかもしれません。しかし他方では、私たちの信仰生活にとって、なんともせわしないことになってしまいます。悩みがあれば、地球の裏側の主イエスのところに行かなければならない。病になれば、無理をしてでも主イエスのところに行かなければならない。死にそうになったら、主イエスにおいでいただかなければならない。実際に聖書の中に、主イエスのところに群衆が押し寄せてやって来たことが書かれています。そのことが今もなお続くということになります。

もっと考えなければならないことがあります。主イエスが今ここに見える、触れることができる。そうであるならば、他の場所に主イエスはおられないということになります。そうであったならば、私たちの信仰生活にとって、ものすごく大きな損失です。しかし主イエスは地上を去った。天に上げられた。時と所に限られないお方になられたのです。

その時のことを、主イエスはあらかじめ話してくださいました。私たちのためだと言われます。七節でこう言われています。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(七節)。

「実を言うと」という言葉が使われています。私たちも日常の会話でよく使う言葉です。話をしばらくしていったところで、「実はね…」という形で、話の本題に入っていきます。主イエスもそういう言葉をここで使っておられる。いや、それ以上です。「実を言うと」と訳してもよいのですが、「はっきり言っておく」、この福音書の中で繰り返し使われている表現と同じなのです。もっと言うならば、「私はあなたがたに真理を告げる」です。本当に、本当に、大事なことを主イエスが言われようとしているのです。

どんな大事なことでしょうか。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(七節)。「弁護者」という言葉は、最近の聖書箇所でも繰り返し出てきました。聖霊のことです。「弁護者」という言葉の元来の意味は「傍らで呼ぶもの」という意味です。悲しいときに傍らで語りかけてくれる存在、そうならば「慰め主」となります。困ったときに助言をくれる存在、そうならば「助け手」となります。裁判などの席で、自分の代わりに弁護をしてくれる存在、そうならば「弁護者」となります。そういう存在が与えられる。主イエスが去ったとしても、私たちは孤独ではないのです。傍らにいてくださる存在、それが聖霊です。

その聖霊が三つの事を明らかにしてくださると言われます。「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(八節)。それぞれ三つの事が、九節、一〇節、一一節で具体的に語られていきます。

まず罪についてです。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(九節)。罪とは何か。まだ洗礼を受けておられない求道者も、あるいはすでに洗礼を受けた方も、罪について、誤解が生じることがあると思います。しかし主イエスがこの箇所で、罪とはズバリこれであると言ってくださっています。主イエスを信じないこと、それが罪なのです。

罪とは、悪い行いのことだ、あるいは善い行いができないことである、そのように誤解されることがあります。自分がだらしないとか、心構えが悪い、だから自分は罪人だと思ってしまう。主イエスが言われているのは、そういうことではないのです。もっと先の話です。私たちの誰もだらしないところ、心構えが悪いところがあります。

そんな私たちのために神が独り子である主イエスをこの世に送り、救いの手を差し伸べてくださっている。そのことを信じないことが罪なのです。私がだらしない、心構えが悪いという問題にとどまらない。そんな私のために神が救いの手を差し伸べておられる、その救いの手を払いのける。何とも失礼な話ですが、神が救いの手を差し伸べ、主イエスを送って下さった、その主イエスを拒否をする。それが罪です。

続いて、義についてです。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(一〇節)。主イエスが弟子たちに言われているように、父なる神のもとに行かれること、それゆえに主イエスを見ることができなくなること、触れることができなくなること。それが義だと言われます。どういうことでしょうか。

私たちの教会のルーツともなった人ですが、スイスのジュネーブの教会にカルヴァンという人がいました。この人は聖書の優れた注解を書いていて、今でも読まれていますが、カルヴァンがここでの義について、このように書いています。「主イエスのめぐみによってわたしたちに伝達される義、と理解されなければならない。…要するに、かれは、天の栄光の座から、かれの義の甘美な香りと快い匂いをもって、全世界をかぐわしいものとするのである」。

