松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年6月19日(日)
説教題「世との戦い」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章18〜27節

世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

旧約聖書: 詩編69:1~22

「世」という字があります。世界の世の字です。この世という字、漢字を思い浮かべていただきたいと思いますが、「十」という字を三つ並べたものから成り立っているようです。王様とか皇帝とか呼ばれる人の治世は、だいたい三十年です。自分が即位して、次の王である自分の子どもに譲るまでの期間です。例えばフランスの国王に「ルイ一三世」と呼ばれる人がいました。王様の数え方も「世」という字が使われるのです。今の世代から次の世代へ、その人が治める一つの時代を表す。世とはそういう意味のある字です。

そのようにして、誰かが治め、この世の中が作られていきます。今では誰か一人の人が治めているとは言えないかもしれません。しかし実際に「世」という言葉は、私たち人間が生活を営んでいる社会全体を表す言葉として使われます。例えば、「世の中が悪い」というように私たちは使います。あるいは「暮らしにくい世の中だ」というようにも使います。社会全体を「世」という言葉で表しているのです。

聖書にも、「世」という言葉が出てきます。特に私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書には、世という言葉がたくさん出てきます。重要語だと言ってもよい。聖書では、教会と「世」が分けられて使われています。今日の聖書箇所でも言われていますが、キリスト者は世に属さないのです。

ある人が洗礼を受けたときのことです。受洗をした際に、牧師から聖書の言葉をもらいました。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ三・二〇)という言葉です。この人はその聖句を聞いて、ああ、自分は日本人だけれども、半ば日本人ではなくなった。そう思ったのだそうです。天に国籍を持つ者に変えられた。それがその人の思いです。

もちろん、日本人であるとすれば、洗礼を受けたからといって日本人でなくなるというわけではありません。洗礼後も、日本人のまま生き続けます。私たちは確かに「世」の中にいるのです。しかし私たちは世にあって、世に属する者ではなくなる。そういう明確な違いが生じるのです。

「世」という言葉が、ヨハネによる福音書の中でも重要語であると、先ほど申し上げました。たくさんの聖書箇所を挙げることができます。しかし全部を挙げるわけにはいきませんし、ここでは、本日、私たちに与えられた聖書箇所以外のところで、たった一箇所だけを挙げたいと思います。それは、有名な箇所である第三章一六節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(三・一六)。

これに対して、今日の聖書箇所の言葉です。まず一八節のところに、「世」が出てきます。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(一八節)。一九節のところにも、やはり「世は…憎む」という言葉が出てきます。

二三節には「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる」とありますし、二四節にも「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる」とあります。「世」という言葉はありませんが、「わたしを憎む者」、「彼ら」と置き換えられています。今日の聖書箇所では、「世」は一貫して、神のこと、キリストのこと、キリスト者のことを憎んでいるというように出てくるのです。

第三章一六節では、神は「世」を愛されると出てくるのに、今日の聖書箇所では、「世」は憎むのです。まるっきり正反対のことが語られています。ところがです。神はそれでも世を愛される。世はそれでも神を憎む。こういう関係がずっと続いていくのです。神は世が愛してくれないからといって、愛することを止めたり、世を憎んだりすることはしない。それでも神は「世」への愛を貫かれるのです。

神は世を愛されている。世界を良しとされている。それは創世記の最初に記されています。天地万物をお造りになりました。「見よ、それは極めて良かった」(創世記一・三一)とはっきり書かれています。しかし良かったのが最初だけではなく、神はいつでもお造りになった「世」を肯定しておられます。

最近、祈りの会では旧約聖書のコヘレトの言葉を読むようになりました。コヘレトの言葉について、いろいろなことを言わなければなりませんが、ここではそれらを省略して、一つだけ申し上げたいと思います。コヘレトの言葉の著者は、この世をかなり悲観的に見ているところがあります。「太陽の下」という言葉が繰り返し使われます。「太陽の下」、つまりこの地上に、いろいろな不幸があり、不条理なことがある。誰もそこから免れることはできないと説いていきます。

しかし、コヘレトの言葉が、所々で言っているのは、自分に与えられた分で満足せよ、貪欲にあれもこれも欲しがるのではない。自分の分をわきまえよ、それが人間に与えられた「太陽の下」での生き方なのだと言うのです。コヘレトの言葉の著者は、決して「この世が悪い」、世の中のせいであるとは言わないのです。

