松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年4月3日(日)
説教題「愛の戒めに生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章31〜35節

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

旧約聖書: 申命記7:6~11

教会でも今日から新年度を迎えました。新年度の最初というのは、昨年度の歩みを振り返り、今年度の計画を立てる時期でもあります。今日の午後、長老会が予定されています。月初めに行われる長老会は、前の月の出来事を振り返ります。今日の長老会もそうですが、特に今日は四月の年度初めの長老会でもあります。昨年度の一年間を振り返る、そういうことをする長老会でもあるのです。

先週は、四月の長老会、そして四月には教会総会もありますので、資料の準備に費やしていた時間が多かったように思います。昨年度の一年間を振り返りつつ、パソコンに向かっている時間が長かったと言えるでしょう。いわゆる事務作業をしていたとも言えるかもしれません。昨年度一年間で、洗礼を受けられた方が六名与えられました。信仰告白に導かれた方が二名、転入をされた方が五名ありました。

それらの方々のことをパソコンに入力しながら、神の恵みを覚えるひと時となりました。また、逝去された方も三名ありました。私たちの間から失われてしまったことは悲しいことですが、しかし神が私たちの間に生かしてくださった方々でもあります。そのことを、神の恵みとして受け取った。単なる事務作業にはならなかった。そういう意味から言えば、教会には単なる事務作業は一つもないと言えると思います。

このようにして、昨年度、私たちの教会は成長を与えられました。同じ信仰に生きる多くの仲間が加えられました。その出来事を振り返りつつ、新年度を始めるにあたって、神に感謝を献げたいと思います。「神のみに栄光あれ」、五百年ほど前に、教会を改革した改革者たちは、口々にそう言ってきました。優れた教会音楽を作った音楽家たちも、口々にそう言ってきました。

「神のみに栄光あれ」、これは讃美の言葉です。いったい誰が栄え、いったい誰に光が当てられるというのか。教会にいる人間ではありません。牧師や長老、洗礼を受けた方々にスポットライトが当てられるのではない。そうではなくて、すべて神の恵みとして、神が教会にお与えになってくださったこととして受けとめるのです。「神のみに栄光あれ」、私たちもこの讃美の心を大事にしたいと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、その栄光という言葉が出てきます。三一~三二節にかけてこうあります。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」」(三一~三二節)。先週はイースターで、別の聖書箇所から御言葉を聴きました。今日は再びヨハネによる福音書に戻っています。場面は最後の晩餐の席上で、ユダが出て行った後の話です。

三一節の「栄光を受けた」「栄光をお受けになった」というのは、文法的に言えば過去形です。ところが三二節の「栄光をお与えになる」「すぐにお与えになる」は未来形です。さらに言えば、三二節の「すぐにお与えになる」の「すぐに」というのは現在の意味合いのある言葉です。つまり、過去、現在、未来が混在していることになります。

最後の晩餐の食事の席からユダが飛び出して行った、これは過去の出来事です。そして今の出来事として、主イエスが残りの弟子たちに語っておられる。そして未来の出来事として、ユダの裏切りが起こり、主イエスが逮捕され、十字架が起こる。それらの時間が、過去、現在、未来として一緒にされているのです。

ヨハネによる福音書では「栄光」というが何度も出てきました。栄光を受ける「時」が問題になってきました。この福音書の前半では、まだ「時」が来ていないことが強調されました。ところが第一二章二三節のところで、ギリシア人の人たちが主イエスのところに「人の子が栄光を受ける時が来た」(一二・二三)と主イエスが言われます。

さらにこれより踏み込んで、今日の聖書箇所では「人の子は栄光を受けた」(三一節)と過去形で語られます。時間的には、最後の晩餐の木曜日の夜から十字架の金曜日にかけて、幅はあります。しかしこれらの一連のことは、事柄としては同じなのです。ユダの裏切り、主イエスの逮捕、そして十字架が切り離せないものとして、一つになって起こっていくのです。

続く三三節のところにこうあります。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」(三三節)。

ユダヤ人たちに「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と主イエスが言われた。いったいどの箇所で主イエスがそんなことを言われているのか。二箇所、あります。

