松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年3月13日(日)
説教題「キリストの真似をする」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章12〜20節

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

旧約聖書: 詩編15

教会の暦では、来週から受難週に入ります。受難週は、主イエスが十字架にお架かりになって受難をされた一週間のことです。どこの教会でも、この受難週にいろいろな集会が行われますが、松本東教会でも受難週の特別な集会を行っています。いつもの水曜日の朝と木曜日の夜の祈りの会ではなく、木曜日の夜に洗足木曜日聖餐礼拝を行います。主イエスが十字架にお架かりになった金曜日の午前中には、受難日祈祷会を行います。そのようにして、主イエスの十字架を覚えるのです。

木曜日の夜に行われる礼拝を「洗足木曜日」の聖餐礼拝と言っています。他の教会でもこういう呼び方をする教会が多いと思いますが、教会によっては「聖木曜日」と言う場合もあります。この木曜日の夜がなぜ特別なのかと言うと、言うまでもないかもしれません。主イエスが十字架にお架かりになる前夜に、弟子たちと共に最後の晩餐を祝われたのです。そのときに、パンと杯に与るようにと、聖餐を定めてくださいました。ですから、木曜日の夜に何よりも主イエスがなさった大きな出来事は、聖餐の祝いのことです。

この聖餐の記事は、私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書には記されていません。しかし多くの人が指摘をしているように、聖餐の出来事は、すでにヨハネの教会で前提になっていたようです。むしろヨハネによる福音書の著者は、聖餐の出来事を前提として、洗足の出来事を記してくれました。

聖餐の出来事と、洗足の出来事は、違う出来事と言ってもよいのかもしれませんが、実は同じ事柄を表しています。聖餐は、主イエスがご自分の肉を裂き、血を流してくださったことを覚えるためのものです。洗足は、主イエスが私たちの足を洗ってくださったのです。この二つはどちらも、私たちの罪が赦されるように、洗い流されるようにという、同じ出来事を表しているのです。

私たちの松本東教会の聖餐式では、長老が配餐をして皆様のところにパンと杯を運びます。配餐が終わり、パンと杯に与った後、担当の長老が感謝の祈りをします。決まった言葉があるわけではありません。自由祈祷です。自由に祈ってよいわけですが、長老への手引きとして、次の三つのことを含めて祈って欲しいと言っています。

第一に、感謝です。罪人の私たちを招き、聖餐に与らせていただいたわけですから、当然、感謝を祈ることになります。第二に、献身です。聖餐の恵みをいただいたわけですから、罪赦された者として、神の恵みに応えて私たちが生きることができるように、私たち自身を神にお献げすることができるように、その献身を祈っています。第三に、執り成しです。この場に一緒にいながら聖餐に与ることができなかった方のために、様々な事情のために教会に来ることができず、一緒に聖餐に与ることができなかった方のために祈る。これが執り成しです。

今日の聖書箇所では、特に第二のことが重要になってくると思います。献身です。先週の聖書箇所は、第一三章一~一一節でした。主イエスが弟子たちの足を次々と洗ってくださった。ペトロとのやり取りがありました。そしてすべての弟子たちの足を洗い終えられた。それがひと段落し、今日の聖書箇所の一二節が続いていきます。「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。」(一二~一三節)。

その後のところで、主イエスの言葉がこのように続いていきます。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(一四節)。

一三節に出てくる「先生」という言葉と、一四節に出てくる「師」という言葉は、元の言葉では同じ言葉です。一三節は呼びかけの形ですから、「師匠!」と訳すよりも「先生!」と訳した方が、今の日本語としてしっくりくるのでしょう。一四節の「師」という言葉も「主であり『先生』であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから…」としてもよいのでしょうが、なんとなく力強さが失われるような感じがします。

