松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年6月12日(日)
説教題「まことの友、キリスト」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章11〜17節

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

旧約聖書: ヨブ記16:18~22

今日の説教の説教題を「まことの友、キリスト」と付けました。私たちにも友と呼べるような人がいるかもしれませんが、イエス・キリストが私たちの友である。しかもまことの友であるという説教題です。

友とは何でしょうか。辞書を引きますと、様々な意味が定義されています。「常に親しく交わるなかま。また、志を同じくする人」「なかまうち。同じ集団に属する者」「同行の者」。辞書の中にも、いろいろな友の定義があります。そういう辞書的な意味は分かったとしても、それだけでは済まないところがあります。果たして自分にはまことの友がいるのだろうか、という問いが残ります。

友について、いろいろ調べました。インターネットを見ていましたら、様々なことが書かれていました。特に最近、インターネットや携帯電話などの発達により、友達の定義が変わったのではないか、という意見がありました。インターネット上では、会ったこともないのに、いわゆる友達を作ることができます。

昔も文通などで会ったことのない友を作ることもできましたが、インターネットによって飛躍的にそれが伸びています。友達がたくさんできるようになった。それで人生が幸せになったかと言えば、必ずしもそうではありません。むしろ、仮想上の友達ばかりで、かえってむなしくなったという声もあります。いつの時代でも、私たち人間は友情のことで、一喜一憂しているのです。

そのような友情のことで悩む中で、私たちは聖書を読んでみる。聖書も友のことを論じている箇所がいろいろとあります。そのような中、特に本日、私たちに与えられた聖書箇所の中で、主イエスが私たちの友であるという言葉がいくつか出てきます。

まず一三節のところです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(一三節)。続けて一四節です。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(一四節)。それから一五節もそうです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(一五節)。

主イエスが私たちの友でいてくださる。ただの友ではなさそうです。説教題の言葉で言えば、まことの友です。まことの友とは何でしょうか。主イエスは私たちのどのような友でいてくださるのでしょうか。

この説教の後で、讃美歌三一二番を歌います。讃美歌の中でも、かなり有名な讃美歌の一つと言えるでしょう。「慈しみ深き、友なるイエスは」と歌い始めます。一番から三番まで、いずれも同じ歌い出しです。三番の歌詞の途中にこうあります。「世の友われらを棄て去るときも」。実際にそんなことがあるでしょうか。この讃美歌は、私が子どものときから歌ってきた讃美歌です。子ども心に、そんなことはないだろうと思いつつも、主イエスが友でいてくださる心強さを思ったものです。

三番の歌詞の「世の友」とまことの「友なるイエス」が対比されていることが分かります。「世の友」は私を棄て去るかもしれない。そんなことはないと思いつつも、しかしそのことを否定できない私たちです。世の友は有り難いものですが、しかし限界もある。それもまた事実です。

聖書の中にも、世の友に限界がある、そのことを記している箇所もいくつかあります。主イエスがあるとき、真夜中に友人の家の戸を叩く譬え話を語られました。粘り強く祈り続けることを教えている譬え話です。

ある人のところに旅行者がやって来ました。しかし旅人をもてなすためのパンがありません。そこで、この人はパン三つを友人に求めたのです。時間は真夜中でした。そんな時間にもかかわらず、友人の家の戸を叩くのです。ところが、家の中から友人に言われてしまいます。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」(ルカ一一・七)。この世の常識ではそれが当たり前かもしれません。私たちも真夜中に友だちの助けを求めることはほとんどないでしょう。

しかし主イエスは言われるのです。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(ルカ一一・八)。

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。この人は礼儀などを省みずに、友のところに行きました。しかし「友」という理由では駄目だった。扉が開かれ、必要なものが得られたのは、粘り強さであった。主イエスは粘り強く祈ることを教えておられるのです。

もう一つ、この世の友に限界があるという聖書箇所を挙げたいと思います。それが、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所です。ヨブ記をお読みしました。ヨブ記にはヨブという人が出てきます。神を信じる信仰深い人で、たくさんの家族と財産を持っていた人です。ところがヨブに突如、不幸が襲い掛かります。持っていた家族や財産を失い、自分自身もひどい病にかかってしまいます。

そのヨブのところに、三人の友人たちがやって来ます。ヨブの不幸を聞いて、慰めようと見舞いにやって来た友人たちです。ところがヨブと三人の友人たちとの間で、慰めの話ではない。論争が繰り広げられることになりました。今日の聖書箇所の第一六章は、その論争の二ラウンド目になります。友情について考えさせられる内容が出てきます。

