松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年5月1日(日)
説教題「私たちの助け主」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第14章15〜20節

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」

旧約聖書: ダニエル書6:1~29

三位一体。神がどのようなお方なのかを言い表す言葉です。三つの位、少し難しい言葉で言えば、三つの位格ですが、それらが一つ、一体であるということです。二千年前に教会の歩みが始まり、最初からあった言葉というわけではないかもしれません。百年や百五十年くらいかけて、ようやく出てくるようになった言葉です。そして神が三位一体である、そのような教理が確立するまでに、三百年以上も要した。そんな言葉です。

「正統的な教会」は三位一体の神を信じています。「正統」という言葉は、正しい系統とか、正しい伝統という意味ですが、少し注意して使わなければなりません。「正統」の反対は、教会の歴史においては「異端」という言葉になります。「私たちが正統だ」と言ったときには、その背後に「異端」という存在があることになります。世の中には、教会と似て非なる団体があるものです。似て非なるということをどのように区別するか。どのように見分けるか。それが三位一体とかかわってきます。何が正統で何がそうでないのか。それは三位一体の神を信じているかどうかにかかわってくるのです。

そのように、「三位一体」は教会にとって重要なことですが、教会の私たちは普段、ほとんど三位一体という言葉も使わないかもしれません。これを取り上げて学びを深めるということも、あまりないかもしれません。洗礼を受ける際に、準備の期間を過ごします。何を信じて洗礼を受けるのか、その信仰を学ぶわけですが、そこでも三位一体という言葉は出てくるかもしれませんが、ほとんどその内容に踏み込んで学ぶことはないと思います。

私たちの教会では昨年から『ハイデルベルク信仰問答』を学んでいますが、すでに学びました「第八主日」のところに、わずか一問だけ三位一体にかかわる問答があるだけです(問二五)。しかもその問答でも、三位一体という言葉は使っていませんし、長々とした説明をすることもありません。

このような状況ですので、三位一体はどうもとらえにくいところがあるかもしれません。私が牧師を志し、神学校に入ってからは、もちろん三位一体を長々と学んだわけですが、そうでもない限りは、ほとんど学ぶ機会はないでしょう。しかしそれでも差し支えはないと思います。神を信じ、主イエスに救われ、聖霊に導かれていることを信じる。そうであれば、「三位一体」という言葉を使うことはなくても、信仰生活で困ることはないのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、三位一体にかかわる内容が出てきます。「三位一体」という言葉は聖書にはありませんので、三位一体を論じる際に、いくつもの聖書箇所を参照しながら論じていくことになりますが、今日の聖書箇所もその中の一つになります。父、子、聖霊のことが触れられています。特に小見出しに「聖霊を与える約束」とあるように、聖霊について、主イエスが言われた箇所として重要です。

聖霊という言葉は出てきませんが、「弁護者」(一六節)というのが聖霊のことを指しています。この後の箇所の二六節にこうあります。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(一四・二六)。

聖霊は、文字通り「聖なる霊」ということです。聖書の元の言葉でも、「聖なる」という言葉と「霊」という言葉の二つの語から成り立っています。それでは「弁護者」という言葉はどうなのか。「弁護者」は元の言葉でそのまま発音しますと、「パラクレートス」という言葉です。新共同訳聖書では「弁護者」と訳されていますが、かつての口語訳聖書、新改訳聖書、カトリックのフランシスコ会訳など、多くの聖書で「助け主」となっています。今日の説教の説教題も「私たちの助け主」としました。その他にも「慰め主」と訳すこともできますし、忠告を与えてくれる「忠告者」、何らかの勧めを与えてくれる「勧告者」とも訳すことができます。

