松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20160522

2016年5月22日(日)
説教題「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章1〜5節

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

旧約聖書: イザヤ書5:1~7

松本に住んでいる私たちにとって、ぶどうの木というのは、馴染のある木だと思います。松本東教会は、今から三十数年前に、この場所に建てられました。その当時、周りはぶどう畑でした。今はほとんどその名残はありません。しかし少し山際の方へ行けば、あるいは塩尻の方などに足を伸ばせば、ぶどうの木をたくさん見ることができます。

冬の間、葉っぱもなく、寒々とした中で、幹だけが残されているような状態でした。それが春になり、一気にぶどうの木は元気になります。枝が伸び、葉っぱが青々と茂る。やがては実をつけ、どんどんと大きくなる。幹を通してたくさんの栄養を実は得ているのです。

主イエスが歩まれたパレスチナの地でも、ぶどうはかなり馴染のある木でした。みんながよく知っているぶどうの木を、譬え話として主イエスが用いた。今日、私たちに与えられた聖書箇所のことを、そのように考えることもできるかもしれません。しかし、これは単なる譬え話では終わらないところがあります。主イエスに「つながる」とはどういうことなのか。「実を結ぶ」とはどういうことなのか。私たちの信仰生活に直結をしていることなのです。

一節のところで、「わたしはまことのぶどうの木」と主イエスは語られます。ここでは主イエスは単なるぶどうの木ではなく、「まことの」ぶどうの木と言われています。「まことの」とは、真実、真理ということです。普通のぶどうの木ではないのです。なぜわざわざそのように言われているか。それは、まことではないぶどうの木がたくさんあるからです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第五章です。ここにも、ぶどうの木の譬えがあります。旧約聖書の何箇所かに、このようなぶどうの木の譬えがある。イザヤ書第五章もその一つです。

一節から二節のところを見ますと、「ぶどう畑の愛の歌」というものがあるようです。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。」(イザヤ書五・一~二)。

ところが、この愛の歌が、二節の終わりのところから一変します。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」(五・二)。「酸っぱいぶどう」とあります。かつての口語訳聖書では「野ぶどう」となっていました。神が手入れをしてくださったにもかかわらず、まったく手入れされていないような「野ぶどう」が出来上がってしまったと言うのです。

このイザヤ書第五章の譬えは、何を語っているのでしょうか。七節を読みますと、ユダの人々、つまりイスラエルの人たちがぶどうの木に譬えられていることが分かります。神の民であるイスラエルの人たちが、豊かな実を結ぶことができなかった。そのことに対する裁きが語られている。それがイザヤ書のこの箇所に書かれていることです。

イスラエルの人たちがかつて実を結ぶことができずに、神から叱られてしまった。それだけの話なのでしょうか。私たちはどう受けとめればよいでしょうか。そのことが問われていますし、イザヤ書の箇所だけでなく、主イエスがお語りになったぶどうの木の話と合わせて、考えなければならないと思います。

主イエスが「まことのぶどうの木」(一節)であると言われています。それだけではなく、直後に「わたしの父は農夫である」と言われます。まことの木が単に存在しているだけではなく、その木がまことの木であるのは、父なる神が農夫として管理をしてくださるからだ。そのことがセットになっているのです。

その上で、二節です。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(二節)。

多くの聖書学者や説教者が指摘していることですが、二節の言葉と五節の言葉は、少し矛盾しているのではないか、と言われることがあります。五節はこうです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(五節)。

五節では、主イエスのぶどうの木につながってさえいれば、もう自動的に実を結ぶ、そう言われています。ところが二節では、主イエスのぶどうの木につながっていながら、実を結ばない枝がある。そう読むことができるのです。

この矛盾のようなことを、どう考えればよいでしょうか。そもそも「つながる」とはどういうことでしょうか。ぶどうの木に枝がつながっているわけです。ぶどうの木を実際に見ますと、幹が細い場合もありますが、幹は何十年もすれば、太くなっていくようです。しかし枝はとても細く、頼りない感じがします。重い果実をよく支えていることができると思うほどです。

