松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年5月15日(日)
説教題「キリストの言葉を悟るために」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第14章25〜31節

「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

旧約聖書: コヘレトの言葉1:12~18

本日はペンテコステの礼拝を献げています。ペンテコステのことを日本で言いますと、今日は聖霊降臨日という日になります。ペンテコステという外国語の言葉の意味は「五十番目の」という意味になりますが、主イエスの十字架が起こった過越祭から五十日を数えます。このときすでに主イエスは天に上げられて、弟子たちの前からは姿を見えなくされていました。しかしこの日、聖霊が注がれたのです。

松本東教会では、最近、ヨハネによる福音書から連続して御言葉を聴いています。今年の夏で二年になろうとしています。少しずつ聖書箇所を区切りながらですから、その区切りに従い、今日の日に、このヨハネによる福音書の聖書箇所が与えられたということになります。しかし偶然のようで、まさに神の導きでありますが、ペンテコステの今日の日に、ふさわしい聖書箇所が与えられたと思っています。「聖霊」のことが直接触れられている内容が、今日の聖書箇所に出てくるからです。

ここしばらく、聖霊にかかわる内容が聖書箇所に出てきましたので、聖霊について語ってきました。聖霊というと、どのような思いを抱かれるでしょうか。聖霊は、教会によって、時代によって、地域によって、だいぶ温度差があると言ってもよいかもしれません。あまり重視されないということもありました。

例えばある時代に、特に学問の世界で、聖霊がほとんど重視されないことがありました。聖霊などというものは、あまり学問的ではないという形で、脇に置かれてしまうこともあったのです。その反対に、聖霊を強調しすぎるような傾向もあると思います。あなたは聖霊を受けていない、私が聖霊を受けさせてあげよう、極端な例かもしれませんが、牧師がまるで聖霊を操れるかのように考えられてしまうこともあります。

聖霊とは何でしょうか。聖霊を受けるとどうなるのでしょうか。私が聖霊を受けているのかどうなのか。あの人が聖霊を受けているのかどうなのか。簡単に判定をすることはできないかもしれません。

しかし、聖書からはっきり言えることがあります。使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の中で、パウロはこういう言葉を書きました。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Ⅰコリント一二・三)。主イエスが主である、主イエスを私は信じている、そういう思いがあり、そういう言葉が口から出ているならば、その人は聖霊を受けている、パウロはそういうのです。主イエスを信じている、その人ははっきりと聖霊を受けていると断言できます。

もう一つ、聖霊を受けているとはっきり言える、根拠となる聖書の箇所が、今日の二六節の主イエスのお言葉です。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(二六節)。聖書を読んで分かった、説教を聞いてその通りだと思わせられた、それは聖霊の導きによることです。自分の力や頭で分かったのではない。そうではなく、それは聖霊を受けている立派な証拠です。

聖霊を考える際に、これらの聖書箇所を軸にして考えることは、とても重要なことです。そうでないと、聖霊を受けるということが、何か不思議な体験をしたり、奇跡のような出来事を経験することだけになってしまいます。もちろん、それも聖霊を受けたことかもしれません。しかし私たちが、この出来事は聖霊を受けている、あの人は聖霊を受けたのだ、そういう判定をすることができるでしょうか。できないと思います。分からないのです。

カトリック教会の話になりますが、カトリック教会では、この出来事は奇跡だとか、あの人が聖人だとか、そういう判定を教会としてすることがあります。時々、ニュースなどで、カトリック教会によって歴史上の人物が聖人になったというニュースを聞くことがあります。聖人になる人というのは、たいていずいぶん昔の人です。なぜそんなに時間がかかるのでしょうか。いろいろな理由があるでしょうが、一つの理由が、かなり念入りに調査をするからです。聖人の判定をするために、膨大な資料を作成します。何十年もかけて、ときには百年単位で資料を作っていくのです。