なぜ多様な訳があるのでしょうか。元の言葉は「パラクレートス」であると申し上げました。この言葉は、聖書でも大変重要な言葉で、「パラ」と「カレオー」の合成語です。「パラ」は「傍ら」、「カレオー」は「呼ぶ」という意味で、「傍らで呼ぶ」というのが、元来の意味です。傍らで呼ぶ、つまり私たちのすぐそばにいて、何らかの声を出してくれる存在。そういう意味になりますが、どのような声を出してくれるのでしょうか。

私たちが何を言ったらよいか分からなくなっているとき、しどろもどろになってしまったときに、私たちの代わりに答弁してくれる。裁判の席での話を考えれば分かりやすいかもしれません。そう考えると、パラクレートスは「弁護者」となります。あるいは、私たちが進むべき道を迷ってしまった。八方塞になってしまった。そのときに私たちを助ける言葉を発してくれる。そう考えると「助け主」になります。悲しみの涙に暮れているときに、私たちに慰めの言葉をかけてくれる。そう考えると「慰め主」になります。何らかのことで調子に乗りすぎているときに、私たちを忠告してくれる。そう考えると「忠告者」になる。私たちに何らかの勧めの言葉をかけてくれる。そう考えると「勧告者」になります。

いろいろな翻訳が可能です。それゆえに、日本語の聖書にいろいろな翻訳語が現れてくることになります。どれもその通りです。聖霊なる神がそのような働きかけを私たちにしてくださっている。それらがすべて聖霊の働きです。

新共同訳聖書が「弁護者」となっていますので、この説教でも弁護者で統一したいと思いますが、この「弁護者」という言葉は、新約聖書の中でたくさん出てくる言葉というわけではありません。ヨハネによる福音書の中で数回、そしてヨハネの手紙一の中で一回だけ出てくる言葉です。ヨハネによる福音書とヨハネの手紙一は、同じ「ヨハネ」という言葉が付けられていますように、かなり関連が深いと言われています。「弁護者」という言葉は、ヨハネの一つの特徴なのです。

それでは、どのような箇所で「弁護者」という言葉が出てくるか。いくつかの聖書箇所を追って、弁護者とはどのようなお方なのかを掴みたいと思います。まず、今日の聖書箇所が一つです。そして、第一四章二六節にこうあります。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(一四・二六)。

続けて、第一五章二六節にこうあります。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(一五・二六)。

さらには、第一六章七節です。七節から一一節まで朗読いたします。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」(一六・七~一一)。

一気にいくつもの箇所を朗読いたしましたが、どれも似たようなことが言われています。特に今日の聖書箇所以降、ヨハネによる福音書の後半で弁護者、つまり聖霊がたくさん主イエスの口から出てきます。一方で主イエスは去ります。しかし聖霊が来たる。その聖霊に導かれると、主イエスのことが分かる。聖書のことが分かる。信仰の様々なことが分かるようになるというのです。

今日はこの後、聖餐を祝います。聖餐に与るときに、聖餐への招きの言葉として、いくつかの聖書の言葉を聞きます。私がいつも必ず読むようにしているのが、ヨハネの手紙一の言葉です。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ二・一~二)。ここにも「弁護者」が出てきます。ただしここでの弁護者は、ヨハネによる福音書とは違い、聖霊ではなくて主イエスご自身が「弁護者」と言われています。聖霊も弁護者であるけれども、主イエスも弁護者であるのです。

今日の聖書箇所の一六節に「別の弁護者」とあります。ここでの「別の」という言葉、ギリシア語の使われ方として、まったく違う「別の」ものではなく、ほとんど変わるところのない「別の」ものという意味だそうです。これもそうだし、「別の」もそう。これも弁護者だし、「別の」も弁護者。つまり、主イエスも弁護者だけれども、「別の」弁護者である聖霊もまた、確かな弁護者だというのです。

弁護者は「真理の霊」(一七節)とも言われています。その真理の霊が私たちの内にいるのです。当たり前のことですが、聖霊は目に見えない。しかしその霊が私たちの内におられる。私たちと共におられる。私たちが知っている。その実感があるのです。