いずれにしても、主イエスが「師」である、あるいは「先生」であるということに関して、皆さまはどのようなイメージを抱かれるでしょうか。どのような師匠であり、どのような先生でしょうか。現代において、先生というと、まず学校の先生を思い浮かべます。あるいは、習い事をする際に誰かから習うわけですが、その人のことを、かしこまって師匠と言うこともあるかもしれませんが、先生とたいていは呼びます。現代においては、講義や手ほどきを受けて、何かを教えてくれるというイメージが強いかもしれません。

もちろん、主イエスもそのような師であり、先生であると考えることができます。しかしそれだけでしょうか。昔の時代の師匠や先生というのは、今とは少し違うところがあるかもしれません。先生と生徒はどのような関係になるか。師匠と弟子はどのような関係になるか。多くの場合、行動を共にするのです。単に講義や手ほどきを受けるだけではない。一緒に歩みを共にし、場合によっては寝食を共にし、弟子は師匠のすべてを吸収する。弟子は師匠の真似をするのです。

主イエスもしばしば「先生!」と呼ばれました。同じ「先生」あるいは「師」という言葉は、ヨハネによる福音書に六回使われています。そのうちの二回は、今日の聖書箇所の一三節と一四節です。

他の四回はどうか。洗礼者ヨハネに従っていた二人の弟子が、主イエスと出会い、主イエスの弟子になるわけですが、彼らはこう主イエスに尋ねました。「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」(一・三八)。また、あるとき律法学者とファリサイ派の人たちが姦通の女を主イエスのところに連れて来て言います。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました」(八・四)。

主イエスの友ラザロが死んでしまったときに、姉のマルタが妹のマリアに言います。「先生がいらして、あなたをお呼びです」(一一・二八)。主イエスの墓に赴いたマグダラのマリアが、復活の主イエスに出会い、ヘブライ語で「ラボニ」と言います。これが「先生」という意味です(二〇・一六)。

このように今日の聖書箇所を除くと、四回がすべて主イエスに対する「先生!」という呼びかけです。姦通の女を連れて来て主イエスを陥れようとした律法学者とファリサイ派の人たちは別にして、「先生!」と呼びかけた人たちにとって、主イエスは単なる先生ではありませんでした。主イエスの弟子として、主イエスに倣う者たちだったのです。

主イエスは弟子たちに、今日の聖書箇所で自分の真似をしなさいと言われます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(一五節)。

主イエスは模範として、まず足を洗ってくださった。単に弟子たちの足が汚れていて、かわいそうだと主イエスが思ってくださったからではありません。特に先週の説教で御言葉として私たちが聴きましたのは、主イエスが私たちの罪を洗い流してくださったということです。私たちは自分で自分の罪を洗い流せない。しかし主イエスが私たちの罪を洗い流してくださった。それが足を洗うということです。

この文脈で考えると、互いに足を洗い合いなさい、これはどういうことになるでしょうか。普通に考えれば、イコール、互いに罪を赦し合いなさい、ということになります。

私たちは主の祈りをしています。主イエスがこのように祈れと教えてくださった祈りです。その主の祈りの中で、私たちはこのように祈っています。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪を赦し給え」。分かりやすく言うと、こういうことです。「私たちに罪を犯した者を私たちが赦すように、私たちの罪を赦してください」。

主の祈りの言葉は、マタイによる福音書とルカによる福音書の中に記されていますが、特にマタイによる福音書では、こう書かれています。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように」(マタイ六・一二)。もう赦してしまった、赦し終わったと言っているのです。赦したことが前提となっているのです。

これを聞くと、とんでもない、私はとても人を赦せないと、私たちは思います。しかしこれは主の祈りです。主イエスが一緒に祈ってくださる祈りです。その主イエスがすでにその人のことを赦しておられる。その赦しの中で、私たちも赦したし、お互いに赦し合うことができる。互いに足を洗い合いなさいという主イエスのご命令は、そういうご命令なのです。

