松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年2月28日(日)
説教題「救いと裁き」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第12章44〜50節

イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

旧約聖書: 申命記18:15~22

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところに、主イエスが叫ばれたことが記されています。「イエスは叫んで、こう言われた。」(四四節)。皆さまは最近、叫ばれたことがあるでしょうか。いったいどのようなときに叫ぶことになるでしょうか。聖書の中でも、主イエスが何度か叫ばれる、あるいは大声で言われる場面が出てきます。それらの箇所でいずれも共通しているは、主イエスが大事なことを伝えようとされているということです。

今日の聖書箇所もそうです。主イエスが大事なことを弟子たちに伝えようとされている。この四四節に関しては、多くの聖書学者たちが様々な指摘をしています。どういう指摘かと言うと、文脈のことです。前の聖書箇所とのつながりのことです。

先週の聖書箇所は、このひとつ前のところでありました。三六節後半にこうあります。「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」(三六節)。「彼ら」とは群衆のことです。主イエスは公衆の面前から姿を隠され、弟子たちとの時間を過ごされます。今日の聖書箇所は第一二章の終わりの箇所で、来週から第一三章に入ります。

第一三章から第一七章は、主イエスが十字架にお架かりになる直前の木曜日の夜の話で、いわゆる最後の晩餐の席上での話でもあります。第一七章で主イエスが祈られ、第一八章に入ると弟子の一人のユダが裏切り、主イエスが逮捕されてしまいます。第一九章では主イエスの十字架が起こります。

これからのヨハネによる福音書はこのように流れていくわけですが、今日の箇所からしばらくは主イエスと弟子たちとの時間が続きます。その弟子たちに対して叫んで言われるのです。弟子たちも何百人もいないわけですから、叫ぶ必要などなかったのではないか。むしろ三六節前半と四四節とをつなげて、弟子たちにではなく群衆に叫んだと読んだ方が正しいのではないか。聖書学者たちはそのように指摘をするのです。

しかし主イエスが叫ばれた相手が、群衆だろうと、弟子たちであろうと、主イエスが大事なことを言われたからこそ、叫ばれたのです。特に先週の箇所のつながりから言えば、四三節にこうありました。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」(四三節)。

なぜ主イエスを信じられなかったのか。その理由がここに書かれているのです。神からの誉れではなく、人間からの誉れを求めてしまったから。心の中で少しは主イエスのことに惹かれていたとしても、人間の目を気にするあまり、ついには信じることができなかった。公に言い表すことができなかった。そういうことが、四三節までに書かれました。

そして四四節、主イエスが叫ばれた。主イエスの思いとしては、信じない者ではなく、信じる者になりなさい、そう強く思われたのでしょう。だから、たとえ少数の弟子たちしかいなかったとしても、主イエスの声が大きくなった。今日の聖書箇所に記されていることは、主イエスがどうしても弟子たちに訴えたいことだったのです。

そういうわけで、今日の聖書箇所には、私たちが信じることができるための秘訣が書かれているのです。まず、四四~四五節の主イエスが叫んで言われたお言葉です。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」(四四~四五節)。主イエスを信じることが神を信じることであり、主イエスを見ることが神を見るのと同じことであると言われています。主イエスと神がイコールなのです。

このことは、私たちの信仰にとって、決定的に重要なことです。私は牧師として、ほとんど「キリスト教」や「宗教」という言葉は使いません。私たちの信仰を、単なる宗教の一つにすぎないものとして、表すことができないからです。しかし教会の外部では、そのように見られてしまうことも多いでしょう。特に現代ではそうかもしれません。

最近、時々言われるようになったのは、いろいろな宗教があるけれども、宗教は結局どれも同じであり、同じ頂上に辿り着くのだ。頂上に至る登山ルートがいろいろあるだけなのだ。そんな意見を聞くことがあります。まるですべての宗教が分かっているかのような、そんな意見ですが、それは本当に正しいのでしょうか。私は、まったくそうは思いません。もしも頂上が同じであるとするならば、その頂上には具体的に何があるのでしょうか。誰がいるのでしょうか。頂上に至ったらどうなるのでしょうか。それぞれの宗教の目的も違うはずですし、頂上も違うと思います。

もっと違うのは、山があるとするならば、山の登り方です。山登りなどと言うと、特別なことをしているようですが、山を登るためにはどうすればよいのでしょうか。自分の力で登れるのでしょうか。その点で、聖書はかなり人間を悲観的に見ているところがあります。自分で山は登れないのです。

もちろん聖書は、人間は神によってよきものとして造られたとあります。しかしそのよきものがおかしくなってしまった。神と人との関係も壊れてしまい、人間同士の関係もおかしくなってしまった。それを聖書では罪と言います。その罪に堕ちた人間が、自分から神を知ることができなくなってしまった。山に登ることができなくなってしまった。したがって、人間が少し心の持ち方を変えればよくなる、などとは言わないのです。その点は、いわゆる諸宗教が言っていることとはだいぶ違います。