星野博美さんという方が、『みんな彗星を見ていた、私的キリシタン探訪記』という本を書いています。この人はキリスト者ではありませんが、信仰的な視点も含め、特に長崎でのキリシタン殉教のときのことをいろいろと調べ、私たちに教えてくれています。実際に長崎の地を自らの足で歩き、日本において起こった殉教のことをこの本の中で書いています。

一五四九年のフランシスコ・ザビエル以来、多くの宣教師たちが来日し、伝道をしていきました。実際に多くの実りがありました。多くの日本人キリシタンが生まれたのです。しかし迫害の時代を迎え、多くの日本人キリシタンが命を落としました。その時、宣教師たちは何をしていたのでしょうか。もちろん、迫害と戦いました。宣教師たちの中にも、命を落とした人はたくさんいます。しかしそのような中で、宣教師たちが一生懸命したことは、せっせと手紙を書いて本国に送るということです。星野博美さんはこう書いています。

「彼ら〔宣教師たち〕は日本の信徒がこれまでどんな人生を送り、どのような状況で殉教したかを記録し、国外へ報告することに命を尽くした。私は当初、彼らがなぜそこまで「書く」ことにこだわるのか理解できなかったが、列聖調査のシステムを知ったいまはその意味がわかる。彼らの書き残したものが、殉教者の列福・列聖の最重要資料となるからだ。殉教を記録することは宣教師にとって、自分たちが布教した結果、刑台に消えていった信徒への、最後の奉仕なのである。その宣教師が処刑されれば、別の宣教師がそれを受け継ぎ、彼らの生きざま、死にざまを伝えてゆく」(二五八頁)。

歴史学の分野では、その時代の生の史料を一次史料と言います。その後の時代に、あの出来事はどうだったという形で振り返って分析して書かれた史料は二次史料です。当然、二次史料に比べて、一次史料の方が価値が高い場合が多いのですが、宣教師たちの書いた手紙は、超重要な一次史料です。命をもってキリストを証しした人たちのことを、文字通り命を懸けて一生懸命、宣教師たち伝えたのです。

それらの史料をもとにして、カトリック教会では膨大な調査がなされていきます。この人を聖人にしてよいのか。あるいは、この出来事を奇跡として認定してよいのか。私たちプロテスタント教会はそんな判定はできないという立場ですが、しかしカトリック教会のこのような営みを馬鹿にすることはできないと思います。

これと同じように、聖霊が働いているかどうか、私たちには判定できないことも多いわけですが、しかし聖書の記述に基づき、はっきりと断言できることもあるのです。それが、今日の聖書箇所の二六節です。聖書を読んで分かった。説教を聞いて理解できた。それはもう、立派に聖霊が働いている何よりの事実になるのです。

そうは言っても、聖書を読んでいて分からないことが私たちにはたくさんあります。説教を聞いていてもピンと来ないことがあります。本日、私たちに与えられた聖書箇所はどうでしょうか。よく分からないとお感じになられた方も多いと思います。それならば、なおさら聖霊の導きが必要です。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、コヘレトの言葉の最初のところです。今週から祈りの会で、毎週少しずつ区切りながら、コヘレトの言葉を読んでいきます。「コヘレト」なる人が出てきます。この人がいろいろなことをするわけですが、すべてがむなしいと言っていきます。今日の聖書箇所では、知恵を求める。誰もよりも深い知恵を得るわけですが、結局はそれもむなしかったというのが結論です。この知恵・知識というのは、この世の知恵・知識です。それらでは何の解決にもならなかった、すべてはむなしいと言うのです。

聖書を読む私たちが、聖書を読んで分からないと、何か特別な勉強をしたり、参考書を手に入れないといけないのではないかと思ってしまいます。確かにそれは、ある程度は助けになるかもしれません。しかしだからと言って、それによって聖書が魔法のように分かるようになったり、まして信じることができるようになったり、信仰深くなるというわけではありません。

