松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年3月6日(日)
説教題「汚れし我を、洗い清め給え」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第13章1〜11節

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

旧約聖書: 詩編51:7~11

聖書は愛の書物であると言われることがあります。聖書の中に、特に新約聖書におおいてそうですが、愛という言葉がたくさん出てきます。愛とはいったい何なのか。神が私たちを愛してくださるのか。愛するにはどうしたらよいか。愛を知りたければ聖書を読めばよいのです。

もちろん、聖書は「神は愛なり」、その言葉ですべてが埋め尽くされているというわけではありません。愛という字がまったく出てこないような箇所もあります。一見すると、愛とは正反対のことが言われているのではないか、そう思われるような箇所もあるかもしれません。しかし愛という字が出てこなかったとしても、やはりすべてが愛に結びついている。聖書の源泉が神の愛なのです。

特に、本日、私たちに与えられたヨハネによる福音書の箇所はそうです。はっきりとすべての源が愛であったことを記しています。今日から第一三章に入りました。ヨハネによる福音書の中で、新たな区分に入ったと言えます。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り…」(一節)。父なる神のもとに主イエスは帰還されます。単なる帰還ではありません。十字架の死を死なれ、復活された後に帰還されるのです。

その新たな区分が、愛から始まります。一節の後半はこうです。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(一節)。主イエスは誰のことを愛しておられるか。私たちが用いています新共同訳聖書では「弟子たち」となっています。しかし元の言葉は、弟子という言葉はありません。直訳すれば「自分の者たち」という言葉です。新共同訳以外のほとんどの聖書では「世にいる自分の者たちを愛して」というようになっています。主イエスの十二人の弟子限定というわけではありません。

それでは、主イエスはどれほど愛しておられたか。「この上なく愛し抜かれた」とあります。これも普段、私たちが使うような表現ではありません。そこまでして愛し抜くことが、私たちには難しいからです。

元の言葉では「終わりまで」という言葉が使われています。ある聖書学者がこの「終わりまで」を解説して、このように言っています。「この終わりまでというのは、時のことも表すし、質のことも表している」。時が続くときまで、最後の最後まで、つまりいかなる時も主イエスが愛してくださると理解することもできますし、愛の質においても最も深く愛してくださることが言われているのです。

「この上なく愛し抜かれた」という訳のし方は、いろいろな訳し方がありまして、かつての口語訳聖書では「最後まで愛し通された」とあります。さらに古い文語訳聖書では「極まで之を愛し給へり」となっていました。新改訳聖書もなかなか素敵な訳で「その愛を残るところなく示された」とあります。つまり、出し惜しみするような愛ではなく、徹底的に与え尽くす愛を注いでくださったのです。

今日の聖書箇所のまず始めのところで、愛が語られる。今日の聖書箇所を貫いているのが主イエスの愛です。どんな展開になろうとも、主イエスの愛は変わることがない。今日の聖書箇所だけでなく、新たな区分に入ります第一三章以降、すべてに愛が貫かれています。主イエスの愛が源泉なのです。

その主イエスの愛が語られた直後の二節に、こうあります。「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」(二節)。ユダが裏切ろうとしていた。愛とは正反対の裏切りのことが記されています。

ユダのことは、来週も再来週も聖書箇所に出てきますので、改めて触れる予定でいます。裏切り者ユダ、そういうレッテルですっかり有名になってしまったユダですが、ユダはいったいいつから裏切りを企てていたのでしょうか。聖書を読む限りでは、あまりその境目はよく分かりません。

考えてみますと、人間の心は複雑です。単純ではありません。一つの思いだけを抱いているわけではありません。昨日はそう思っていたけれども、今日はこう思っている。まるで心が一つだけではなく、いくつも持っているような感じに人間はなります。まして自分の師を裏切るというのは、並大抵のことではありません。

ユダも最初から裏切ることを考えて弟子になったわけではないでしょう。主イエスに期待しているところがあったはずです。しかしどうも期待通りではないかもしれない。そう思い始め、心が揺れてしまった。それでもこの師匠についていくべきか、それともこっそり立ち去るか、別れを告げて立ち去るか、裏切るか…。いろいろなことを考え、心が割れてしまったのでしょう。