二〇節のところにこうあります。「わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(ヨブ記一六・二〇)。実はこの節の読み方は非常に難しいところがありまして、かつての口語訳聖書などではまるで違うニュアンスに訳されています。ここではその詳細には立ち入りませんが、いずれにしても、三人の友人たちは、ヨブの真の友人になることができませんでした。ヨブを慰め立ち直らせるどころか、論争を繰り広げるうちに、ヨブをどんどんと神から離れさせていくような、そんな友になってしまったのです。ヨブはこの三人の友人ではない、まことの友を求めている。この世の友には限界があるのです。

そのまことの友が主イエスである。今日のヨハネによる福音書の聖書箇所はそのように言っています。実は聖書で主イエスが友であると言っている箇所は、それほど多いわけではありません。本日、私たちに与えられた聖書箇所がまずそうです。また、別の箇所では、主イエスが弟子たちに向かって、「友人であるあなたがたに言っておく」(ルカ一二・四)と言われた箇所があります。さらに、主イエスが死んでしまったラザロに対してこう言われています。「わたしたちの友ラザロが眠っている」(ヨハネ一一・一一)。

主イエスが友であると言っている箇所は、それほど多いというわけではありません。しかしながら、それでも主イエスが私たちの友である。友でいてくださる。それは私たちの信仰にとって、とても大事なことなのです。

新約聖書の元の言葉であるギリシア語で、友のことを、そのままの発音で言うと、「フィロス」と言います。この「フィロス」に大いに関連する言葉に「フィリア」という言葉があります。「フィリア」とは、そのまま翻訳すれば、愛です。実はギリシア語では、同じ愛は愛でも、様々な愛があると考えます。聖書に出てくる愛で、最も頻繁に出てきて強調されているのが「アガペー」という愛です。「アガペー」と「フィリア」。どちらも愛ですが、少し噛み砕いて言うならば、「アガペー」とは自己犠牲の愛であり、「フィリア」とは友に対する愛、つまり友愛のことです。

聖書箇所によっては、自己犠牲の「アガペー」の方がより深い愛であり、友愛の「フィリア」はそれに少し劣っていると読めるような箇所が、ないわけではありません。しかし私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書では、「アガペー」と「フィリア」に差がないと言われています。なぜでしょうか。それは、まさに本日、私たちに与えられた聖書箇所から、そう言うことができるのです。一三節にこうあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(一三節)。

これが最大の愛です。「フィロス」(友)のために自分の命を捨てる、これが最大の「アガペー」(愛)である、主イエスはそう言われます。友を愛する愛、これが劣った愛ではなく、その愛がアガペーの愛に結び付くのです。主イエスが私たちを友としてくださる。それはすなわち、主イエスが私たちに自己犠牲の愛を注いでくださるということになるのです。

このことに加えて、一六節のところにこうあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(一六節)。

選ぶ、選びのことがここに出てきます。私たちが洗礼を受ける、あるいは信仰告白をする、転入会をする。そのとき、私たちはどんなことを思うでしょうか。自分が洗礼を受けることを選んだ、信仰告白をすることを選んだ、松本東教会に転入会をすることを選んだ。もっと言えば、今日のこの日、この礼拝に来ることを選んだ。そう考えるかもしれません。

ところが、主イエスはそうは言われません。わたしたちもだんだんと気付いていきます。自分がこれらのことを選んだのではなかった、ただ主イエスが選んでくださったのだ、そのことが分かってきます。もしも私たちが選んだのであれば、私たちに責任が伴うかもしれませんが、しかし自分が選んだのであれば、自分が捨てるのも自由になってしまいます。そうではなく、「わたしがあなたがたを選んだ」、主イエスはそう言ってくださるのです。根拠は主イエスの側にある、私たちにあるのではありません。

友情に関しても、同じことが言えます。私たちもこの世では友を選びます。誰かと友達になる。お互いが選び合う。あなたは私の友達、私もあなたの友達、そのようにして友情が成立します。友情の喜びを味わうことができます。ところが、どちらかがその友情を捨てることがあります。相手に対して、友情を絶つ宣言をする。あるいは自然と友情が消滅をしてしまう。そうなると、私たちは友情の悲しみを味わうことになります。友情に関して、私たちは一喜一憂をする。それが、この世の友情の常です。

ところが、主イエスが私たちを友と呼んで下さる。友として選んで下さる。主イエスの側から友情がまず始まります。その友情は、一三節にあるように、十字架で命を捨ててまで愛してくださる友情です。さらに加えて、一五節に書かれていることも、友情に関して大事なことです。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(一五節)。

主人と僕の関係が持ち出されています。主人は僕に対して、何でも教えたりしません。むしろ大事なことは秘密にしています。しかし主イエスは父なる神から聞いたことすべてを私たちに伝えてくれた。そう考えるならば、もはやこの関係は主人と僕との関係を超えている。主イエスはそう言われるのです。