今日の聖書箇所に記されている言葉を、最初に弟子たちが聞いたとき、まるで分からなかったと思います。二六節で、聖霊の話を主イエスはなさいます。二七節では、平和のことを言われています。二八節では、主イエスは去って行くが、父なる神のもとに行かれることを、あなたがたは喜んでくれるはずだと言われます。二九節では、十字架の出来事が起こる前に、このことを話しているのだと言われます。

三〇節では、世の支配者が来ると言われます。誰のことでしょうか。主イエスを裏切るユダがこの後やって来ます。しかしユダは世の支配者とは言えないと思います。ユダをそそのかしたサタンでしょうか。あるいは、主イエスの十字架の直前、主イエスは大祭司カイアファと地方総督ピラトに相次いで面会します。しかし世の支配者は、主イエスを支配することはできなかった。三一節では、主イエスが父なる神を愛し、父の命じられた通りに行っていることを、世は知るべきだと言われます。

そして「さあ、立て。ここから出かけよう。」(三一節)と最後に言われます。弟子たちにとって、何が何だか分からないままに、立って出かけなければならなかったことだと思います。

弟子たちも、もちろん何か重大なことが起ころうとしていることは分かっていました。主イエスがいなくなる。殺されようとしている。そのことは肌で感じていました。そんな弟子たちのために、主イエスが聖霊を与えてくださると言われる。実際に、ペンテコステの日以来、教会は主イエスが地上におられない中で、歩んできました。二七節以下で言われている弟子たちが分からなかったこと、それらのことは、聖霊が与えられた後に実った聖霊の実りなのです。弟子たちも後になって、聖霊を受けてこれらのことが分かるようになりました。

二七節以下の内容を、一つ一つ丁寧にお話する時間はありませんが、二七節で言われている「平和」について、取り上げておきたいと思います。「平和」とは何でしょうか。

言葉というのは、とても難しいところがあります。「平和」という言葉、かつての口語訳聖書では「平安」と訳されていましたし、新共同訳聖書の中にも、「平安」という言葉が使われていないわけではありません。「平和」と「平安」、それぞれが持っているイメージも違うと思います。しかも同じ「平和」という言葉でも、この人が思っている「平和」と、あの人が思っている「平和」では違う意味かもしれません。

それではどうすればよいか。聖書の中で「平和」という言葉が使われている箇所をたくさん読み、ニュアンスを掴むのです。聖書全体で「平和」が使われている箇所を挙げればきりがありませんが、ヨハネによる福音書の中だけだったら限られた回数しか出てきません。意外に思われるかもしれませんが、実はヨハネによる福音書の中で「平和」が出てくるのは、今日の聖書箇所が初めてです。

二回目は第一六章三三節です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(一六・三三)。三回目から五回目は、すべて第二〇章の同じ個所に集中して出てきます。すべて「あなたがたに平和があるように」と主イエスが語られます。主イエスを見捨てて逃げてしまい、主イエスが十字架で殺され、おびえている状況で、主イエスがこう言ってくださるのです。

これらのヨハネによる福音書の五つの箇所から、まず気が付くことは、「平和」の反対語として、おびえる、恐れる、心を騒がせるという言葉が使われていることです。そしてどの聖書箇所でも、主イエスとの関係が切れそうになったり、実際に切れてしまったりしている、そういう箇所であるということです。つまり、主イエスとの関係が固く結ばれ、それによっておびえや恐れや心が騒ぐことから解放されている。それが「平和」、「平安」ということの意味になります。

改めて二七節ですが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と主イエスは言われます。平和は平和でも、「わたしの」平和と言われています。普通の平和ではなく「わたしの」平和。そのことが言い換えられて「世が与えるように与えるのではない」と言われています。主イエス以外によっては決して得ることができない平和です。その平和を聖霊の実りとして与えてくださるのです。

さて、ここから先が、私たちの問われることになります。弟子たちは主イエスとの関係が切れそうになったり、切れてしまったりして、実際におびえ、心を騒がせてしまったわけですが、主イエスとの関係を回復することができました。私たちはどうでしょうか。主イエスとの関係がいつも固く結ばれ、平和があるでしょうか。関係が切れそうになったり、切れたりして、不安になっていないでしょうか。

