松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年4月24日(日)
説教題「神を知り、信じる道」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第14章1〜14節

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

旧約聖書: イザヤ書40:27~31

私たちが使っている「完全」あるいは「完璧」という言葉があります。普段、何げなく使っているかもしれません。しかし本当はどういう意味でしょうか。欠けるところや、足りないところのないこと、一つも欠点がないこと、そのように言うことができます。しかし「完全」あるいは「完璧」とは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

自分自身を省みてみると、自分は完全ではない、完璧ではない、まずはそう言わなければなりません。世の中には、自分のことを完璧だと思っている人もいるかもしれません。しかしそう自分が思っていたとしても、周りから見れば完璧などということはないし、その完璧もすぐに崩れてしまう者です。教会に来ている私たちは、自分は完璧ではない、不完全である。聖書の言葉で言えば、罪がある、罪人である。そのことをよくわきまえている人です。

それでは、いったいどこに完全があるのでしょうか。どこを埋めれば完全になるのでしょうか。どうすれば完璧になるのでしょうか。もしその絶対的な基準があれば、その基準と比べて、自分はここが足りない、ここが欠けているということが分かります。

しかしもしその絶対的な基準がなければどうでしょうか。私たちは人と比べる以外には道はないのです。「人よりがんばりなさい」と言われます。あるいは「せめて人並みくらいになりなさい」と言われます。そう言われたかと思えば「人と比べるな」とも言われます。絶対的な基準がないので、人と比べるしか道がなくなる。そして人と上下を比べ、私たちは疲れてしまいます。

教会に集う私たちは、絶対的な基準を持っています。その絶対的な基準とは、主イエス・キリストです。聖書の中の福音書には、主イエスの行動が記されています。主イエスのお考えが記されています。主イエスの話し方が記されています。キリスト者は主イエスの弟子です。弟子である私たちは師匠の真似をします。

普段の生活の中で、私たちはいろいろなことを考え、行動しています。主イエスならどうなさるか。主イエスならどうお考えになるか。私たちはそのことを思いながら、歩んでいくのです。主イエスが基準であり、道しるべなのです。だからこそ、私たちは聖書を開き、御言葉を聴くのです。主イエスに倣って歩むのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、ヨハネによる福音書第一四章一~一四節です。先週も同じ聖書箇所を朗読しました。先週は特に一~六節を中心に御言葉を聴きました。今日は後半の箇所が中心となります。

主イエスと弟子たちは、二・三年にわたり、歩みを共にしてきました。寝食を共にしてきたのです。しかし主イエスが今から後、しばらく一緒に歩めないと言われます。しばしの別れです。この第一四章あたりの箇所は、主イエスの「告別説教」と言う人もあるくらいです。主イエスはこの「告別説教」を語られ、十字架への道を進まれていきます。

しかし主イエスのお言葉を、弟子たちは理解することができません。主イエスは道の話をなさいました。しかし五節のところで、まずトマスが分からないと言うのです。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(五節)。主イエスからその答えを聞きます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(六~七節)。

今度はフィリポが満足せず、口を開きます。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(八節)。フィリポもトマスと同じように、やはり分からなかったのです。

しかし主イエスは、あなたがたは分かるはずだと言われます。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(九~一〇節)。

フィリポの問いは、もっともな問いです。神を見たことがない、未だかつて見たことがない、それは聖書も認めることです。見たことがないどころか、人間にとって、神がいつも分からない、そういう有様でした。神のことを見失い、迷ってしまったのです。

そんな中、主イエスが言われているのは、主イエスを見た者は、神を見た者であるということです。主イエスを見たことを、神を見たことに等しいと言われているのです。神という絶対的な基準が、主イエスにおいて現れたのです。ヨハネによる福音書が特に伝えているのは、そのことです。主イエスによって、見えない神が見えるようになった。分からなかった神が分かるようになった。そのことを伝えているのです。

最近、新しく出版された本の中に、『元始(はじめ)に言霊(ことだま)あり』という本があります。サブタイトルが付けられていて、「新約聖書 約翰傳(よはねでん)全 ≪現代版≫」とあります。さらに「禁教下の和訳聖書ヨハネ伝」という言葉も、表紙に印刷されています。

この本の著者として挙げられているのは、三人です。ヘボン、ブラウン、奥野昌綱という三人です。ヘボンやブラウンという名前は、お聞きになられたことがあるかもしれませんが、奥野昌綱というのは、初めての方も多いと思います。この奥野昌綱という人は、一八二三年、江戸幕府の下級武士の三男として生まれました。一八六八年の戊辰戦争で、新政府軍に惨敗してしまいます。