二節の聖書箇所の読み方も大事になってきます。「既に悪魔は…抱かせていた」とあります。ユダ自らが考えついたのではなく、悪魔にそそのかされた。やがて御言葉を聴くことになります二七節では「サタンが彼の中に入った」とあります。ユダは揺れ動いていた。そして最後にサタンが入って、裏切るという決定的な事を起こしてしまったのです。

しかし主イエスはそれもご存じでした。ヨハネによる福音書の第六章七〇節以下にこうあります。「すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(六・七〇~七一)。

ユダがこういう人物であるということを分かりながらも、主イエスはユダと歩みを共にされてきました。十字架の直前まで、一緒に食事をしていた。その食事の席で、洗足の出来事が起こりました。ユダの足も洗われたのです。洗足の様子がこのように記されています。「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」(四~五節)。とても静かな光景として書かれています。誰も会話をする者がなく、主イエスが足を洗われる水の音だけが聞こえてくるかのようです。

ところで、カトリック教会のローマ法王による「洗足式」と呼ばれる式が行われているようです。伝統的な行事であり、古くは国籍の異なる十二人の司祭たちが、ローマのヴァチカンに招かれ、ローマ法王自らが屈んで、その十二人の足を洗うのだそうです。最近では、聖職者の司祭たちではなく、ローマに住むカトリック教会の男性信者の十二人が招かれるようになったようです。

そしてさらに、今のフランシスコ法王になった二〇一三年に、こんな出来事がありました。それまではヴァチカンに十二人が招かれていましたが、この年はローマ法王自らがローマの少年院に出向いた。外に出向いたのは初めてだそうです。そして、十人の少年と二人の少女の合計十二人の足を洗ったそうです。「洗足式」で女性が選ばれたのも初めて、さらに少年の十人のうち、一人か二人がイスラム教徒だったそうです。そのニュースを報じている記事の最後のところに、こうありました。保守的な考えをする人からの批判があるのではないか。物議を醸すのではないか、と。

しかし実際はそれほど物議を醸さなかったのではないかと思います。私もこのニュースのその後を丁寧に追っていたわけではありませんが、カトリック教会内で大問題になったような話は聞こえてきません。物議を醸さなかったということは、それはそれで正しい事の成り行きだったと思います。なぜなら、今日の聖書箇所が「洗足式」の根拠となるわけですが、主イエスが十二人の足を洗ったその中に、主イエスを裏切ることになるユダがいたからです。

フランシスコ法王は、二〇一三年のときに、「頂点にある者は、人々に奉仕しないといけない。これは私の義務であり、心から喜んで行う」と言ったそうです。「頂点にある」というのは、いかにもカトリック教会らしい言葉で、少なくともプロテスタント教会では使わない言葉だと思いますが、しかし主イエスも、上に立つ者は下に立って仕えなさいと言われました。フランシスコ法王も主イエスに倣い、自らが率先するという思いがあったのでしょう。

奉仕をする、仕えるときには、上も下も関係なくなります。むしろ下に立って仕えるのですから。誰も、自分は下の立場だから仕えてもらうだけで、仕える必要はないとは言えない。まして、主イエスはご自分の弟子たちの足を洗ってくださったのです。ユダが裏切ることを知りながらも、主イエスは屈んでユダの足まで洗ってくださったのです。

その十二人の弟子たちの足を洗っている最中、ペトロの順番になりました。何番目だったのかはよく分かりません。最初ではなかったようです。そのペトロの番になったとき、ペトロは沈黙を破り、言いました。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」(六節)。主イエスは答えて言われます。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(七節)。

「今」と「後」という言葉が対になっています。今は分からない。しかし後で分かるようになると主イエスは言われます。今は分からない、これは良いとして、後で分かるようになる。それでは後とはいつでしょうか。聖書学者の人たちは、いろいろなことを考えています。

後とは、もうそのあとすぐのことで、第一三章の後半で分かったと考える聖書学者もいます。例えば一四~一五節で、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と主イエスは言われています。足を洗った意味をすぐに明らかにしてくださったので、そう考える人もいます。

また、別の考えとしては、主イエスの十字架と復活の出来事の後と考える聖書学者もいます。足を洗うというのは象徴的な行為で、主イエスが十字架にお架かりになって私たちの罪を拭ってくださった。そのことが十字架と復活の後で分かった。そう考える人もいます。

