松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年4月17日(日)
説教題「我は道なり、真理なり、命なり」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第14章1〜14節

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

旧約聖書: 箴言6:20~23

本日、私たちに与えられた聖書箇所の特に前半のところに、「道」という言葉が何度も出てきます。先ほど、聖書朗読として、第一四章一~一四節までをお読みしましたが、とても一回だけの説教で説ききれるものではありません。今週と来週の二回にわたってこの箇所から御言葉を聴きます。

今日は前半、特に六節までに集中して御言葉を聴きたいと願っていますが、六節の主イエスのお言葉は、かなり有名です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(六節)。ここにも「道」という言葉が使われています。今日の説教の説教題を、文語の表現にしましたが、この六節から取りまして「我は道なり、真理なり、命なり」と付けました。

私たちは「道」という言葉を、かなり重んじているところがあります。おそらく中国からの影響でしょうけれども、道は道でも、単なる道路としての道ではなく、道という言葉にいろいろな深い意味を込めきました。例えば、「道徳」という言葉があります。英語でモラルと言いますが、外国語に「道」という意味があるわけではありません。「道徳」になぜ「道」という字が入っているのか、詳しいことは私には分かりませんが、「徳」という字に「道」を付けるのです。徳の道とでも考えればよいのでしょうか。

教会でも、「道」という字を重んじて使っています。例えば、よく使う言葉は「伝道」という言葉です。道を伝えるのです。それ以外にも「求道」あるいは「求道者」という言葉も使います。まだ洗礼を受けておられない方を、道を求めている者という意味で「求道者」と言うのです。

「伝道」という言葉をもう少し考えてみたいと思います。伝道という言葉は、英語で様々な対応語を考えることができますが、“evangelism”(エヴァンジェリズム)という言葉です。英語のこの言葉は、聖書の元の言葉であるギリシア語に由来するものですが、ギリシア語では「エウアンゲリオン」という言葉です。この言葉は「福音」という意味の言葉です。「よき知らせ」です。ギリシア語では元々、単純によき知らせのことを意味していました。「勝利の知らせ」、「子どもの誕生の知らせ」など、よき知らせを単に伝えるための言葉でした。

聖書ではこれから転じて、イエス・キリストによるよき知らせ、つまり福音という言葉になったのです。そういう言葉が、日本に入って来た。よき知らせを伝えること、それが日本では「伝道」という言葉になったのです。よい知らせを伝えること、それはすなわち、道を伝えることだと日本人は考えたのです。

イエス・キリストを信じて歩む道を伝えることが伝道です。言うまでもなく、伝道は単に道を伝えることだけではありません。あそこにいい道がある、どこか遠くにいい道がある、そのように伝えるのではありません。むしろ、ここにいい道がある、私もその道を歩いている、だからあなたも一緒に歩みませんか、そのように伝えることです。一緒に歩くこと、実際にその道を歩くことが、何よりも大事になります。

伝道と言いますと、私たちが何か言葉を尽くして相手に説明したり、相手を説得することを考えてしまうかもしれません。確かにそのような一面もあるかもしれません。しかし伝道の本質は違います。自分が歩いている道を、一緒に歩いてもらうのです。時には黙りながら一緒に歩くときもあるでしょう。時には教会に誘うだけの伝道もあるでしょう。一緒にキリストの道を歩いてもらうのが、伝道なのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初は、「心を騒がせるな」(一節)と始まります。第一三章から第一四章に改まりましたので、内容的にも切れているかのような錯覚を覚えるかもしれませんが、主イエスのお言葉は一続きです。第一三章の終わりとつなげて理解しなければなりません。

ペトロは主イエスに対して、固い決意表明をしていました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(一三・三七)。ペトロはこのように、自分の決意を豪語したのです。しかし主イエスから、今は一緒について来ることができないと言われてしまいます。

ペトロの自信の源は、主イエスと一緒にいることができるということでした。今までペトロは主イエスの弟子となって、二~三年にわたって歩みを共にしてきたのです。一緒に主イエスと道を歩いてきたのです。主イエスと共に歩めば、多くの人たちが寄りついてきました。すばらしい教えをその口から繰り返し聞くことができました。歩けなかった人が歩けるようになり、目が見えなかった人が見えるようになり、死者が甦る奇跡さえ目の当たりにしました。