失意の中、どのように生きるべきか、その道を失っていたときに、親族の誘いでヘボンの日本語教師になりました。一八七二年のことです。ヘボンに日本語を教える。ヘボンをはじめ日本語を学ぶ人たちのために辞書を作る。そういう働きをまずしました。そこで、宣教師のブラウンと出会い、聖書の翻訳の協力をするようになったのです。

一八七三年、別の宣教師のジェームズ・バラという人の説教を聴きます。説教題は「ペトロの拒絶」。ペトロが三度、主イエスのことを知らないと言ってしまった、その聖書箇所の説教です。奥野はこの説教に心を打たれます。ペトロと自分の姿が重なり、回心して洗礼を受けます。日本人として二七人目の洗礼者であったようです。

伝道を志し、医者として来日したヘボンと、宣教師ブラウンは、奥野に出会う前から聖書を日本語に翻訳する準備をしていましたが、奥野の助けにより、最後の作業がなされていくことになります。ブラウンはこのように願っていました。「あらゆる階層の日本人の読者にすぐわかるような文体で、しかも格調高い神の霊に満ちた言葉で真理を伝えうるような日本語聖書の翻訳」(『元始に言霊あり』、序文)。

一八七二年、最終的に奥野が日本語をチェックし、いよいよ印刷・出版がなされることになりました。しかし明治政府によって、キリスト教禁令が解かれたのは、翌年の一八七三年のことです。ヨハネによる福音書が出版されたのは、その一年前です。どこの出版社も請け負ってくれませんでした。しかし何とか頼み込んで、ようやく出版することができた。いろいろな困難がありながら、ヘボン、ブラウン、奥野の思いが実を結んだのです。

このヘボンらによって、日本で最初に作られたヨハネによる福音書の翻訳の全文が、装い新たに出版されたわけですが、翻訳された聖書本文の最初は、こう始まります。「元始に言霊あり、言霊は神とともにあり、言霊は神なり」(一・一)。新共同訳聖書では、葉っぱが取れた「言」と訳されています。ここでの「言霊」ないし「言」は、主イエスのことが意味されています。言葉は言葉でも、主イエスのことを言い表しているわけですから、単なる「言葉」ではない。翻訳にとても苦労したと思います。

ヘボンらの訳では最初、「言霊」(ことだま)と訳されていました。この本に注が付けられていますが、「ことだま」は昔、言語に宿っているとされた不思議な力を意味したようです。万葉集にもそのような事例があるようです。しかし「言霊」というのはあまり聞き慣れない日本語ですし、やがて葉っぱの取れた「言」という訳が、すっかり定着していきました。

そして特に重要なのが、第一章一八節です。「いまだ神をみし人あらず、ただ父のふところにある ひとりうまれし子は、これを あらはせり」。ヨハネによる福音書の著者、そして主イエスが、何を一番伝えたかったのか。もちろん、いろいろなことを挙げることができるでしょうが、最有力候補がここでの言葉です。神を見たことのある者は誰もいないけれども、父のふところにおられた神の独り子、主イエスが神を現した、ということです。今日の聖書箇所の言葉で言い換えれば、一〇節の「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」という言葉です。

一〇節から一一節にかけて、「業」という言葉が多用されています。「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(一〇~一一節)。ここでの「業」はすべて複数形です。もろもろの業です。「業」というのは少しかしこまった言い方ですが、「行い」ということです。

ここで主イエスは難しいことを言われているようですが、実は非常に単純なことを言われています。主イエスの業、イコール、父なる神の業。もし信じられないなら、業そのものによって信ぜよということです。主イエスがどういうことをなさったのか、その業を見て、信ぜよと言われているのです。

一二節のところで、主イエスはこう言われます。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(一二節)。驚くような言葉であるかもしれません。信じる者が、もっと大きな業を行うようになる。ヨハネによる福音書の中で書かれてきたように、主イエスがなさったその業よりも、もっと大きな業を行うようになる。そんな大きな業があるだろうか。なかなか理解しがたいところかもしれません。

しかし続けて、主イエスは言われます。「わたしが父のもとへ行くからである。」(一二節)。主イエスが理由を語られています。主イエスは父なる神のもとにおられる。もっと大きな業は、私たちだけで行うのではありません。主イエスなしで行うのでもありません。主イエスが天の父なる神のもとにおられ、今も生きてい働いておられる。その中でなされるのです。