人間は自分で自分を救えない。あるいは誰が別の同じ人間によって、あるいは何らかの物によって救われることはできない。まことの神を知っておられ、まことの神であるお方に救っていただくしか道はないのです。これが唯一の道です。主イエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)。やがて御言葉を聴くことになるヨハネによる福音書第一四章で、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。唯一の道そのものである主イエスを信じる、これが決定的に大事になるのです。

続けて四六節で主イエスは言われます。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(四六節)。主イエスを信じる者には光が与えられます。逆に信じなければいつまでも闇の中に置かれることになります。

その次の四七節が、特に私たちの信仰生活にとって大事です。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(四七節)。「守る」という言葉が使われています。今までに話してきたことは、主イエスを信じることが決定的に大事だということです。それでは主イエスを信じるにはどうすればよいのか。主イエスがいろいろなことを語ってくださいました。その言葉の意味を理解し、その言われたことを守るということでしょうか。

もちろんそれは大事なことです。洗礼を受け、キリスト者になる。主イエスに従う者になる。主イエスの言葉を守ろうとする。しかし主イエスの言われた通りにはとてもできない。洗礼を受けてキリスト者になった後もそうなのです。主イエスの言葉を守れない。私たちはそのことで悩むのです。

この四七節とは反対のことが、四八節で言われています。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」(四八節)。今度は主イエスを信じない者たちのことです。主イエスを信じないとはどういうことか、そのことが丁寧に語られています。それは、主イエスを拒み、主イエスの言葉を受け入れないことです。

四七節と四八節を丁寧に読むと、こういうことが分かってきます。主イエスを信じる、信じないというのは、主イエスの言葉を聞くか、主イエスの言葉を受け入れないか、それに懸かってくるということです。主イエスの言葉を聞くことが信じることであり、主イエスの言葉を受け入れない、つまり本当に聞こうとしないことが信じないことです。それを守れるかどうかはまた別問題です。

何よりも聞く、受け入れる。聖書の別の箇所にも記されていることですが、信仰は聞くことによって、それもキリストの言葉を始まるのです。この教会にたくさんの子どもたちが集っていますが、子どもたちも聞くことによって始まります。もちろん、やがては信仰を得て、信仰者として歩んでもらいたいと願っていますが、その出発点にあるのは、キリストの言葉を聞くことなのです。

同じ四七節と四八節に、「裁く」「救う」という言葉もあります。裁くと救うは反対の意味のように思えますが、どのようなイメージを抱かれるでしょうか。先週の日曜日、松本キリスト教協議会(MCC)の一致礼拝がありました。教派を超えた、松本近辺の一〇教会の集いです。今年の一致礼拝の会場となったのは、聖十字教会ということです。今年度、改修工事がなされたばかりの会堂でありました。私たちの教会とはだいぶ雰囲気が違うかもしれません。

会堂の至るところに、教会員の方が描かれた模写の絵画が飾られていました。ひときわ目についたのが、礼拝堂左前方にあります、ミケランジェロの「最後の審判」の模写の絵です。実物はローマのヴァチカンのシスティーナ礼拝堂というところにある縦一四メートル、横一三メートルの巨大な絵ですが、模写の絵は縦と横が二メートルずつくらいの絵でしょうか。それでも大きなものです。

ミケランジェロの「最後の審判」は、マタイによる福音書やヨハネの黙示録など、もちろんのことですが聖書をもとにして描かれた絵です。しかしそれだけではなく、他の様々なものがこの絵の中に取り込まれました。なにしろ聖書は文字だけですから、ミケランジェロもいろいろなことを想像して描かなければなりませんでした。

例えば、ダンテという人が『神曲』という詩のような本を書きましたが、その中の地獄篇を参考にして絵を描いたと言われています。また、ミケランジェロ自身の姿を絵の中に描き入れたり、若いころに説教を聴いたサヴォナローラという修道士の姿も描き込んでいます。ギリシア神話での日本的に言う三途の川も描かれています。

また、ミケランジェロが絵を描いている途中、裸体が多すぎると批判をしてきた人物がいました。あまりにもしつこくそう言われたのでしょう。そのことを根に持ったミケランジェロが、批判をしてきた人物の顔を地獄の番人として描いてしまった。慌ててその人が教皇になんとかしてくれるように頼みますが、自分は地獄では何の権威もないと教皇から笑って一蹴されてしまい、そのままの顔がそこに残ってしまったという逸話もあるくらいです。