このお方はすばらしいお方だ、自分はその弟子なのだ。ペトロにそのような自負があったと思います。ところが、今は一緒について来ることができないと言われてしまう。主イエスが見えなくなってしまう。道が見えなくなってしまう。ペトロは心が騒いだのです。

心を騒がせていたのは、ペトロだけではありません。「心を騒がせるな」(一節)と主イエスが言われています。丁寧に言うならば、「あなたがたは心を騒がせるな」ということです。弟子たち皆が心を騒がせていた。

私たちも心を騒がせてしまう、そのような様々な不安をよく知っています。山道を歩くならば、今自分がどの道を歩いているか、そのことが分かっていれば安心ですが、道に迷ったならば、たちまち不安に駆られてしまいます。山歩きとまでいかなくても、車の運転をする際に、道が分からないと不安なものです。子どものときに、家に帰れなくなってしまう不安を、私たちもよく知っています。

そのような道を失い、不安だらけで、心を騒がせ、どのように歩んだらよいのか分からない私たちに対して、主イエスが道を備えてくださいます。それがどのような道なのか、主イエスが私たちに示してくださる、それが、本日、私たちに与えられた聖書箇所で主イエスが言われていることなのです。

二節のところで、主イエスがこう言われています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(二節)。難しい言葉が使われているわけではありません。何気なく通り過ぎてしまう箇所かも知れませんが、主イエスのお言葉をよく味わいたいと思います。

主イエスは「家」という言葉を使われています。単純に家を表す言葉です。「父の家には」、英語流に言いますと“in the house”(イン・ザ・ハウス)です。ある聖書学者が解説してくれていますが、マンションのようなものと言っています。この「家」という言葉は単数形です。一つの家です。その一つの家に、「住む所がたくさんある」と言われます。それゆえ、マンションと言うのです。なるほどと思います。

もちろん、主イエスがここで言われているのは、物理的な家ではなく、天の父なる神のもとの永遠の住まいですから、マンションのようなものを考えると、おかしなことになってしまいますが、しかしいずれにしても、一つの家です。神の住まい。そこに、私たちの住む場所がたくさんある、主イエスが用意をしてくださると言うのです。

「住む所」というのは、そのままの意味ですが、「所」という言葉が付いた名詞の形です。この言葉の動詞の形は、実はヨハネによる福音書の中でたくさん使われている重要語です。

例えば、次の第一五章のところに、ぶどうの木の話があります。このぶどうの木に関連して、この言葉が多数使われているのです。第一五章の四節、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と主イエスは言われます。第一五章の五節、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあります。

ぶどうの木に「つながる」枝が語られていますが、「つながる」と「住む」という言葉は、実は形を同じくする言葉なのです。つまり、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(一五・四)というのは、「わたしの内に住みなさい。わたしもあなたがたの内に住んでいる」と言い換えてもよいのです。

「住む所」(一四・二)と言われたときに、私たちは単に住まいだけのことではなく、父なる神との「つながり」を考えることができます。父なる神と結ばれていることも考えることができます。家に住まわせてくれるとは、関係があるから、そうさせてもらえるのです。私たちの居場所があるのです。


続けて、三節のところです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(三節)。

主イエスはいったん離れられる。弟子たちはついて行くことができない。しかし戻ってくると言われる。いったいいつ戻って来られるのでしょうか。いろいろな可能性が考えられかもしれません。例えば、主イエスがこれから十字架に赴かれます。弟子たちは主イエスを見捨てて皆、逃げてしまいます。主イエスは死なれ、お甦りになり、弟子たちの前に姿を現されます。その時に、戻ってきたと言えるかもしれません。

あるいは、復活された主イエスは、その後まもなく天に上げられ、姿が見えなくなります。主イエスが再び来てくださる再臨のときに、戻ってくる。そう考えられなくもありません。

それでは、私たちはどう考えたらよいか。答えはむしろ単純なのかもしれません。教会の人たちは、いつでも、主イエスが自分たちと共に歩んでくださると信じてきました。未だに戻って来てくださらない、一緒に歩んでくださらない、などと考えたことはないのです。

