松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年5月8日(日)
説教題「あなたの交わりに愛がありますか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第14章21〜24節

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

旧約聖書: ホセア書11:1~9

ずっと昔の話ですが、あるアンケートの結果を、私は今でもよく覚えています。あなたの人生に必要なものは何ですか、というかなり漠然とした質問をしているアンケートです。そのアンケート結果はこうでした。一位は愛、二位はお金、三位は友情でした。四位以下もあったはずですが、忘れてしまいました。

何でもないアンケートだったと言えるかもしれません。私が小学校高学年か中学生だったときに、雑誌か何かで見たアンケート結果です。一位が愛であった。当時から私は教会に行っていました。聖書の愛の話を聴いていました。教会の人たちが愛を求めているのは分かる。しかし教会の外の人たちも、愛を求めているのか。そういう強い印象を受けたので、今でもよく覚えているのです。

私たちの人生で必要なもの、つまり生きていく上で必要なものということになりますが、本当に必要なものは、例えば食べ物とか水とか、あるいは空気と答えてもいいかもしれません。いわゆる衣食住が必要である、まずはそう言えるでしょう。しかしこれらはベストスリーには入っていません。おそらくアンケートに答える人たちにとって、これらのものはもうすでに得られている。前提として存在している。だからあえて答える必要はないと多くの人たちが判断したのだと思います。

その上で、人生に必要なものが、愛であり、お金であり、友情であると答えた。今、このアンケートを振り返ってみると、こういうことが言えると思います。本当は欲しいのだけれども、なかなか得ることが得られない。少しは得られているのだけれども、十分に得られてはいない。お金も、まったく持っていないというわけではない。けれども十分には得られていない。友情も、友達がまったくいないわけではない。けれども真の友がなかなか得られない。多くの人がそう思っているのだと思います。

そして愛もそうです。愛することを知っている。愛されることを知っている。けれどもその愛に満たされているというわけではない。いつもどこか不足を感じている。その思いが、このアンケートに表れているのだと思います。教会の人たちも、完全な愛をすでに持っているというわけではありません。いつでも愛に満たされているわけでも、自分が完全な愛に生きているわけでもありません。誰もが愛への憧れを抱いているのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、愛という言葉が多く使われています。ヨハネによる福音書第一四章二一~二四節を先ほど朗読いたしました。先週の聖書箇所はこのひとつ前のところ、一五~二〇節でありました。

先週と今週でなぜこのように聖書箇所を分割したのか。一五~二四節までは段落が分けられていません。一つの段落です。一回の説教で一五~二四節の全体を説教している説教者もいますが、それでは盛りだくさんになってしまう、私はそう考えました。ならばどこかで分割しなければならないわけですが、どこで分割するか。一九節までで分割している説教者もいます。あるいは二一節までで分割する説教者もいます。私もそのようにすれば、主イエスのお言葉を途中で区切らずに済んだのかもしれません。

しかし私が二〇節までで一区切りにし、二一節から今日の説教を始めるのには、はっきりとした理由があります。それは、愛という言葉をキーワードに区切っているのです。先週の聖書箇所の一五節に、愛という言葉が使われていましたが、その後しばらく使われず、そして今日の聖書箇所の最初の二一節から、再び愛という言葉がたくさん出てくるようになります。今日の聖書箇所のキーワードが愛なのです。

今日の聖書箇所の最初の二一節にこうあります。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」(二一節)。掟という言葉が出てきました。この言葉は一五節にも使われています。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(一四・一五)。愛の掟、愛の戒めです。

それではこの掟とは具体的にはどういうことなのか。第一三章三四節にこうあります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(一三・三四)。これが主イエスの言われる愛の掟です。

主イエスは単にこの掟を言葉だけ言われたのではありません。第一三章の最初のところに、洗足の出来事が記されています。主イエスが屈んで、弟子たちの足を洗ってくださったという出来事です。ある説教が今日の箇所の説教で、このように言っています。主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった、その主イエスの手の感触がまだ足に残っていたのではないか。

主イエスがまずそのように足を洗ってくださった。私たちを愛してくださった。その愛の掟に私たちがどう生きるのかが問われています。私たちの間に愛の交わりをどのように作るのか。それが今日の聖書箇所で私たちに伝えていることです。

二一節のところで、主イエスはこう言われています。先ほどの続きです。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(二一節)。