主イエスにつながるとは、まるですぐに折れてしまう、そんなつながり方なのか。まるですぐに切れてしまうような糸でつながっているようなものなのか。しかしそうではありません。「つながる」という言葉は、ヨハネによる福音書の中で重要な言葉の一つです。

この第一五章では、ぶどうの木の譬えで語られていますので、「つながる」と訳されていますが、他の箇所では「とどまる」「内にいる」と訳されていることです。決してはかないつながり方ではないのです。むしろ、その人の内にすっぽりと入ってしまうような、絶対に切り離せないような、そういうつながり方をしているのです。

つまり、二節にあるように、確かに私たちは実を結ぶことができない、そういう枝であることは事実でしょう。それはイザヤ書第五章が語っている通りです。しかし主イエスにしっかりとつながっている、とどまっているならば、五節にあるように、必ず実を結ぶことができるようにしていただける。そのように主イエスは言われているのです。

ではどうすれば、主イエスのぶどうの木としっかりつながる枝になることができるのか。三節の主イエスの言葉が鍵になります。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(三節)。

先ほど聖書朗読をいたしました。その朗読をお聴きになられて、この三節の言葉がどのように響いてきたでしょうか。主イエスはぶどうの木の話をされています。その話の中で、突如、この三節の言葉を言われたのです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」(三節)。

実は三節で使われている「清くなっている」という言葉と、二節で使われている「手入れをなさる」という言葉は、元のギリシア語では同じ言葉なのです。ぶどうの木の手入れをすることと、主イエスの話す言葉によって清くなることとは、同じことを言っているのです。

もうすでに召された方ですが、かつての教会員で、ご自分の家に小さなぶどう畑を持っている方がありました。教会の子どもたちを招いてくださり、ぶどう狩りをさせてくださいました。ご本人たちはそんなことは言われませんでしたが、おそらくそのご夫妻で、かなり手入れをして、きちんとぶどうを実らせて、教会の子どもたちを招待してくださったのだと思います。そのように手入れをする。神の手入れの名さり方は、主イエス・キリストの言葉を聴かせてくださるという手入れの仕方です。

すでに御言葉を聴いた箇所ですが、第一三章に洗足の出来事があります。主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった話です。第一三章一〇節にこうあります。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」(一三・一〇)。足を洗ってくださる清さは、罪を赦される清さのことです。実を結ぶために、清くなるためにはどうしたらよいか。私たちはいろいろなことを、あれこれと考えてしまいます。しかし主イエスが言われている清さとは、私たちが考えるような清さとは違うところがあります。

「わたしの話した言葉によって」(三節)と主イエスは言われます。私たちが何かを自分で行う、それによって清さが得られるのではありません。そうではなく、まずは聴くことです。神の言葉を聴くことです。そこから清さが生まれ、実りが生まれてくるのです。

先週の日曜日の午後、同じ南信分区の教会で就任式が行われました。新たな牧師を迎えた教会の牧師就任式です。毎年のようにこの時期、牧師就任式が各地で行われています。私はいつもですと、ある意味、気楽に出かけていくようなところがありますが、今年はそういうわけにはいきません。教区での務めがあり、就任式の司式をすることになったからです。

牧師就任式では、牧師と教会員の両者が誓約をします。神の御前に、私たちが誓約をする、約束をする場面は、それほど多いわけではありません。私たちが洗礼を受けるとき、信仰告白をするとき、転入会をするとき、長老として任職されるとき、結婚をするとき、そのようなときなどには、神の御前に立ち、神に対して誓約をします。誓約を軽んじて考えるわけにはいきません。誓約を重んじるからこそ、どんなときでも、どのようなことでも、気軽に誓約をするわけではないのです。