ヘボン、ブラウン、奥野昌綱の話をしました。ヘボンは医者でした。日本の伝道を志、命を懸けて、海を渡り、日本にやって来ました。ブラウンは宣教師です。福音を宣べ伝えるため、やはり命を懸けて、海を渡り、日本にやって来ました。奥野昌綱は洗礼を受け、キリスト者になり、聖書の翻訳を手伝ったり、日本の讃美歌も何曲か作りました。日本で最初の牧師になったとも言われている人です。

そのような人間の業を、比較することもできないかもしれませんが、大きな業がなされた、そのことは確かです。明治の初期にこのような業がなされた。もちろん彼らの力だけで、なされたわけではありません。天におられる主イエスの力を受けて、主イエスに導かれてなされたのです。今もなお、私たちの間で、主イエスは働き続けておられます。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第四〇章です。この箇所にも、力を失った者たちが、神に導かれ、神からの力を得ることが記されています。

イザヤ書第四〇章は、イザヤ書の中でも新たな区分が始まるところですが、第四〇章一節はこう始まります。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(イザヤ四〇・一)。イスラエルは国が滅ぼされ、希望を失っている状況でした。その中で慰めが語られようとしています。そのために預言者イザヤが立つのです。三節には「荒れ野に道を備え」、「荒れ地に広い道を通せ」とあります。道なきところに道が拓かれようとしているのです。

しかし今日の箇所の二七節のところで、預言者イザヤが言います。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」(四〇・二七)。もう駄目だ、イスラエルの人たちは思っていました。

ところがイザヤは続けて言います。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」(四〇・二八)。主なる神の力が偉大であり、疲れることはないと言います。

その神の力が、希望を失っている人に与えられます。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(四〇・二九~三一)。神の疲れることのない力が人に与えられる。そうするとその人もつかれることのない力を得るのです。

神が生きて働かれるならば、ヘボンやブラウンや奥野のように、神から力を受け、大きな業をすることができます。私たちも同じです。神からの力を受ける。主イエスに導かれる。そうすると、それは大きな業になるのです。

今日の聖書箇所の最後に、こうあります。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(一四・一三~一四)。主イエスが父なる神のもとに行かれる、という言葉の後に、祈りのことが出てきます。主イエスが天におられ、私たちの祈りを聞いてくださるのです。

私たちが祈りを学ぶ。あるいは祈りを子どもたちなどに教える。その場合、どのように教えるでしょうか。もちろん、祈りは自由に祈ってよいのです。形にとらわれる必要はありません。しかし祈りの形は、祈りの心を表しています。どういう心で祈るのでしょうか。
祈りの冒頭で、まず私たちは父なる神への呼びかけから始めます。「神さま」「父なる神さま」「天の神さま」、そのような呼びかけから始めます。私たちは父なる神に向かって祈っているのです。次に、祈りの内容を言います。感謝、願い、執り成しなど、自分の祈りたいことを言っていきます。そして最後、祈りの結びは、主イエスの名によって祈るのです。「主イエス・キリストの御名によって祈ります」、「イエスさまのお名前によって祈ります」。そして最後の最後は「アーメン」です。

私たちの祈りの基本は、父なる神に向けて、主イエスの名を通して祈るということです。私たちは何を祈ってよいのか分からないときもありますし、支離滅裂なことを祈ることもあります。しかし大丈夫です。主イエスが私たちの祈りを執り成してくださいます。不確かな祈りも、確かな祈りにしてくださいます。主イエスが天におられるからです。天において私たちを執り成してくださるからです。主イエスが天におられるとは、私たちの祈りがまことに聞かれるという根拠です。

ヘボンたちが訳した聖書では、一四節はこうなっています。「もし なんぢら わが名によりてねがふところ なにごとにても われ これをなさん」。新共同訳聖書では「かなえてあげよう」になっています。これは少し砕きすぎた訳かもしれません。祈りなので、「かなえてあげよう」でよいのかもしれませんが、単純に「行う」ということです。主イエスが行ってくださる。文語流に言えば「われ、これをなさん」と言われているのです。

主イエスは二千年前の人です。しかし二千年前の人ではありません。今、生きて働いておられます。私たちの完全な基準です。完璧な人です。この方の力を受けて、この方と一緒に歩む。私たちのなす業も、主イエスと共になしている大いなる業なのです。