主イエスが天に昇られ、時と所に限られないお方になる。そしてそれゆえに、主イエスのめぐみが、いつ、いかなるところでも天から注がれる。この箇所をカルヴァンはそう読むべきであると言っています。罪赦されて義とされる、義しい(ただしい)者とされることは、主イエスが天のおられるために与えられることなのです。

最後に、裁きについてです。「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」(一一節)。この裁きについては、九節の罪と、一〇節の義から自ずと明らかになります。主イエスを信じない、そのことが罪と定められる裁きになると言われるのです。

それらのことを語られた上で、段落が改まりますが、一二節です。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」(一二節)。やがて聖霊が与えられる。聖霊が主イエスと矛盾することではなく、主イエスと同じことを語ってくださる。主イエスがすでに語ったことを思い起こさせてくださる。しかし今はあなたがたには分からない、と言われるのです。

先週の日曜日のことになります。東京神学大学長野地区後援会主催の講演会が行われました。講師としてお招きしたのは、東京神学大学の旧約聖書の教授です。「どう読むか、旧約聖書」という講演題で講演を伺いました。

私も在学中、この教授からいくつか授業を受けました。特に、ある授業の中で、旧約聖書のコヘレトの言葉と雅歌についての授業を印象深く覚えています。授業の最初のところで、この教授が学生にこう言われました。「私はコヘレトの言葉や、特に雅歌については何が書かれているか、よく分からないところがある。ぜひ一緒に読んで、何が書いてあるのかを探りましょう」。

ずいぶんはっきりと言われる先生だと思いました。しかしそれが聖書に向き合う正しい姿勢と言えるかもしれません。そのようにして、私たちは旧約聖書の原典であるヘブライ語にあたり、注解書を読み、ここに何が書かれているかを探っていったのです。

分からないことがたくさんある。それが聖書です。特に旧約聖書はそうです。この旧約聖書をどう読めばよいのでしょうか。そのための講演がなされたわけですが、講演の最後のところで、「土曜日のキリスト」という言葉が出てきます。その部分を引用します。

「土曜日のキリストは死者の中にあり、冷たい屍である。そこにはどうすることもできない不条理があり、「神の死」がある。旧約聖書にはそういう悲痛な現実があちこちにあり、説明できない事柄で溢れている。旧約の中には無数の酷い死体が散乱している。人間の罪の現実がつぶさに記され、旧約を素直に読むことができないのは確かである。そういう旧約聖書がなぜ必要なのか。「土曜日のキリスト」が示唆を与える。…土曜日のキリストは、しかし、復活の日曜日の朝が来ることを確実に示している。現在の悲惨や不条理が決してそれだけでは終わらないことを、確実にキリストの復活の朝が来ることを、しかもこの夜が明ければ来るのだということを土曜日のキリストは語る」。

このことを受けて、さらに続けて、こう言われます。「旧約聖書を読んでわからないままでよいのではないだろうか。神の御心がわからないままでよいのではないだろうか。神の計画は終末まで明らかにされない。…わからなくてよい。わからないままでよい。大事なことは、そこでうずくまってしまわず、それでも前に進むということである」。

講演会でのこの言葉は、今日の聖書箇所で言われている主イエスのお言葉と、そっくりそのまま重なっていると思います。土曜日には分からなくともよい、けれども必ず次の日の日曜日がやって来るということです。弟子たちにとって、この時はまるで分からなかった。質問すらできなかった。悲しみに打ちひしがれていた。しかし復活の日曜日の朝を経て、弟子たちも分からせていただいたのです。

私たちもかつては分からなかった者です。罪について、義について、裁きについて、それだけではありません。神について、主イエスについて、聖霊について、神の愛について、救いについて、何も分かっていなかったのです。しかし今では、理解はまだ十分ではないと言わなければならないかもしれませんが、私たちは信じる者になることができました。

今日の説教の説教題を「真理の霊に導かれる」と付けました。今、見たこともなく、触れたこともないキリストと、私たちはつながっています。この方に罪を赦され、命を得て、日々、歩んでいます。もうすでに土曜日を通り越したのです。日曜日の歩みを私たちは送っています。聖霊に導かれて、私たちはそのような歩みをなしているのです。