「わたしを愛する者(人)」となっています。主イエスを愛する人です。私たちが主イエスを愛するのです。信仰を持ちたいと願って教会へやって来ると、そこで神の愛を知ります。神が私を愛してくださること、主イエスが私を愛してくださることを知ります。私が愛されていることをまず知るのです。そして次に、私が愛することを知る。私が主イエスを愛する、隣人を愛すること知るのです。

最近の教会は、どうも愛することよりも、愛されることを強調する傾向が強いようです。今の時代は、個人がなかなか自信を持つことが難しい時代なのかもしれません。自分を肯定してくれるような、あなたは愛されているという方に、教会も偏りやすいと、もしかしたら言えるのかもしれません。

昔ほど、主イエスを私たちが愛するのだということを強調しなくなった、そう言っている人もいます。戦後、日本の教会は急速に成長しました。「キリスト教ブームだった」などという声を聞くこともあります。確かにそうかもしれませんが、主イエスをいかに愛するか、真剣にそのように問う人たちが多くいました。いかに日本を立て直すか、そのために自分が何をすべきなのか。言い換えれば、主イエスをいかに自分が愛して生きていくのかということを、真剣に問うたのでしょう。

二週間ほど前になりますが、神学校を後援する後援会の全国委員会というものが行われ、東京まで出かけてきました。全国から集まった委員たちが、神学校の状況を知り、それを各地に持ち帰って伝え、そしてますます後援するための全国委員会です。私は長野地区の代表として出かけてきました。

まず冒頭のところで、学長が挨拶をされます。挨拶といっても、普通の挨拶をするだけではなく、神学校の様子を話したり、卒業生や入学生の人数を話したり、財政のことや長期的な課題にまで話が及びます。その挨拶の最初のところで、特に強調して話されていたのが、財政のことや長期的な課題のことではなく、献身者が新たに起こされるようにという訴えでした。

今の神学校の学生は、多様化しています。私が在学していたときからその傾向はありましたが、今はもっとそれが強まったと言えるでしょう。牧師・伝道者を志し、神学校にやって来るのは若者だけではありません。昔はほとんどがそうでしたが、今は違います。仕事を途中で辞めたり、定年退職をした後に入学してくる学生もいます。家庭を支える主婦の方もいます。特に学長も訴えておられましたが、主婦の学生も複数おられ、卒業しても家庭の事情があるために、遠くに赴任することができない方も多いようです。

いろいろな方が神学校で志をもって学んでいます。以前の説教で申し上げたことでもありますが、キリスト者であるならば、一度は自分が牧師・伝道者に召されていないか、そのことを自らに問う必要があります。いろいろな整わない条件はあるでしょう。しかしそのような整わない事情を抱えながらも、学んでいる学生もあります。

牧師・伝道者になる。それは主イエスの愛に応える、一つの応え方です。もちろん、それだけが唯一の応え方ではありません。それぞれに応え方があるでしょう。たとえどのような応え方であろうと、私たちはいかに主イエスを愛するか、愛されているかだけではなく、愛するか。そのことを真剣に問うのです。

愛というのは、相互の間で成り立ちます。当たり前のことと言えるかもしれません。誰かから愛が出て、その愛が別の誰かに行くわけです。自己愛があるではないか、と思われる方もあるかもしれません。その場合でも、自分から愛が出て、その愛が自分に返ってくると思えばよいでしょう。

主イエスも言われます。改めて二一節です。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(二一節)。私たちが主イエスを愛するだけではなく、父なる神も、そして主イエスも私たちを愛してくださいます。相互での愛が成り立っているのです。

先週の説教で、三位一体の話を少ししました。初代教会にアウグスティヌスという人がいました。この人は四世紀から五世紀にかけて生きた人で、カトリック教会では教会博士の一人と言われています。教会の土台となるような重要な考え方を築いた人です。このアウグスティヌスが『三位一体論』という本を書きました。初代の時代の中で、量・質ともに最も優れていると言われている本です。三位一体について、いろいろなことがいろいろな形で論じられていますが、愛の交わりの中での三位一体が論じられている箇所があります。

キリスト教会では、神のことを父・子・聖霊の三位一体の神であると信じています。創世記の最初の箇所によれば、人間は「神の像」として造られました。つまり人間にもどこか神の痕跡が少なくともあるということになります。アウグスティヌスは『三位一体論』の後半で、人間の中にも不完全ながら、三位一体の性質があるのではないかということを、いろいろな形で考察していくのです。