少し先取りしますが、第一四章二三節にこうあります。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(一四・二三)。父なる神と主イエスが来てくださる、しかも一緒に住んでくださると言われるのです。約束の言葉であり、実際にその通りになった言葉です。主イエスが来て、一緒に住んでくださる。いつまでも戻って来られないのではない。一緒に歩んでいるのです。

四節のところで、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(四節)と主イエスは言われます。それに対して、弟子の一人のトマスが言います。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(五節)。トマスは分からないと言ったのです。

トマスの質問は、愚かな質問でしょうか。決してそうではないと思います。むしろ、トマスが知らないと言ってくれたことによって、私たちは主イエスの口から大事な言葉を聞くことができました

こんな例を考えてみたらよいと思います。学校で教師が生徒に授業をする。教師がひと通り、生徒に説明をします。説明が終わったところで、教師が生徒に「質問は?」と尋ねます。生徒が黙っていれば、その授業はそこでおしまいです。教師は生徒が分かったものとして、次の内容へと進んでいくことになります。しかしもしも、生徒が「分かりません」と言ったならば、教師は再度、説明をします。しかも、同じ説明の繰り返しをする場合もあるかもしれませんが、違う形で違う角度から再説明をしてくれる場合も多いでしょう。主イエスもまさにそうでした。同じ言葉を繰り返されたわけではありません。

聖書には、案外、分からないと言ってくれた人のおかげで、大事な言葉が記された、そんなところがあります。特にヨハネによる福音書の中で、分からないということをはっきり言ってくれた人のおかげで、主イエスから大事な言葉を聞くことができた、そういう箇所が何箇所かあります。

第三章のところで、ニコデモという人が出てきます。夜の闇にまぎれて、こっそり主イエスのところに質問にやって来る地位ある人です。ニコデモと主イエスの対話はなかなか噛み合いませんでしたが、ニコデモの対話に促されて、主イエスはこう言われました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(三・一六)。

そして今日の聖書箇所がまさにそうです。トマスが分からないと言ってくれたおかげで、私たちは主イエスの口から、六節の言葉を聞くことができました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(六節)。

このトマスによって、私たちはさらに大事な言葉を聞くことができるようになりました。どういうわけか、トマスは復活された主イエスに最初、お会いし損なってしまったのです。しかし一週間後、トマスのところに主イエスが現れてくださいました。そして主イエスを見て、信じたのです。その際に、見て、信じるようになったトマスに対して主イエスは言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(二〇・二九)。

主イエスの口から、かけがえのない六節の言葉が紡ぎ出されました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(六節)。この言葉の中で、力点が置かれているのが、「道」です。道、真理、命、それら三つが並んでいますが、並列に並んでいるわけではありません。主イエスは道である。道そのものである。そしてその道は、真理の道であり、命の道なのです。

この道を歩くための、ただ一つの条件は、信じることです。最初の一節にこうありました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(一節)。心を騒がせている私たちに主イエスが言われたのは、信じること。それもただ神を信じるのではなく、神を信じるのと同じように、私をも信じなさいと言われたのです。

この世の中で、いろいろな「道」が説かれています。多くの「偉人」と呼ばれる人たちも「道について」は説きました。しかし私そのものが道である、そのように言い切ったのはキリストだけです。誰でも言い得るものではありません。キリストだからこそ、言い得たお言葉です。

教会の私たちは、この道を知らない者たちではありません。私たちはこの道を知っています。しかもこの道を歩いているのです。この道は罪の赦しの道です。救いの道です。真理の道です。命の道です。主イエス以外に、そのような道は一つもありませんでした。道なきところに、主イエスが最初に道を切り開いてくださいました。

しかも主イエスがこの道そのものであると言われるのです。この道を歩いている私たちは、主イエスはどこにおられるのか、そのように尋ねる必要はありません。この道を歩いているのですから、ここにおられる、一緒に歩いておられると言えるのです。私たちは主イエスと共に、そして教会の仲間たちと主に、一緒にこの道を歩いているのです。