私たちもそのことはよく分かるのではないかと思います。友人同士の間で、もしもお互いに秘密が多かったとすれば、それは真の友と呼ぶに値しないでしょう。むしろ他の人には知らせていない秘密を教えている。それがまことの友との間の関係なのです。

今日の聖書箇所の中で語られていることが、主イエスが私たちの友でいてくださる根拠になります。それはこの世の一喜一憂するような友情ではありません。主イエスの側からまず友情を結んでくださる。そして主イエスから友情を切られることはないのです。

そうなると、私がキリストの友となります。キリストの友があの人になります。友の友はまた友です。私とあの人とも、友になるのです。

今日の聖書箇所の一二節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とあります。終わりの一七節にも、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」とあります。実は「掟」(一二節)と「命令」(一七節)は同じ言葉なのですが、主イエスが友である私たちに言われているのは、「互いに愛し合いなさい」ということです。友の輪が広がっていく。そこで広がっていく友のことを、私たちは信仰の友と言います。

信仰の友に関する話を、一つ付け加えたいと思います。先週の説教の中で、私たちの教会の百年の歩みの話をいたしました。今からちょうど一〇〇年ほど前、一九一六年六月四日、「松本聖書研究会」と呼ばれる集会が発足しました。それが私たちの教会の前身になります。

今日はその話を改めて詳しくお話はしませんが、その集会が発足した三年後、一九一九年のことになります。『基督者』という雑誌が発行されるようになりました。私たちの教会は日本基督教会と呼ばれるグループの一教会としての歩みを始めるようになりましたが、信州にあった七教会と合同で『基督者』という雑誌を発行するようになったのです。私たちの教会が編纂、発行、配布の中心的な役割を担いました。その第一号が一九一九年に発行されたのです。

実は以前、長野教会の関係の方が、長野教会で大きな働きをなした小原福治という人の本を書くために、私たちの教会に史料を借りに来られたことがあります。そのとき、雑誌『基督者』一式をお貸ししました。ところが、肝心な第一号が欠番であった。先日、その第一号が手に入ったので、コピーをしてわざわざ送ってくださいました。

一九一九年一月に発行された第一号のコピーを、私も読んでみました。昔の言葉ですので、すらすら読むというわけにはいかないところもあります。しかし大変興味深く読みました。特に、一九一八年八月一八~二〇日に行われた修養会の記事が目に留まりました。この集会は「信州特別伝道準備集会」という名前で、浅間温泉で行われた集会です。当時の日本の代表的な牧師、植村正久の講演がなされました。

その講演の記録が残されています。伝道についての具体的な話です。こうすべき、ああすべきということも語られています。例えばこんな文章があります。「伝道はあせってはいけない、永遠の仕事である。其の時直に信じなくとも、何時かは芽を吹いて生長する。丁度種蒔のようなものである。其の任務と責任とは実に重大なるものである。迫害も大きいに違いないが、此の永遠の事業について大いに戦わなくてはならない」。今から百年ほど前の集会ですが、今でも通用することが言われています。いつの時代でも伝道なのです。

そのような記録の中で、こんなことが語られていました。「古い信者に就て祈って復活させなくてはならない。見捨てずに友情の為に最後まで戦へ。老いたるもの復活すれば若き者は自然に集まって来るものである」。

「古い信者」とは、どういう信者なのか、少し不明瞭なところがあります。昔は教会に来ていたが来なくなってしまった人なのか、高齢や病やその他の事情のために来られなくなってしまった人なのか、その両方なのかはよく分かりません。しかしその者たちに対して、見捨てることなく「友情の為に」、粘り強く最後まで戦えと言うのです。

時代が一気に百年飛んで、先週の木曜日のことになります。先週の木曜日、訪問聖餐をいたしました。雨の降る中、教会の車に私も含めて六人が乗り、訪問先の家におられるお二人の教会員をお訪ねしました。ここ最近、教会に来ることができなくなっておられるお二人です。短い時間でありましたが、小さな聖餐礼拝を行いました。そこにも、信仰の友の交わりがありました。

信仰の友を覚えて、「友情の為に」最後まで戦えと植村正久は百年前に言いました。その百年前の言葉が、そこでも確かに生きていると思います。私たちは今も信仰の友を覚え合っているのです。友との間には、共通のことがあります。長い間、同じ時を過ごしてきた。ただそれだけではありません。たとえそうでなかったとしても、キリストが私たちを友と呼んでくださるのです。友としてのその絆は確かです。だからこそ、私たちの間でも友の交わりが生まれます。互いに愛し合うことができるのです。

これがキリストの掟です。愛のいましめです。キリストが友でいてくださる。だからこそ、私たちは互いに信仰の友としての交わりが与えられ、愛の交わりがそこに生まれる。キリストが私たちの交わりの中心にいてくださるのです。