さらには、十字架と復活のさらに後になって、弟子たちに聖霊が注がれます。主イエスも「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(一四・二六)と言われます。聖霊が注がれて、初めて弟子たちも分かった。そう考える人もいます。

いろいろな考え方がありますが、はっきり言って決定打はありません。少年院の少年・少女たちもローマ法王に足を洗ってもらいました。いつか分かるときがやって来るかもしれません。しかし後から振り返ってみて、いつ分かったか、その境目をはっきりさせるのは難しいことです。

私たちもかつては分からないことだらけでした。聖書に愛という言葉が書かれている。しかしその愛とはどのような愛なのか、そのことは分からなかったのです。主イエスがなぜ十字架にお架かりになったのか。なぜそのことが私の救いになるのか。そのことも分からなかったのです。しかしいつの間にか分かった。洗礼を受けて、教会生活をしている。今となって、いつ分かるようになったのかと言われても困るのです。聖霊によって分からせていただいた、そう言わざるを得ないのかもしれません。

ペトロはこのとき分からなかった。八節から九節にかけて、ペトロと主イエスとのやり取りが記されています。「ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」」(八~九節)。

先生であるあなたが、弟子である自分の足など洗わないでくれ、ペトロの正直な思いが洗われています。しかし主イエスから思いがけない答えが返ってきました。もし洗わないなら、まったくかかわりがなくなる、と言われてしまったのです。ペトロも慌てました。足だけではかかわりが不足するかもしれないから、手も頭も…、そう言ったのです。しかし主イエスは言われます。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」(一〇節)。足だけであるとはいえ、主イエスによって洗っていただいたのだから、何も不足することはないのです。

「足を洗う」ということは、日常でも使われることがあります。慣用句として、すっかり定着しているでしょう。しかし日本語として使われている意味と、聖書での意味はまるで違うのです。

「足を洗う」という慣用句が意味しているのは、あまりよろしくない仕事を辞めるということだったり、悪しき道から正しい道へ行くというようなことを意味しています。その語源は、お坊さんが世俗の世界を回って来て、お寺へ帰る。その際に自分の足を自分で洗い、清めてから修行に入るのです。「足を洗う」とは、つまり自分で自分の足を洗うのです。

ところがその点、聖書ではまるで意味が違います。自分で足を洗うのではないのです。まず、主イエスが足を洗ってくださいました。そして、来週の聖書箇所で特に主イエスが言われていますが、お互いに足を洗い合う。まず主イエスが足を洗ってくださったことから出発するのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第五一編です。この詩編は、ある出来事が元になっています。ダビデ王の歌として詠まれていますが、そのダビデの出来事です。ダビデはあるとき、美しい女性に目をとめます。自分の部下の兵士の妻でした。ダビデはこともあろうに、その兵士を戦場の一番激しいところに送り込み、戦死させてしまうのです。そして夫を失ったその女性を、自分の妻として引き取る。ダビデはそんなことをしてしまったのです。

王に対して、誰もその罪を指摘できなかったのかもしれません。しかしナタンという預言者がダビデ王のところに遣わされます。譬え話を用いながら、はっきりとダビデの罪を指摘します。ダビデはどうしたでしょうか。「わたしは主に罪を犯した」(サム下一二・一三)と言ったのです。神さま、ごめんなさいと言ったのです。

そのときの悔い改めを表した歌が、詩編第五一編です。「わたしを洗ってください」(五一・九)と言っています。自分で洗います、とは言わないのです。自分で自分のことを洗えないことがよく分かっていたのです。さらに「わたしの内に清い心を創造し」(五一・一二)と祈っています。「創造」という言葉が使われています。天地創造、人間の創造と同じ言葉です。神がお造りになることです。清い心は、神にしか創造できないことをよく知っていたのです。

ダビデの祈りは、私たちの祈りでもあります。自分で自分を洗い清められない、それが主イエスの弟子たちであり、私たちです。今日の聖書箇所の最初の一節で「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありました。元の言葉が「弟子たち」ではなく「ご自分の者たち」であると、説教の冒頭で申し上げました。十二人の弟子たち限定ではありません。ユダも含まれていました。私たちもここに含まれているのです。主イエスが最後まで愛し抜いてくださるのです。

この後、讃美歌三三九番を歌います。このように歌い始めます。「君なるイエスよ、けがれし我を、洗いきよめて、めぐみを賜え」。私たちの心からの讃美として、歌いたいと思います。