その一つの例として、愛の交わりが考えられています。愛する者がいます。愛される者がいます。そして愛そのものがあります。三つのものがそれぞれバラバラに存在するわけではありません。そうではなくて、三つが三つでありながらも、一つの愛がそこには成り立っています。特に聖霊のことを、愛そのものであると考えます。聖霊が「愛の絆」であるという表現も使われることがあります。

もちろん、アウグスティヌス自身も、これで三位一体を完全に説明することは不可能と考えていました。三位一体のわずかばかりのところを映し出しているにすぎません。だから、アウグスティヌスは『三位一体論』を閉じるにあたり、最後は祈りをもって閉じました。「わたしの神、主よ、あなたを求める力を与え給え。わたしの力と無力、知識と無知はすべてあなたによっています。門戸を開いて下さい。あなたを愛する愛を増し加えて下さい。一つにして三なる神よ、わたしをあなたの許に止まらせて下さい。アーメン」(宮谷宣史『アウグスティヌスの神学』、二一一頁)。

三位一体を愛の交わり、愛の絆によって論じてわけですが、そのアウグスティヌス自身が、愛を与えてくださいという祈りをしているわけです。あなたの許に留まらせてくださいと祈らざるを得ないのです。私たちにとっても、この交わりに入れていただくことが、何よりも重要なことになるのです。

今日の聖書箇所の二二節に進むと、弟子の中から主イエスに質問が出ています。「イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。」(二二節)。

世という言葉は、先週の聖書箇所にも二箇所、出てきました。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(一七節)。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(一九節)。

主イエスの弟子と世との間には違いがあると、主イエスは言われます。どこに違いがあるのか。二三節以下が主イエスの応えです。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(二三~二四節)。主イエスの答えを読む限りでは、まともに主イエスが答えて下さっていないかのような印象を受けます。

しかし愛という言葉で、これ以上のない答えをされているのです。結局、大事なのは、そこに愛があるのかということです。愛の絆が成り立っているか。愛の交わりの中に入っているかということです。

先週の聖書箇所では、愛という言葉が少なかったと先ほど申し上げました。今日の聖書箇所の二一節以下には、たくさん愛という言葉が使われています。これ以降の聖書箇所でも、やはり愛という言葉がところどころ出てきます。繰り返し出てきます。第一五章に入り、主イエスが「ぶどうの木」の話をされながらも、愛を語られます。「わたしの愛にとどまりなさい」(一五・九)。「ぶどうの木」流に言えば、「わたしの愛につながっていなさい」です。

そして愛の頂点へと向かいます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(一五・一三)。最も大いなる愛とは何か。これが最も大いなる愛だと主イエスは言われるのです。そして主イエスがこの愛を示してくださいます。それが十字架での主イエスの死です。

愛は目に見えないものです。聖書でもはっきりとそう言っています。抽象的なものと言えるかもしれません。しかし目に見えないはずの愛を、目に見える形で現すことがあります。結婚式で、指輪の交換をすることがあります。これも、見えないはずの男女の愛を目に見える形で現していることの一つです。お互いの愛を確かめ合うのです。何らかのプレゼントを贈るというのもそうです。単に形だけではなく、心を込めて、目に見えるプレゼントを贈ります。相手のために何かをする、食事を作ってあげるというのもそうです。愛の心を込めて、見えるものを提供するのです。

聖書には神の愛が書かれています。その神の愛が、いろいろなところに現れされています。しかし何よりも、聖書が伝えているのは、主イエスの十字架に神の愛が現れたということです。罪人の私たちの罪を代わりに背負い、私たちの罪が赦されるために、主イエスが十字架にお架かりになってくださいました。痛みや苦しみのすべてを主イエスが負ってくださったのです。私たちが罪から救われるために。その愛を信じるか、そのことが問いかけられています。そのことを信じて、私を愛するか、主イエスからそのように問われています。

主イエスからの愛を受ける、そのためには愛の絆である聖霊も私たちに与えられています。聖霊によって、主イエスの愛が分かるようになった。そして主イエスを愛するために、この愛の交わりの中に私たちも入れられるのです。どこに愛があるのか、この世には不十分な愛しかない、アンケートに答えるように、そのように思う必要はありません。主イエスの十字架、ここに愛がある。この愛を受け、主イエスを愛する、隣人を愛する。愛の交わりの中に、私たちも生きることができるのです。