松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年3月20日(日)
説教題「ここにもユダがいる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章21〜30節

イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

旧約聖書: サムエル記上19:9~18

本日の説教の説教題を、「ここにもユダがいる」と付けました。ユダは主イエスの弟子の一人です。その中でも、一番有名になってしまったところがあります。教会に来られることのない人にも、ユダの名前はよく知られています。裏切り者のユダとして知られているのです。

今日の説教題が、教会前の看板に一週間、掲げられていました。「ここにもユダがいる」。通りすがりにこの看板を見た人は、どのようなことを思ったでしょうか。この教会にもユダが、裏切り者がいるのか、そう思われてしまったかもしれません。

しかし教会に来ている私たちも、あまり笑えないところがあります。本当に自分はユダではないと、きっぱり否定できるでしょうか。絶対に主イエスを裏切ることはない、見捨てて逃げるなどということはないと、断言することができるでしょうか。私たちも自分たちの内を見つめて、考えてみなければなりません。

ユダという人物がどういう人物であったのか、ユダの人物像については、教会の内外でかなり多く論じられてきました。ユダの作り上げられた一つの姿は、言うまでもありません、裏切り者としての姿です。場合によっては悪魔の申し子とさえ見なされることもありました。

松本東教会の二階の会議室に、最後の晩餐の絵が掲げられています。最後の晩餐もいろいろな画家たちによって描かれてきましたが、その中の一つの絵です。全部で一三人の人物が描かれています。中央におられるのが主イエス、その両側に弟子たちがいます。これから主イエスを裏切ろうとしているユダは、主イエスと反対側の席にいます。絵としてはユダの背中が見える形で描かれています。主イエスとユダ以外の弟子たちの頭の上には、聖人を表すのでしょうか、輪っかのようなものが描かれています。ところがユダにだけは描かれていません。裏切り者には輪っかなど描く必要はない。それが画家の理解であり、当時の教会の人たちの理解だったのでしょう。

主イエスが十字架につけられた。それはあの裏切り者のユダが悪いのだ。そういう理解ができるかもしれません。それと同じように、主イエスが十字架につけられた、それはユダヤ人たちが悪いのだ、それも一つの理解かもしれません。しかし本当にそれでよいのでしょうか。誰か特定の人だけにその責任を押し付けることで解決できるのか。自分はその罪を免れることができるのか、ということも考えなければなりません。

ある説教者はその説教の中でこのように言っています。今日の聖書箇所の二三節のところに、「主の愛しておられる者」という匿名の弟子が出て来ますが、ユダとこの弟子が正反対の人物として対比されていると言うのです。「ユダの裏切りとイエスの愛しておられた者との対比を明確にしてここに書いていることです。その点に注目したいものです。すなわちユダはサタンに与する、サタンの勢力下に付ける者を意味しているのです。すなわち神について…敵対する存在がユダによって象徴されているのです…」。

私はこの説教を読んで、人間を単純化しすぎだと思いました。ユダを悪い人物として、また「主の愛しておられる者」を善い人物として対比している、と言うのです。本当でしょうか。映画やテレビドラマを観ていると、登場人物でも善い人と悪い人がはっきりと描かれています。架空のお話の世界なので、それはそれでよいのかもしれませんが、現実はそうではありません。善い人、悪い人、私たちもそのようなレッテル貼りをするかもしれませんが、善い人の中にも悪いところがあり、悪い人の中にも善いところがあります。

実際に聖書もそのように人間を理解しています。神によってよき者として造られた人間なのにもかかわらず、罪を犯してしまう。誰もがそうで、例外はありません。使徒パウロも、ローマの教会に宛てた手紙の中で、自分の中に善を行う意志はあるが、悪に引っ張られてしまう、私はなんと惨めな人間なのか。主イエス以外に私を救ってくださるお方はいない、と書いています。

ユダが裏切り者で、悪魔の申し子であるような人物像に反対して、ユダの名誉回復がなされるべきだと主張する考えもあります。ユダが裏切ったことによって、主イエスの十字架が起こりましたので、裏切り者としてのユダの役割も必要だったと考えるわけです。場合によっては、主イエスにこっそりと呼び出されて、私を裏切るようにとあらかじめ言われていたのではないかと考える学者さえいます。

実際にユダについて聖書が語っている箇所は、かなり限られています。なぜユダが主イエスを裏切ったのか、いろいろな理由は推測することはできるでしょうが、それらは推測にすぎません。そのことをあれこれ詮索しても、信仰的に得るところは何もありません。なぜユダが裏切ったのか、ユダがどういう人物像だったのか、聖書はそれを謎のままにしているのですから、私たちも謎のまま、受けとめておく方がよいでしょう。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、主イエスが心を騒がせられたことから始まっています。「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」」(二一節)。ユダの裏切りに対して、主イエスが平然とされていたのではありません。つまり、主イエスが裏でこっそりユダに裏切り者の役割を演じさせていたのではない。主イエスもご自分の弟子が裏切ろうとしていることに対して、平然とはいられなかったのです。