祈りの会で、コヘレトの言葉の前はヨブ記を読んでいました。ヨブ記とコヘレトの言葉は、思想的にかなり共通なところがあると言われていますが、ヨブ記でもやはり、神が造られた世界のことを否定しているわけではありません。ヨブという人に不幸が襲い掛かります。友人たちと長い議論をしますが、ヨブ記の最後のところで、ついに神が沈黙を打ち破り、ヨブに語りかけます。

神が言われたのは、たった一つだけのことです。この世界を私が造った、ヨブよ、お前はいったい何を理解しているというのだ。たったそれだけです。神は御自分がお造りになった世界を否定しておられない。むしろ肯定しておられる。その「世」の中で、ヨブは自分に起こった出来事を受けとめることができるようになったのです。

神は一貫して、「世」を良しとされ、また愛される。ところが、「世」は愛し返すどころか、憎んでしまうのです。一九節にこうあります。「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。」(一九節)。「身内」という言葉があります。これは「自分のもの」という意味です。自分の仲間内だからこそ、世は「身内」を愛するのです。憎まれても愛する愛とはまるで違います。

それとは対照的に、神は憎まれてでも、世を愛する。世に神の独り子を送る。信じる者が一人も滅びないように、罪の赦しを与えてくださる。神の愛がひときわ際立つのです。

主イエスがこの世から弟子たちを選び出してくださいました。そして私たちをも選び出してくださいました。主イエスの選びのことは、先週の説教でも触れました。先週の聖書箇所になりますが、一六節のところにこうあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(一五・一六)。

今日はその続きの箇所です。一九節後半に、「わたしがあなたがたを世から選び出した」とあるように、主イエスが選び出してくださったのです。ということは、私たちもかつては世に属していたが、今は属していないということになります。洗礼を受けたある方が、自分は半分日本人ではなくなった。天に国籍を持つ者になったという心境が、そのことを表しています。

今日の説教の説教題を「世との戦い」としました。世と教会の歴史には、いろいろな歴史があります。いろいろな戦いがありました。教会は二千年前から始まりましたが、ローマ帝国の中でたくさんの戦いを強いられました。迫害の時代がありました。しかしローマ帝国で、やがて教会の信仰が認められるようになります。四世紀後半には、国の宗教に定められます。

そういう状況の中で、たくさんの恩恵がありました。迫害が止んだこともそうでしょう。日曜日が礼拝をするための休日として制定されるようになりました。ここまではよかったのかもしれません。ところが、だんだんと教会も力を持ってくるようになります。人が集まり、お金が集まる。聖職者というのは、かなり地位と権力のある役職となります。そうすると、信仰上の理由からではなく、聖職者になりたい人たちがたくさん現れます。牧師になるために、お金で牧師の地位を得る、今で言えばそんな風でしょうか。そういうことがなされるようになってしまったのです。

それではまずい、ということで、志のある人たちが修道院を作り、せめてそこだけでも信仰上の理想的な生活をしようということになります。最初はよかったかもしれませんが、修道院にまで世俗化の波が押し寄せてしまう。いつの間にか、教会も修道院も、「世」にどっぷりと浸かってしまうことが起こったのです。そうすると、必ず問題が生じます。キリスト者の歩みは、この「世」と一線を画さなければならないのです。

しかし世と一線を画し、世との戦いを戦うからといって、私たちは世を憎んで戦うわけではありません。そうではなく、神が世を愛されたように、私も世を愛する、その戦いをするのです。「世の中が悪い」、私たちもそういう言葉を使うことがあるかもしれません。しかしそのように世を批判することは簡単かもしれませんが、話はそう単純にはいきません。神が世を愛されているのですから。神が世を愛しておられる、その前提で世との戦いを戦わなければなりません。

「世」という言葉に並んで、もう一つ考えなければならないことがあります。それは「憎む」という言葉です。今日の聖書箇所で繰り返し、憎むという言葉が出てきます。世が一貫して、神を、キリストを、キリスト者を憎むというのです。どういうことでしょうか。

松本東教会では一年以上前から、『ハイデルベルク信仰問答』を学んでいます。『ハイデルベルク信仰問答』は私たちの教会のルーツである信仰を、問と答えの問答形式で学ぶことができる書です。最初のところに出てきた問五の答えに、「憎む」という言葉があります。

問五 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。
答 できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと、生まれつき心が傾いているからです。

『ハイデルベルク信仰問答』では、愛の反対語として「憎む」という言葉が使われています。「愛の反対は無関心」という言葉が有名です。日本の現実に即した言葉かもしれません。なかなか鋭い言葉です。もちろん、愛の反対語を様々な言葉で定義できると思います。しかし「憎む」であろうと、「無関心」であろうと、その他の定義を考えても、愛と正反対であることには変わりはありません。