「互いに」という言葉が、とても重要であると思います。他の教会での話ですが、こんな話を聞いたことがあります。ある教会員がいました。とても熱心に、一生懸命奉仕をなされる方です。見えるところ、見えないところでも、実に多くの奉仕を担い、教会を支えていた方です。最初は喜んで奉仕をしていました。しかしだんだんと、その奉仕から喜びが失われた。なぜか。一生懸命やっているのに、誰も報いてくれないような気がする。そのような思いにとらわれてしまい、だんだんと人を裁くようになってしまった。自分はこんなに一生懸命やっているのに、牧師や教会員はちっとも自分のことを尊重してくれない。そのように人を裁く、罪を犯してしまったのです。

ところがあるとき、その人は自分のために、教会の複数の人たちが祈ってくれていることを知ります。自分は奉仕をしているばかりで、誰も報いてくれないと思っていましたが、実は祈られていた。自分がしてばかりいると思っていたら、実は自分も人から祈られ、支えられ、人からしてもらっていた。そのことに気付き、その人は悔い改めました。

その人は奉仕をたくさんしていました。今日の聖書箇所の言葉で言えば、人の足を洗ってばかりであったことになります。しかし実は自分も足を洗ってもらわなければならなかった。「互いに」という主イエスの言葉を、私たちも大事にしたいと思います。私たちも互いに足を洗い、洗われ、赦し、赦され、支え、支えられ、仕え、仕えられるのです。

一六節から一七節にかけて、こうあります。「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」(一六~一七節)。「はっきり言っておく」というのは、ヨハネによる福音書でしばしば出てくる表現で、アーメンという言葉が二度重ねられています。主イエスが大事なことを言われるときに、使われる言葉であり、今日の聖書箇所の二〇節にも出てきます。

主イエスは、大事なこととして、何を言われているのでしょうか。二つのことを言われています。僕は主人に勝らないこと、遣わされた者は遣わした者には勝らないことです。いずれも、弟子である私たちが、師匠である主イエスには及ばないということです。これは当然のことです。

この一六節を受けての一七節が大事です。「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」(一七節)。新共同訳聖書の翻訳として、少々問題があると私は思っています。「このこと」とありますが、これは複数形ですので、「これらのこと」です。これらとは、主イエスが一六節で言われた二つのことです。そして「そのとおりに実行するなら」と訳されていますが、「そのとおり」などという言葉はなく、単純に「それを実行するなら」です。それとは、互いに足を洗い合うことです。

「この」とか「その」とかになっていますので、分かりにくいかもしれません。分かりやすく言うと、こうなります。「私たちが主イエスに及ばないことが分かった上で、互いに足を洗い合うならば、幸いである」。私たちが主イエスに及ばないのは当然のことです。主イエスと同じようにすることはできない。しかしそれが分かった上で…。言い換えると、主イエスが足を洗ってくださる、赦してくださる、そういう大きな模範の中で、たとえ失敗したとしても、それを行うならば、それは何と幸いなことか、主イエスはそう言われるのです。

一八節から一九節にかけて、主イエスの言葉が続いていきます。「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」(一八~一九節)。

ユダのことについては、特に来週の説教で詳しく触れる予定です。この箇所についても、来週の説教で取り上げることになるでしょう。主イエスは自分を裏切ることを知っていたユダの足をも洗ってくださった。しかし、ユダは残念ながら、主イエスが一七節で言われている幸いを、得損なってしまったのです。

最後の二〇節にこうあります。「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(二〇節)。「わたしの遣わす者」というのは、主イエスの弟子のことです。私たちもここに含まれます。私たちが受け入れられれば、それは主イエスを受け入れたことになる。主イエスを受け入れたことになれば、父なる神を受け入れたことになる。主イエスはそういう流れで語られています。

なぜこのような流れになるのか。それは私たちがキリストの真似をしているからです。キリストの真似をしている私たちが受け入れられれば、それはキリストが受け入れられたことになる。私たちも師匠であるキリストに倣い、キリストの真似をすればよいのです。一人でやるのではありません。お互いに足を洗い合うのです。赦し合うのです。仕え合うのです。そのような歩みをする者たちを、幸いな者よ、とキリストが言ってくださるのです。