松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年4月10日(日)
説教題「主よ、どこへ行かれるのですか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章36〜38節

シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

旧約聖書: 士師記7:1~25

週報の来週の礼拝の予告に、説教題を載せています。教会の前の看板にも、説教題を掲げています。本格的な説教の準備を始める前に、説教題を付けなければならない。私はそのことで苦労をすることがあります。自分でつけた説教題を変えたくなるような思いに駆られることもあります。

本日の説教題は「主よ、どこに行かれるのですか」と付けましたが、特に今日の説教題はいろいろと悩みました。実際にいろいろな他の説教題を考えました。例えば、「人間の決意のもろさ」というのも、候補の一つでした。私たち人間が決意をした、しかしながら、その決意がすぐに崩れてしまうことがよくあります。今日の聖書箇所には、ペトロの決意表明のような言葉がありますが、この決意がすぐに間もなく崩れてしまうことになります。その「人間の決意のもろさ」という題も考えました。

あるいは、「人間の領分をわきまえる」という題も考えました。領分という言葉は、聖書の中の言葉というわけではありません。領分は、辞書を引きますと、所有している土地だとか、勢力範囲、なわばりなどという意味が出てきます。古来の日本流で言えば、お殿様が自分の領地を持っている。自分の影響の及ぶ範囲があるわけです。その領分をわきまえることが大事になってくる。わきまえないと争いに発展したりするわけです。私たちも、人間としての領分をわきまえなければならない、そういう説教題です。

本日、私たちに合わせて与えられた聖書箇所は、士師記に記されているギデオンの話です。ギデオン率いるイスラエルは、ミディアン人との戦いを戦っていました。ギデオンのもとには三万二千の兵士がいたようです。ところが、このまま戦ってミディアン人に勝利したのでは、人間の力によって勝利したと思いあがってしまう、そのように考えた神は、兵士の人数を減らすのです。三万二千人が、まず一万人に減らされました。そしてその一万人も、三百人にまで減らされてしまいました。その三百人をもって、「いなごのように数多く」(士師記七・一二)いたミディアン人たちに勝利をすることができたのです。人間の力を徹底的に排除し、神の力のみによって勝利をすることができました。

ペトロも、どこまでも主イエスについて行きたかったわけですが、主イエスは人間が行くことのできない領域にまで踏み込もうとなさいます。人間を救うために、主イエスにしかできないことをなさろうとしていた。ペトロも人間としての領分をわきまえる必要があったのです。

ペトロはこれまで主イエスに従って来ましたが、おそらくその自信にあふれていたことであろうと思います。そのペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」(三六節)と言わなければならなかった。今まで主イエスの弟子となって二、三年にわたって実際について来た。ついて来ることができず、実際に脱落してしまう者たちもいる中で、ペトロはついて来たのです。

先週の聖書箇所になりますが、ペトロたち弟子は、三三節のところでこう言われてしまいます。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」(一三・三三)。

この言葉を聞いて、ペトロも焦ったのでしょう。本当は主イエスは三四節、三五節の言葉も続けて言われたのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(一三・三四~三五)。

愛の戒めの言葉です。主イエスが最も弟子たちに教えたかった言葉です。ところがこの三四節、三五節の言葉などまるでなかったかのように、「あなたたちは来ることができない」と言われてしまい、気が動転してしまったのでしょう。「主よ、どこへ行かれるのですか」と言わざるを得なかったのです。救い主、主イエスのお姿がかすんでしまったのです。

今日の聖書箇所の三六節後半に、主イエスのお言葉がこうあります。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(三六節)。主イエスは、今と後という言葉を使われています。実はこれらの言葉は、同じ第一三章の七節でも使われていました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(一三・七)。今と後の明確な区別が主イエスにはあるのです。ペトロにはなかったのです。

第一三章の最初の一節で、こう記されていました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(一三・一)。主イエスは父なる神のもとに行かれようとしていた。

そしてこの第一三章が終わり、その流れのままで第一四章に突入していきます。第一四章の最初の箇所は、有名な箇所でもありますが、この文脈の中で語られた主イエスのお言葉なのです。

「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」」(一四・一~五)。

主イエスが弟子たちのところから父なる神のもとへ一度は去って行く。弟子たちは来ることができない。しかし主イエスが場所を用意し、その上で迎えてくださると言われるのです。後でならばよいが、今は駄目だ。今日の箇所で主イエスが駄目と言われた、一回目の「駄目だし」です。

ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(三七節)と言い張りました。それに対し、主イエスから言われてしまいます。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(三八節)。今日の短い聖書箇所で主イエスから言われてしまった二回目の「駄目だし」です。

鶏というのは、私たちもよく知っているように、夜明け前に鳴きます。このときは夜でした。その夜が明ける前に、あなたの決意が揺らぐと主イエスは言われるのです。他の福音書では、「今夜、鶏が鳴くまでに」と主イエスが言われています。明日や明後日ではない。もうわずか数時間のうちに、固い決意をしたペトロのその決意が揺らいでしまうと言われるのです。

しかも三度も知らないと言うだろうと予告されてしまいます。一度だけ「知らない」と言うなら、とっさにそう言ってしまった、そのような言い訳も成り立つかもしれません。しかし二度や三度ならば話は違います。

しかも、ペトロが一度知らないと言ってしまった後、だいぶ時間が空いたのです。立て続けに主イエスとの関係を三度問われたわけではない。一度知らないと言ってしまった。その場から立ち去ることもできず、ペトロの心が目まぐるしく揺れ動いたと思います。今度は「知らない」ではなく、「私は主イエスの弟子だ」と言おう、心にそう思ったかもしれません。けれども、言えなかった。二度目、三度目も同じように「知らない」と言ってしまうのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、わずか三節から成る短い箇所です。しかしその短い箇所の中で、ペトロは二度も主イエスから「駄目だし」をされてしまう。そして実際にその通りになってしまうのです。

先ほどから「駄目だし」という言葉を使ってきました。最近ではよく耳にするような言葉になってきたところがありますが、もともとこの言葉は演劇用語であったようです。脚本や演技の仕方について、「駄目だし」をする。練習や稽古のときに、そのままでは発表させられないので、駄目出しをして作品の完成度をあげていく。それが「駄目だし」ということです。

ところが、最近はテレビなどで「駄目だし」という言葉が盛んに使われるようになりました。なんでも駄目だしをされるようになってしまったところがあります。しかも演技や脚本に対してだけではなく、人間そのものに対して、救いようのない「駄目だし」をしてしまっているところがあります。本来はもっと完成度をあげるために、本番に耐えられるように「駄目出し」をするはずでしたが、その精神が失われてしまったのです。「駄目だし」は単なる否定ではありません。否定から肯定への道備えなのです。ところが、最近の使われた方は、否定だけをして終わっているのです。

私たち人間には、否定されるべきところがあります。どんなに優れて見えるような人間でもそうです。聖書は、人間は罪人である、誰もが罪人であると言います。あら探しをすれば、必ず悪いところが出てきます。人間は罪人だからです。神の御前にも人間の前にも、まっすぐに正しく生きることができません。その部分を探しだし、否定のみの「駄目出し」をする。それが今の社会です。

ペトロは今日の聖書箇所で、二回も「駄目だし」をされてしまった。しかも主イエスの弟子として、これ以上のない「駄目だし」です。師匠を「知らない」と三度も言ってしまったのですから、普通なら立ち直ることができません。もちろん、ペトロ自身の力で立ち直ることはできませんでした。立ち直らせてくださったのは、主イエスです。今日の聖書箇所で、主イエスが「今」と「後」という言葉を使っておられることに、もう一度、注目をしたいと思います。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(三六節)。

主イエスは確かにペトロに「駄目だし」をされました。しかしこの否定は、否定のまま終わることはありませんでした。「後で」という言葉をしっかり言ってくださったのです。ここに、否定から肯定への道が備えられたのです。

昨日、教会で記念会が行われました。三月に召された教会員の記念会です。諸事情があって、通常の形での葬儀ではなく、昨日のような記念会となりました。この姉妹とかかわりのあった方は、それほど多いというわけではないでしょう。しかし同じ教会の教会員に、このような方がおられたということは、ぜひ皆様のお心に留めていただきたいと思います。