『ハイデルベルク信仰問答』は、私たち人間には、愛とは正反対の憎む方に傾いていると言います。そういう傾向があると言うのです。そういう傾向があれば、人によって多少の傾き度合が違ったり、どれほど坂道を転げ落ちているかは違うかもしれませんが、行き着く先は同じです。愛と反対方向に行き着いてしまうのです。

これは、私たち人間、誰もが持っているものです。『ハイデルベルク信仰問答』ははっきりとそう言います。誰か特定の人だけではない。この世に生きるすべての人間がそうなのです。私たちもかつては「世」に属していましたし、今でも「世」に引っ張られることがあります。しかしそういう中で、神の愛が際立っています。憎まれてでも、私たち人間を愛してくださるのです。

その主イエスによって選び出された私たちも、主イエスと同じように憎まれると言われます。今日の聖書箇所の小見出しに「迫害の予告」とあります。小見出しは、もともと聖書箇所にあったわけではなく、あくまでも参考程度に見ておけばよいと思いますが、しかし「迫害の予告」とは確かにその通りなのです。主イエスはこれから弟子たちが、またキリスト者である私たちが受けるだろう迫害を、見通しておられました。

二〇節にこうあります。「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」(二〇節)。この二〇節の前は「憎む」という言葉が使われ、この後には再び「憎む」という言葉に戻ります。「憎む」、「迫害する」、同じように考えてよいでしょう。

なぜ憎まれるのでしょうか。なぜ教会は迫害を受けてきたのでしょうか。二五節のところにこうあります。「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」(二五節)。旧約聖書が引用され、「理由もなく」と言われています。

この旧約聖書の箇所は、詩編第六九編です。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書箇所に、この言葉があります。詩編で言うと第六九編五節です。「理由もなくわたしを憎む者は、この頭の髪よりも数多く、いわれなくわたしに敵意を抱く者、滅ぼそうとする者は力を増して行きます。」(詩編六九・五)。この詩編に出てくる周りの人たちが、なぜこの人を迫害していたのか、憎んでいたのか。具体的なことはよく分からないところがあります。

あるいは、この詩編の冒頭に「ダビデの詩」とありますから、具体的にダビデが受けていた迫害を考えてもよいかもしれません。ダビデは、王様であったサウルやその家臣から命を狙われて、逃げ回っていました。なぜ逃げ回らなければならなかったか。理由は、ある意味ではもちろん「ある」わけです。サウルがダビデのことを妬んでいたからです。次の王としてダビデに油が注がれます。そういう任職式がなされます。しかしまだ王位はサウルの手にあります。後は王位を与えるだけか…、サウルの中にそんな思いもありました。サウルにとって、ダビデは脅威だったのです。だから殺そうとした。サウルの側から、ダビデを迫害する、ダビデを憎む、それなりの理由は「ある」のです。

ところが、ダビデの側から見ればどうでしょうか。ダビデは命を狙われる前は、サウルの家臣として王に仕えていました。非難されるようなことは何もありませんでした。次の王に任職されたのも、自分が王になりたかったからではありません。ただ神からそのように召されたのです。そういう中、ダビデは「理由もなく」迫害を受けた。憎しみを受けた。キリスト者もそれと同じだと主イエスは言われます。

師匠と同じように、弟子もまた迫害される。今の時代もそれは確かでしょう。しかしそうだからと言って、憎しみを憎しみで返すのではない。それが戦いの戦いかたです。神は世を愛しておられるのですから。独り子の命を懸けてでも、実際に独り子、主イエス・キリストを十字架に架けてまで、私たちの罪を赦し、私たちを救い、私たちを愛してくださったのです。

私たちにも小さな戦いがあります。自分がキリスト者であること、日曜日に教会に行っていることを明かすかどうか、そのような戦いがあります。家庭や職場の中で、キリスト者としてどのように振る舞うべきなのか、どのように愛を造り上げていくのか、そのような戦いがあります。

私たちの戦い方を、主イエスが教えてくださいます。今日の聖書箇所の最後のところです。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」(二六~二七節)。あれこれと弁明をする必要はない。ただ一つのことだけを言えばよい。「わたしについて」、つまり主イエスについて、それだけを、しかも聖霊に導かれて証しをすればよいのです。

主イエスが「友」として、私たちを「世」から選び出し、戦いの仲間にしてくださいました。自分のための戦いではありません。この「世」を愛するための、主イエスと共に戦う戦いの仲間として、私たちは召されているのです。