「困ったときの神頼み」という言葉があります。教会に来ている私たちは、この言葉を少し否定的に使っているところもあるかもしれませんが、しかし私はそんなに悪くないと思います。困難に陥ったときに、神に依り頼む、それは当然のことです。困難が解決すれば、もちろん神に感謝することも当然ですが。

しかし「困ったときの神頼み」よりももっと深刻なのは、「困ったときの神離れ」です。何か困難があると、それをすぐに神のせいにしてしまう。あるいは、教会の牧師や教会の人たちのせいにしてしまう。自分がこんなに困っているのに、誰も何もしてくれない、そのようにして困ったら神から離れてしまう。信仰を捨ててしまう。これは本当に悲しいことです。そういう時にこそ、主イエスとの関係をしっかりと考えなければならないと思います。

主イエスとの関係をしっかり結ぶにはどうすればよいでしょうか。例えばこういうことが言えると思います。私は神学書を読みます。神学者が書いたものですから、時にはかなり難しい内容がそこには記されています。ここを読んでも分からない、そこを読んでも分からない、それどころかほとんどが分からない場合もあります。

しかし根気よく続けて取り組んでいると、ある一か所が分かってくる時がやって来ます。そうすると不思議なことに、今まで分からなかったこっちもあっちも、紐がほどけたように一気に分かってきます。そうすると、今まではずいぶん遠くにいた神学者が、身近な存在になってくるのです。

皆さまもかつてはそんな体験をしたかもしれません。聖書を読み、最初は分からなかったと思います。イエスという人のことが書かれている、それは分かる。けれどもずいぶん主イエスが遠くにおられたと思います。それがだんだんと近くなる。主イエスの話したことが分かる、主イエスの教えが分かるようになる。相手の言葉が分かると、存在も身近になってきます。どれほど主イエスが私たちに心を注ぎ、愛してくださるか。それが分かるようになる。聖霊を受けるとはそういうことです。それが主イエスとの関係をしっかり結ぶことになるのです。

二八節以下のところは、詳細に触れる時間はありませんが、最後の三一節の終わりの言葉を味わいたいと思います。「さあ、立て。ここから出かけよう。」(三一節)。来週から第一五章に入ります。三一節から第一五章の初めにかけて続けて読みますと、「さあ、立て。ここから出かけよう。わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である…」となります。明らかに繋がりが悪いと言えるかもしれません。

「さあ、立て。ここから出かけよう」という言葉は、他の福音書でも似たような言葉が記されています。主イエスがそのように言われ、主イエスを裏切ったユダがやって来る。主イエスが捕えられるのです。ヨハネによる福音書では、その場面は第一八章です。「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。」(一八・一)。第一四章の終わりと、第一八章の初めをくっつけた方がよいのではないか。聖書学者によっては、もともとの話の素材としては、くっついていたのではないかと考える人が多くいるのです。

しかし問題は、なぜここに「さあ、立て。ここから出かけよう」などという言葉があるかということです。本当に繋がりが悪い言葉なのでしょうか。ある聖書学者は言います。第一五章から第一七章まで、ほとんどが主イエスの会話です。少し場所を変えて話したからではないか、と。別の聖書学者は、この言葉が弟子たちだけではなく、すべてのキリスト者に向けられた言葉であると考えています。物理的に「立つ」のではなく、精神的あるいは霊的に「立つ」。特にここでの「立つ」という言葉は、復活の意味を含めることもできます。違う自分として新たに「立つ」のだ。その聖書学者はそう考えます。

私たちもその聖書学者のように考えたいと思います。「ここから出かけよう」というのは、丁寧に訳せば「私たちはここから出かけよう」ということです。主イエスもそこに含まれています。主イエスがおられない中で出かけるのではなく、主イエスと共に、出かけることができます。聖霊を受けるとはそういうことなのです。いつも主イエスと共に歩むことができるのです。