牧師就任式の時というのは、教会に牧師が与えられた時です。牧師には、この教会で牧者としての務めを誠実に担うかという誓約を求めます。教会員には、自分たちの羊飼いとしてこの牧師を受け入れるかという誓約を求めます。具体的には、牧師に対する誓約の言葉は、こういう言葉です。その一部をご紹介します。「あなたは、主の賜う恵みによって、御言葉の奉仕者としてふさわしい言行をなし…」。教会員に対する誓約の言葉の一部もご紹介します。「元来、牧師の任務は教え、勧め、導き、また戒めることであります。それゆえに、あなたがたは牧師の説く真理に、謙遜と善意とをもって聞き従うことを約束しますか」。

お気づきになられたように、両方とも、御言葉に対する誓約です。両者が神の言葉に対して誠実であることを誓約するのです。牧師はいつも神の言葉を取り継ぐ。教会員は牧師を通して語られる言葉を神の言葉として受けとめる。双方とも責任重大です。しかしそのようにして、主イエスの言葉がいつも教会に響き渡るようになるのです。その言葉をしっかりと聴き取る。主イエスもそのことを三節で言われているのです。そこに清さが生まれる。手入れが生まれる。そして実りが生まれるのです。

このようにキリストの教会には、いつも御言葉が響き渡っています。その教会に生かされている者に、実りが生じるのです。キリストの教会は二千年にわたり、この主イエスが語られたぶどうの木の話を大事にしてきました。いつか実を結ぶことができるだろう、そういう話として聴いてきたのではありません。そうではなく、いつでも教会に生きる私たちが実りを手にしている。既に手にしている。そういう話として聴き続けてきたのです。

週報に記されていますが、先週の木曜日、教会員が逝去されました。一昨日の金曜日の夕方に前夜式を行い、昨日の土曜日に葬儀・火葬を行いました。一連の葬りのときを私たちは過ごしてきたわけですが、召された方がどのような歩みをされてきたのか、そのことを振り返る時でもありました。その歩みは、はっきりとこう言うことができますが、教会に結ばれた歩みです。

この方が洗礼を受けられたのは、お若い時、学生の時のことです。病気がちの母に代わって教会に行き、教会で語られた聖書の話を母に伝える。そのことから信仰の歩みが始まり、洗礼を受けられました。その後、教会を離れる時期もありましたが、今度は妻の受洗をきっかけに、教会に戻るようになった。

その後も家族に励まされることもあり、ずいぶんとお仕事で転々とされましたが、行く先々の教会で、教会生活を続けて来られた方です。自らが実りを実らせたわけではありません。自らが自らを清めたわけではありません。そうではなく、いろいろな方に支えられて、教会に連なった。ただそれだけかもしれませんが、そこで主イエス・キリストの言葉を聴き続けた。その言葉によって、実りに与ったのです。

私たちにとっても、神の言葉が何よりも大事です。この言葉が私たちを生かすからです。教会に響き渡っている言葉は、罪の赦しの宣言です。私たちの罪のために、主イエス・キリストが十字架にお架かりになってくださり、罪を赦してくださった。その赦しの言葉を聴くことができます。私たちを慰める、慰めの言葉を聴くことができます。私たちを励ます、励ましの言葉を聴くことができます。私たちがどのように生きたらよいのか、迷った時にも生きる道しるべを聴くことができます。

この言葉を聴いて生きる中に、私たちは清められます。自分の力で清くなる、そのことを信じるのではなく、主イエスの言葉に私たちを清める力があることを信じるのです。主イエスの言葉を聴く清さの中に、多くの実りが生じていくのです。この世の中で成功するための実りではありません。信仰の実りです。神を信じて歩む、教会生活を送る、祈りを献げる、讃美を献げる。その実りを、神が喜んでくださいます。私たちは主イエスのぶどうの木につながる枝。父なる神が手入れをしてくださるのです。