先週の聖書箇所で、ほとんど触れなかった箇所がありました。一八節です。「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」(一三・一八)。本日の聖書箇所にも、それはいったい誰なのかということを尋ねられて、主イエスが「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」(二六節)と答えられています。

ここで問題になっているのは、旧約聖書の詩編第四一編の言葉です。詩編第四一編には、敵という言葉が何度も出てきます。どんな敵だったのかは分かりません。敵のような人物から苦しみ受けている。しかしその敵が最初から敵だったのかと言うと、そうではないのです。「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします。」(詩編四一・一〇)。

一緒に食事をするほどの仲であった者が敵になる。これは非常に苦しいことです。しかも、今日のヨハネによる福音書の箇所では、パン切れを浸すと主イエスは言われています。同じ器から食べていた者が裏切る、敵になる。旧約聖書の言葉がそのように実現をしたわけですが、非常に大きな苦しみが伴うことだったのです。

そういう仲間が敵になることによって、裏切りが起ころうとしていた。それでも弟子たちの誰もそのことに気が付きませんでした。二二節のところにこうあります。「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」(二二節)。二四節にもこうあります。「シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した」(二四節)。ペトロをはじめとして、誰も分からなかったのです。

さらに、ユダが最後の晩餐の席上から飛び出した後でも、何が起こったのか誰も分かりませんでした。「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」(二八~二九節)。

ユダ本人も、パン切れを渡されて、気が動転してしまうところがあったでしょう。「サタンが彼の中に入った」(二七節)とあります。自らの計画に基づいて、冷静沈着に事を進めることができたわけではないのです。しかし主イエスだけが、すべてをご存じであられました。

この聖書箇所の人間の描写を見ますと、人間というのは本当に恐ろしいものだと、つくづく思わされます。ユダの中にサタンが入ったということもそうです。簡単にサタンに取りつかれてしまう。しかしもっと恐ろしいのは、そのような状況にあったことを、隠し通すことができてしまうということです。しかも一緒に生活まで共にしていたのです。自分の内に、一体どんな闇が起こっているのか、周りの人たちにも分からないし、本人さえも本当のところはよく分かっていないのです。けれども、主イエスにだけはそのことを隠せなかった。主イエスはすべてを見抜いておられたのです。

しかしなおも問いは残ります。主イエスはそのようにすべてをご存じであられた。ユダが何を思っていたか、これからどうしようとしていたのか、見抜いておられた。それならなぜ、ユダを止められなかったのだろうか。

一つの合理的な説明は、主イエスが十字架に向かわれるためです。主イエスが十字架にお架かりになる兆候は、すでに見えていました。ユダの裏切りが最終的な引き金になったわけです。主イエスの十字架が起こるために、ユダの裏切りが必要だった。だから止めなかったということです。

しかしもう一つの説明をすることができます。それは、主イエスがユダの自由を重んじてくださったということです。二七節のところで、主イエスがユダにこう言われています。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(二七節)。主イエスを裏切ろうとしていた。そのことをするのです。裏切るという言葉には、引き渡すという意味があります。引き渡す、主イエスをまるで物のように相手に引き渡す。それもユダの自由の枠内に与えられていたのです。主イエスはその人間の自由に身を委ねられた。

私たちにも自由が与えられています。教会に来る、来ない自由があります。洗礼を受ける、受けない自由があります。神に祈る、祈らない自由があります。まことに大きな自由が私たちに与えられています。しかしその自由の中で、人間は罪を犯してきたし、私たちも罪を犯します。主イエスなどという救い主は要らない、そのような形で引き出しにしまうようにして主イエスを引き渡してしまうことさえ起こります。

今日の聖書箇所の最後に、「夜であった」(三〇節)とあります。意表を突くような言葉です。夕食の食事の席でしたので、確かに夜でしょう。しかし「夜であった」という言葉は、この箇所ではなく別の箇所に入れてもよいわけですし、夜であるのは当たり前ですから、入れなくてもよかったはずです。

ヨハネによる福音書で、「夜」という言葉は、深い意味が込められて使われる言葉です。夜の闇にまぎれて主イエスのところにやって来るニコデモという人物もいました。夜の闇はいったい何を表しているのか。ユダは主イエスのもとから、夜の闇に飛び込んでしまいました。姿をくらませてしまいました。それもユダの自由の中で起こった出来事です。

以前の説教でもご紹介をしたことがありますが、ヨッヘン・クレッパーという詩人がいます。先週、教区の集会に出かけた際、本の販売のコーナーがあり、クレッパーの本がありましたので、思わず購入してしまいました。味わい深い詩が収められています。