この姉妹は、お若いころは元気な方でありました。ご結婚をされます。しかしお相手が、結婚後まもなく、若くして召されてしまうという悲しみを経験します。そしてその後、ご自身が重い病を患うことになります。いわゆる難病であり、手術や治療もうまくいきませんでした。車いすでの生活を余儀なくされます。首を患われたわけですが、首から背中や手までも痛む状況でした。病を得てからの生涯は、痛みとの戦いでありました。週に二、三回、病院に行き、痛み止めをしてもらう。その痛み止めも、だんだんと効果が薄れてしまい、晩年は痛み止めもうまく効かない状況でした。

そのような生活を送られたわけですから、当然、教会にも多く来られるというわけではありません。病院帰りに教会に突然、寄られることもありました。ご自宅を私がお訪ねすることもありました。入院の際などに、病院でお会いする機会も何度もありました。私とこの姉妹とのかかわりはこれだけでなく、手紙やFAXをくださることもありました。

ご自分が痛みで苦しい中であるにもかかわらず、私はこの方から、そのような不平や不満を一言も聞いたことがありません。こういう状況に置かれたならば、教会の牧師に対して、不平や不満を並び立て、自分が味わってきた不幸を延々と述べるようなことも考えられますが、そのようなことは一言もありませんでした。それどころかむしろ、いつもこの姉妹の口から出てきた言葉は、人を気遣う言葉です。「あの人は元気か、この人はどうしているか」、そういう言葉ばかりだったように思います。牧師である私や私の家族、教会員のことをいつでも気にかけてくださったのです。

毎年、誕生日には誕生日カードを送りました。二年間のことになりますが、誕生日カードのお礼をFAXでいただきました。こういう文面です。「誕生日カード、ありがとうございました。いつもお心に掛けていただいて感謝です。教会員の皆様や本城先生に祈っていただけて幸せです。この頃、よく思うのは、イエス様にお祈りする事を教えられて、祈ることを覚えられた事を幸せに思います。皆さまに助けられて、祈っていただけて心強く感謝しております。本当にありがとうございます」。

昨日の記念会でも、この文面をご紹介しましたけれども、この文面に表れている通り、この姉妹は教会の交わりに生きた方であります。五体満足に教会に来られたわけではありませんが、それでもキリスト者とし、教会の交わりに生かされた方なのです。

この姉妹をはじめとして、教会では葬儀や記念会を行います。私もこれまで数えられないくらい多くの葬儀や記念会を行ってきました。本当に十人十色、いろいろな人生があります。この世の視点で見れば、「駄目だし」をせざるを得ないような、自分でも受け入れ難いと思うような否定的なことも、私たちにはたくさんあるのです。しかし否定だけで終わる人生というのは一つもありませんでした。神の御前に、信仰において、肯定することができる人生として、神に感謝し、讃美をささげる礼拝をすることができるのです。この姉妹もまたそうでありました。

ペトロは否定のまま終わることはありませんでした。ヨハネによる福音書の最後である第二一章に、復活の主イエスとペトロとのやり取りがあります。「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」(二一・一五)。

こういうやり取りが一度ならず、二度目も三度目もなされます。結局、ペトロが「知らない」と言った分だけ、主イエスがそれを覆ってくださるように、三度、このように尋ねてくださるのです。

そしてそのやり取りがなされた後、こう記されています。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」(二一・一八~一九)。

これ以上大きな躓きはないというくらいの躓きをしてしまったペトロは、この後、使徒と呼ばれるようになります。主イエスのことを宣べ伝えていく伝道者になるのです。ペトロは自分から弟子になった、自信にあふれてそう言ったわけではありません。むしろ口が裂けてもそんなことは言えなかったのです。そんな私を主イエスが肯定してくださった。受け入れてくださった。弟子にしてくださった。ペトロは主イエスに弟子にしていただいたのです。

ペトロは私たちの代表者です。今日の聖書箇所で二度も「駄目だし」を喰らってしまったペトロでしたが、駄目だしのままで終わることはありませんでした。否定から肯定へ。その道を切り拓いてくださったのが、主イエスなのです。

ある聖書学者が、今日の聖書箇所を解説してこのように言っています。「しかし、幸いにも、ここが物語の終わりではなかった」。駄目と言われるのが終わりではない。駄目を必ず「よし」としてくださるのが主イエスなのです。ペトロの回復が復活の主イエスによって起こりました。罪から立ち直り、回復する。それが人間のあるべき姿です。駄目を出さないように躍起になる、それが人間の本来の姿ではありません。駄目だしをされたけれども、「後に」よしとされた、それが私たち人間の本来の姿なのです。