まずは第七章三二節以下のところです。少し長いかもしれませんが、そのままお読みします。「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」」(七・三二~三六)。

ユダヤ人たちは、主イエスの言葉の意味が分かりませんでした。主イエスはどういう意図でこのようなことを言われたのか。主イエスのお言葉から明らかなように、主イエスが父なる神のもとにお帰りになる。その意味で、あなたたちは来ることができない、と言われたのです。

二箇所目は、第八章二一節以下です。これも少し長いですが、そのままお読みいたします。「そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」」(八・二一~二四)。

ここでもユダヤ人たちは主イエスの言葉の意味が分かりませんでした。主イエスの意図としては、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる、だからあなたたちは来ることができない、そう言われたのです。一回目と二回目では、主イエスの同じ言葉でも、意味合いが違うことが分かります。

今日の箇所では、ユダヤ人たちに対してではありません。弟子たちに対して言われました。これもまた違う意味合いで言われました。三三節で「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」とまず言われます。主イエスが逮捕される前までの短い時間に限って、一緒にいることができる。しかし逮捕された後、十字架に至るまでの道に、あなたがたはついて来ることができない、と言われたのです。

それぞれの箇所で、主イエスはほぼ同じ言葉を使われていますが、文脈における意味は違います。しかし主イエスの弟子たちに対しては、「子たちよ」(三三節)という言葉を使ってくださいました。そして、ユダに裏切られ、逮捕され、十字架へと向かわれる。人間の罪を赦すための道に、一人で進んでいかれるのです。誰も一緒に伴われることはありませんでした。

三四節のところに、こうあります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(三四節)。掟という言葉が使われています。かつての口語訳聖書では「戒め」と訳されていました。英語の聖書のほとんどは“commandment”となっています。「命令」ということです。

掟、戒め、命令。少しずつ受ける印象は違うかもしれません。しかしどちらかと言うと、私たちはあまりよいニュアンスに受けとめないところがあるかもしれません。なんだか縛られているような気がするからです。しかし聖書では、もっと積極的にこれらの言葉を受けとめています。今日の説教題を「愛の戒めに生きる」と付けました。なぜこのような説教題が成り立つのでしょうか。

先日の新聞に、哲学者カントの書いた『永遠平和のために』という本が取り上げられていました。いわゆる「戦争法案」というものが施行されるのに合わせてであります。カントという哲学者は、かなり難しい議論をした人です。カントの著書を読もうにも、一筋縄ではなかなか読むことができないものを書いています。しかしこの『永遠平和のために』というのは、他の本とは少し違うところがあります。理念だけの平和追求をしたのではなく、カントなりに、世界のかなり具体的な状況にまで踏み込んで、平和を造り出すことを追求していったのです。

この本は一七九五年、カントが七一歳だったときに書かれました。カントの晩年の著書です。カントは、ヨーロッパ中が戦争に明け暮れる時代の中を生き抜いた人です。いろいろと難しいことを論じたカントにしては、かなり具体的な平和追求の道が記されています。政治家たちからの出版に対する圧力がありながらも、この本はどうしても出さなければならないという決意をもって出版した本です。

この本の具体的な主張をここで取り上げることはしませんが、平和を論じるにあたって、カントの主張を一つご紹介したいと思います。それは、人間の自然状態に関することです。人間にとって、一番自然な状態とはどういう状態でしょうか。カントは、それは「戦争状態」だと定義します。平和状態ではないのです。戦争状態とは、実際に戦争が起こっている状況ももちろんそれに含まれますが、平和が脅かされているような状況も戦争状態だと考えます。今の日本も、カントに言わせればもしかしたら平和状態ではない、戦争状態であると言われてしまうかもしれません。

カントがこのように言ったように、人間がそのままの状態では平和な状態が作り出せない。人間の罪がいかに深いかということにもなります。本日、私たちに与えられた聖書箇所の言葉で言えば、人間が自然の状態では、互いに愛し合うことができないということになります。互いに愛し合うのではなく、傷つけ合う、非難し合う、罪を犯し合う。互いに愛し合わないのです。悲しいことですが、これが罪の中にある人間の自然状態と言わざるを得ません。