第二次世界大戦が起こる前の一九〇三年、クレッパーはポーランドの小さな町で、牧師の子として生まれました。牧師になろうと思って神学部に入りますが、文学の道へと結局は進むことになりました。あるとき、ヨハンナというユダヤ人の女性と結婚をします。ベルリンで新たな家庭を築き、文学者としてもそれなりの業績を残すようになります。

ところが、第二次世界大戦に突入してしまう。クレッパー自身はユダヤ人ではありませんでしたが、妻がユダヤ人です。ユダヤ人の妻を迎えたということで、クレッパーは職を追われてしまいます。長女をイギリスに亡命させることはできましたが、次女は幼く手元に残さざるを得なかった。一九四二年、迫害がいよいよ厳しくなります。

いよいよ強制収容所に妻と娘を送らなければならない、そのことが間近に迫る中で、クレッパーたちは自死を選びます。クレッパーの最期の日記が残されています。「午後、国家安全局と交渉。私たちはこれから死ぬ ああ、このことも神のみむねの中にある。私たちは、今夜、一緒に死ぬ。この最後の時、私たちのために闘ってくださるキリストの祝福する像が私たちの頭上に立っている。その眼差しの中で私たちの生は終わるのだ」。

クレッパーは生前、多くの詩を残しました。私が買った本の中にも収められていますが、「聖木曜日のキリエ」という詩があります。聖木曜日とは、主イエスが十字架にお架かりになる前夜の木曜日のことです。ちょうど今日の聖書箇所の出来事が起こった日のことです。キリエというのは、主よという意味ですが、教会の礼拝の中で、「キリエ・エレイソン」と皆が口にする場合があります。「キリエ・エレイソン」、主よ、憐みたまえ。クレッパー自身の礼拝体験の中から培った言葉でしょう。

「聖木曜日のキリエ」の冒頭はこう始まります。「今日、わたしは救い主の食卓に招かれる、パンと葡萄酒と復活祭の小羊の備えられた食卓に。外庭では枝の折れる音がする。もう誰かが十字架の柱とすべく木を切り倒しているのか。キリエ・エレイソン」。

詩の途中に、今日の聖書箇所に関連をすることとして、このようにあります。「主はわたしたちの足を洗い、油を注ぎ、わたしたちに杯を差し出し、パンを裂かれる。そして既にユダの口づけを待つ、わたしが刑を免れるために。キリエ・エレイソン」。

この詩に一貫しているのは、主イエスがすべてのことをあらかじめご存知であったということです。ユダが口づけをしてくることを、すでに待っておられた。すべてを主イエスがご存知の中で、最後の晩餐の食事が行われ、ユダの裏切りがなされ、十字架の出来事が起こった。クレッパーはその信仰を、この詩に表しているのです。

クレッパーは、ナチの迫害の下、自死をしてしまいました。決してクレッパーのしたことは正当化することはできません。しかし誰もクレッパーを責めることはできません。少なくとも、クレッパーは主イエスの祝福が今このときも与えられており、主イエスのまなざしの中で、自分たちの生が終わることを知っていました。

ユダはどうだったか。ユダは残念ながら、夜の闇に飛び込んでしまった。まことに残念ながら、主イエスの祝福とまなざしに気付くことはなかった。主イエスの愛の中にいることを忘れてしまったのです。

ある聖書学者が、今日の聖書箇所の注解として、繰り返し強調していることがあります。それは第一三章一節の言葉です。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(一三・一)。この聖書学者は、今日の聖書箇所の注解をしながら、しかし聖書箇所を飛び越えて、一節へと何度も繰り返し戻っていくのです。

このことは、この聖書箇所を読む私たちに、大事な読み方を教えてくれていると思います。この一節の言葉は、先々週の説教でも触れましたが、主イエスが私たちを深く愛しておられることを、非常に強調している言葉です。元の言葉として「終わりまで」という意味が含まれています。つまり、主イエスの愛が終わりまで注がれているのです。あのユダに対してもです。

ある説教者が、今日の聖書箇所の説教で、このように言っています。「愛し愛されるということのなかには、いつも裏切りの可能性が潜んでいます。それと戦うのです」。私たちの内にも、この可能性が潜んでいるのです。愛をまっとうできない、愛に破れるとは、厳しい言い方をすれば愛を裏切ることです。愛し、愛されることは、私たちの戦いでもあります。

しかし私たちは自分たちだけで、この戦いを戦う必要はありません。主イエスが私たちに先立って戦ってくださるのです。ある牧師が、ユダについてこう言っていたのを、私は忘れることができません。「主イエスが十字架にお架かりになり、死んで葬られ、陰府に降られた。その陰府で、ユダを捜したのかもしれません」。驚くような言葉です。しかし主イエスの最後まで貫かれる愛を考えれば、決してそれは間違いではありません。むしろ愛に破れてしまう私たちの希望が、主イエスの愛の中にしかないのであります。