洗礼を受けたいとの志が与えられると、一緒に勉強をして、洗礼へ備えます。いったい何を勉強するのでしょうか。もちろんいろいろなことです。しかしその中の大事な一つのことは、自分が信じたいという思いが与えられた。自分の内に何が起こっているのかということです。

洗礼を受けたいと願うならば、漠然とかもしれませんが、神を信じる、主イエスを信じるという思いになっているはずです。洗礼をすでに受けておられる方も、そのときのことを思い出していただきたいと思いますが、その思いはどこから湧いてきたのでしょうか。自分の中からでしょうか。そうではありません。

聖書はこう言います。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Ⅰコリント一二・三)。コリント教会に宛てて手紙を書いた使徒パウロは、その手紙の中でこのように書きました。神を信じている。主イエスを主と信じている。その思いというのは、聖霊がその人の内にいるからだとパウロは言うのです。私たちも、ただそのように言うしかない。なぜだか分からないけれども、私が信じている。それは聖霊が私の内におられる、それしか言いようのないことなのです。それが私たちの実感なのです。

このことは、教会の外ではなかなか理解されないことかもしれません。主イエスは今日の聖書箇所ですでにそのことを言われています。一七節のところにこうあります。「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」(一七節)。「世」という言葉が使われています。神を信じることのない「世」と言ってもよいかもしれません。

一九節でも「世」が使われています。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(一九節)。弁護者だとか、聖霊だとか、主イエスが主であるとか、そのようなことを言ったとしても、理解してもらえない。それが「世」です。しかし私たちはうまく説明できなかったとしても、私たちの内におられることを実感しているのです。

先週も教会員の何人かの方から言われたことですが、「説教の中で自分のことが言われている気がする」、そういう声を聞きました。私たちもそういう経験をしたことがあると思います。聖書の言葉を読んでいたり、説教を聴いているうちに、まるで自分のことが言われているような気がする。「先生、すごいですね。よく私のことが分かりますね」とまで言われることがあります。

しかし何も別に私がすごいわけではなく、聖書に私たちのことがすでに書いてあるだけのことです。「世」は「見ようとも知ろうともしない」(一七節)かもしれません。かつての私たちもそうでした。聖書に書かれていることも、説教で語られていることも、自分には関係のないことだと思っていた。それが今では、自分のことが言われていると思って読んでいる、聞いている。なぜそう変わったのか。なぜ分かるようになったのか。それは聖霊の導きによってです。説教で自分のことが言われている、そう感じるのも、聖霊の働きなのです。

今日の聖書箇所の最後の二〇節にこうあります。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(二〇節)。「かの日」とは、いろいろな解釈をすることができるかもしれませんが、弁護者、つまり聖霊が与えられた日のことです。「かの日には」、お互いに相互の関係が成り立っていることが分かると、主イエスは言われます。

その愛は、決して一方通行ではありません。例えば、自分が誰かのことを愛しているとします。そうすると、わたしの内にはその人のことがいるわけです。いつもその人のことを思っているわけですから。そして、その人の内にも私がいれば、両想いになります。けれども、もし私の内だけで、その人の内に私がいなければ、片思いということになります。愛の一方通行です。

そのことを踏まえ、もう一度、二〇節の言葉を聞きましょう。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(二〇節)。私たちの内にも主イエスがおられるし、主イエスの内にもわたしたちがいる。私たちのことを思ってくださる。「内にいる」とは、愛の絆で結ばれていることです。

一八節に「みなしご」という言葉が出てきました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(一八節)。「みなしご」とはそのままの意味です。親がいないことです。神に見捨てられてしまったのではない。主イエスがいつまでも帰って来られず、共にいてくださらないのではない。そうではなく、私たちに「弁護者」がおられる。「助け主」がおられる。「慰め主」がおられる。聖霊が私たちの内におられ、私たちの歩みのすべてを導いてくださるのです。