人間が聖書に書かれている裁きをイメージするときに、いろいろなものが入り込みます。聖書的でないものも入り込みます。日本人も日本人ならではのいろいろなイメージが入り込むことでしょう。聖十字教会で座った私の席が、ちょうどその「最後の審判」の絵が真ん前にあるような席でした。私は一度限りそこに座っただけですが、毎週、ここに座った人は一体どのようなことを考えて礼拝をするのだろうか、ふとそう考えてしまいました。裁きを恐れながら礼拝をするのだろうか。しかし違うと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の主イエスの言葉は、私たちを恐れさせる言葉ではありません。むしろ私たちを救う言葉です。今日の説教の説教題を「救いと裁き」と付けました。救い、裁き。どちらが先頭に来てもよかったのかもしれませんが、しかし救いと裁きです。救いの光の中で、裁きを考えることができるのです。主イエスもまず四七節で救いを語り、四八節で裁きを語られました。その順番が案外、大事かもしれません。

ヨハネによる福音書の中に、救いと裁きが今日の箇所と並んで明確に語られているところがあります。有名な第三章一六節以下の箇所です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(三・一六~一九)。

主イエスが来られたのは救いのためであり、主イエスを信じる者は裁かれない。しかし主イエスを信じないということは、もうすでにそれが裁きになっている。今日の箇所と同じことを主イエスは言われています。

主イエスが来られ、主イエスが言葉を語られる。その言葉を、後は受け入れるか、受け入れないか、それだけです。守るか、守らないか。守れるか、守れないか。それはまた別問題です。受け入れるか、受け入れないか。その結果で、裁きがはっきりする。主イエスの言葉を受け入れるならば、「わたしはその者を裁かない」と主イエスが約束してくださる。裁かないということは、赦すということです。守ることができなかったとしても、赦してくださるということです。

四九節に、主イエスが父なる神から命じられた通りの言葉を、語っていることが言われます。「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」(四九節)。

そして今日の聖書箇所の最後の五〇節にこうあります。「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」(五〇節)。「命令」とありますが、本当は「掟」と訳した方がよい言葉です。掟、戒め、命令ということです。

この掟という言葉が、ヨハネによる福音書でこれから何度か出てきます。「あなたがたに新しい掟は与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(一三・三四)。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(一五・一二)。

主イエスはこれらの箇所で「新しい掟」「わたしの掟」と言われています。いずれもその掟の要は「愛」です。主イエスが私たちを愛してくださった。その愛によって互いに愛し合う。それが掟です。今日の聖書箇所で言われている永遠の命と愛が結びつくのです。

ところで、「永遠の命」とは何でしょうか。分かるようで実態をつかみにくいところがあります。永遠の命は、英語で言うと“eternal life”です。この“life”という言葉は、非常に単純なようで、日本人にはなかなか難しいところがあると思います。“life”を日本語にどう訳したらよいでしょうか。「命」と訳せます。しかしそれだけでなく「生」、あるいは「生活」とも訳せます。仕事を退職した後のことを「セカンドライフ」と言いますが、「第二の命」とは訳しません。引退後の「第二の人生」あるいは「第二の生活」と訳すでしょう。

日本人は命と生活を分けて考えるところがあります。私たちの心臓を動かし、息をさせている、それが命と考えます。そしてその命をもってなしている生活を別個に考えます。命は命であり、生活は生活です。ところが、英語を使う人をはじめとして、外国人はあまりそう考えないところがあります。命と生活が一体化するのです。命と生活とが切り離せないのです。

したがって、聖書の中の「永遠の命」のことを、「永遠の生活」のことを含めて考えている人もいます。永遠の命と聖書の中で言われたときに、私たちが遠い将来にいただくことができる「第二の命」と考えるよりも、もうすでに主イエスを信じたときから始まっている「第二の生活」と考えた方がしっくりする場合が多いと思います。その「第二の生活」が愛に根ざしている。主イエスが裁かないと言ってくださる、赦してくださると言ってくださる、その愛のある生活なのです。

この生活が、主イエスの言葉を聞き、その言葉を守ることによって始まるのではありません。私たちは主イエスを信じても、守ろうとしても、守れない。赦していただかなければならない。主イエスは赦してくださいます。裁かないでいてくださる。その愛を知り、愛に根ざして生きる生活が始まるのです。

その愛によって生きているならば、人生が虚しくなることなどはないのです。私は牧師として、いろいろなところに訪問をします。二月も教会の外で、多くの方々にお会いしました。なかなか教会に来られなかったり、病を得て入院をされている方々です。私に何ができるか。一方では何もできないのです。病を癒やすことも、教会に連れてくることも、その方の痛みを分かることもできないのです。しかし他方で、できることがあります。お話をすることも大事ですが、それにも増して、一緒に聖書を読み、共に祈る。場合によっては聖餐に与ります。

そこで私たちがもう一度、新たに受け取り直していることは、主イエスが私たちを裁かず、赦してくださる、その愛の中に生かされていることです。老いや病の暗闇の中でも、主イエスの光によって歩むことができる。死を前にしても、私たちのキリスト者としての歩みは決してむなしくはならない。そのことを受け取り直していくのです。

これが私たちの実感です。永遠の命が頭で分かることではありません。キリスト者としての生活の中に、主イエスの赦しの愛がある。その愛に根ざしている。これが永遠の生活であり、永遠の命なのです。