そのような中で、主イエスが「互いに愛し合いなさい」(三四節)と言われました。しかも二度も繰り返し同じことを三四節で言われています。なぜそのような当たり前のことを言わなければならないのか。言うまでもなく、この言葉は特に真新しい、今まで聞いたことがなかったという言葉ではありません。私たちがよく耳にする言葉でもあり、口にする言葉でもあります。主イエスでなくても、誰もが使っている言葉です。

こどもの頃、私たちは親や先生から言われてきました。「互いに愛し合いなさい」という言葉でなかったとしても、例えば「互いに優しくし合いなさい」とよく言われました。「互いに親切にしなさい」「互いに仲良くしなさい」「お互いを思いやり合いなさい」、そのように私たちは言われ、子どもから大人になります。そして大人になり、また私たちは、自分の子どもに対して、あるいは学校の先生であれば生徒に対して、「互いに優しくし合いなさい」などと繰り返すのです。

主イエスが言われた言葉は、私たちがいつでも言わないといけないし、いつでも聞かないといけない言葉です。ずっと昔の時代にも、今の時代にも、そしてこれから先の時代にも、絶対に必要な言葉です。これはいったいどういうことなのでしょうか。子どもは「我がまま」です。大人も、わがままが消えたように見えるかもしれませんが、やはり「我がまま」です。「我がまま」な私たちは、いつでも互いに愛し合うことを学ばなければならないのです。

主イエスが言われた互いに愛し合うというのも、普通の自然状態ではできないのです。いつも失敗してしまう。だからこそ、いつでも教えられなければならない。しかも人類の歴史上、ずっと教えられてきました。しかし未だに達成することができていない状況だと言わざるを得ません。

主イエスは当たり前のことを言われている、そういう評価を受けてしまうかもしれません。けれども、主イエスは「新しい掟」(三四節)と言われました。どこに主イエスの新しさがあるのでしょうか。それは「わたしがあなたがたを愛したように」(三四節)という言葉です。

何気ない言葉かもしれません。しかし私たちはこの言葉を言えるでしょうか。「互いに愛し合いなさい」という言葉は、私たちも聞いてきたし、私たちも言うことができます。しかし「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉をくっつけて言うことができるでしょうか。自分の子どもに対して、私が子どもであるあなたを愛している、その愛と同じように「互いに愛し合いなさい」と言えるでしょうか。自分が学校の先生だったとして、自分の生徒たちに対して、私があなたたちを愛している、その愛と同じように「互いに愛し合いなさい」と言えるでしょうか。

もっと広げてみてもよいかもしれません。夫が妻に対して、妻が夫に対して、私があなたを愛しているように、お互いに愛し合おうではないかと言えるでしょうか。友だち同士の間で、私があなたを愛しているように、お互いに愛し合おうではないかと言えるでしょうか。私たちにそのことが問われているのです。

互いに愛し合う。この愛はいったいどこから始まるのでしょうか。誰から始まるのでしょうか。自分から始まるなどとは口が裂けても言えない私たちです。自分から始まるのではない。主イエスからまず始まるのです。

私たちが御言葉を聴いてきた箇所ですが、第一三章の最初のところで、主イエスが弟子たちの足をまず洗ってくださいます。そして「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(一三・一四)と主イエスは言われるのです。

第一三章の最初の一節に、すべての源泉が主イエスの愛であったことが記されています。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(一三・一)。この主イエスの愛が、すべての愛の始まりです。私たちも主イエスに倣って、真似をしていく。そのように、主イエスにまず愛されてから、互いに愛し合う道へと進んでいく。逆ではありません。

最後の三五節にこうあります。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(三五節)。主イエスの愛から始まった愛により、お互いに愛し合っている共同体、それが教会です。私たちの教会です。「愛の戒めに生きる」、主イエスの愛に基づき、それが実際になされているのが、教会なのであり、教会に生かされている私たちなのです。