松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年2月21日(日)
説教題「神からの誉れ、人間からの誉れ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第12章36〜43節

イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

旧約聖書: サムエル記上18:5~30

今日の説教の説教題を「神からの誉れ、人間からの誉れ」と付けました。両者は共存するものではなく、対立するものです。主イエスもあるとき、明確にこう言われました。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ一六・一三)。神と富という言葉が使われていますが、両者は共存できません。どちらか一方であると主イエスは言われます。

今日のこの説教題は、本日、私たちに与えられた聖書箇所の最後のところから取られたものです。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」(四三節)。どちらを好むか。元の言葉では「好む」というよりも「愛する」と訳すべき言葉になっています。英語の聖書では“like”ではなく“love”が使われています。元の言葉を直訳すると、四三節はこうなります。「なぜなら、彼らは愛した、人間たちの栄光を、神の栄光よりも」。

栄光という言葉が使われています。ヨハネによる福音書の中で何度も繰り返し使われている言葉です。説教の中でも繰り返し、説明をしてきました。栄光という漢字は、「栄える」に「光」と書きます。この言葉はまさにその両方の意味を表す言葉であり、人間の栄光と言えば、人間が栄えること、あるいは人間に光が当たられることを意味します。神が栄えるのか、人間が栄えるのか。神に光が当たるのか、人間に光が当たるのか。主イエスが言われるように、そのどちらか一方なのです。

信仰者の戦いも、まさにそこにあると言えます。よく、本音と建て前ということが言われます。教会の外でもしばしばそのことが言われ、問題になることがあります。しかし教会の中でも、その戦いがあります。私たちが本音と言いますと、例えば人のことを悪く思っている。その本音を悪口のように言うことが、本音を言っているのだと理解されることがあります。

しかし真の意味で本音を言うというのは、そういうことではないと思います。特に教会ではそうです。自分の心の内に抱いている、罪にまみれたようなことを、率直に語ればよいというのではない。そうではなく、むしろ自分のそのようなことを思ってしまう弱さや罪を、素直に認めるということです。自分はどうしてもそのような思いを抱いてしまう、愛に破れ、罪を犯してしまう。罪人である自分をまず認めることです。そこに、自分の誉れを求めるなどということは起こらない。人間の栄光を求めることは消えていくのです。

そして、神さまと素直に向き合うのです。神さま、こんな私ですが、どうしたらよいのでしょうか。罪人の私を赦してください。私を変えてください。そういう祈りへとつながっていくでしょう。それが神の前に素直であるということであり、それが教会での本音を語ることなのです。

信仰者はそういう戦いをします。本音と建前の戦いを、人間の栄光ではなく神の栄光を求めていく戦いをします。戦いなのです。神の栄光を求めながらも、どうしても人間の栄光を求めてしまう、そのことをめぐる戦いです。教会はその戦いを戦っていく場でもあるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエスのことを信じなかった者たちのことが記されています。三六節後半のところからですが、こうあります。「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」(三六~三七節)。

彼らとは、先週の聖書箇所ですが、三四節のところに出てくる群衆のことです。群衆たちは主イエスの「しるし」を見た。しかも多くのしるしを見たが、信じなかった。主イエスは群衆を離れ、姿を消され、しばらく弟子たちとの時間を過ごされます。次に群衆の前に現れるのは、十字架にお架かりになるときです。

群衆は信じなかった、とあります。なぜ信じなかったのか。イザヤ書の引用を挟み、今日の聖書箇所の終わりのところに、その理由が記されています。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」(四二~四三節)。

主イエスを信じるということを公言する者は、「会堂から追放される」ということが決められていたようです。日本的に言うならば、村八分にされる。社会のコミュニティーから追い出されるということです。議員たちは、地位も名誉も建前もありますから、心の中で信じていたとしても、公言することができない。神の栄光を求め切るのか、それとも人間の栄光にどうしても心を奪われてしまうのか、そういう戦いがありました。そしてその戦いの結局のところは、信じるか信じないかということですが、どちらの栄光を求めるかということなのです。二千年前の人たちにもこのような戦いがあった。私たちにも同じ戦いがあります。

人間の栄光を求めてしまう私たちにはどうしても、人からの評価が気になるところがあります。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、サムエル記上のサウルとダビデの話です。サウルはイスラエルの初代の王でした。やがてダビデが二代目の王になります。この聖書箇所のときには、まだサウルが王でした。

サウルはどちらかと言うと、あまりよくない王として知られています。今日の聖書箇所にも、そのような面が表れていると言えます。しかしサウルが最初から悪かったのかと言うと、そうではありません。サウルはイスラエルの部族の中でも、最も小さな部族であるベニヤミン族の出身です。自分が小さき者であることをよくわきまえていた人です。

そのサウルが選ばれて王になる。そのことをよく思わない人たちや、明確に反対をする人たちもいました。あいつで王が務まるか、と言われてしまったのです。しかしサウルはそのとき黙っていました。そしていよいよサウルの王としての地位が固まったときに、サウルはその者たちに仕返しをするチャンスもありましたが、仕返しをすることはありませんでした。神が私たちに恵みを賜ってくださったのだから、そんな仕返しをするな。そう言って家臣たちをたしなめて、自分のことをひどく言った者たちを赦したのです。こういうところは、サウルの良き王としての一面が表れていると思います。

ところが、今日の聖書箇所の第一八章以降、サウルがおかしくなり始めます。何が原因だったか。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(一八・七)、人々が口にしたその言葉によってです。人間のそのような評価の声に心を惑わされてしまった。神の栄光を求めることに徹したのではなく、人間の栄光が邪魔をしてしまった。そのことに惑わされたのです。

ヨハネによる福音書に戻りますが、なぜ彼らは主イエスを信じなかった。それは神の栄光ではなく、人間の栄光を求めてしまったから。それがはっきりとした説明です。その説明を聞く限りでは、主イエスを信じなかった、それははっきりと人間側の責任であると言われています。

ところが、この福音書を書いた著者は、間の三八~四一節のところで、旧約聖書のイザヤ書を引用しました。なぜ主イエスを信じなかったのか、別角度から信じなかった理由を説明するためです。その説明を読むと、人間側の責任というよりも、むしろ神側に責任があるのではないかと思えるような内容です。

四〇節にイザヤ書の引用がこうあります。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」(四〇節)。人間が信じることができない原因が、神にあるかのような記述です。この矛盾とも思えるようなことを、どう考えればよいのでしょうか。

イザヤ書の二つの箇所を考えてみましょう。このイザヤ書の二つの箇所が引用されているのは、ヨハネによる福音書を書いた著者が、ここに主イエスのことがよく表れていると考えたからです。四一節にこうあります。「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」(四一節)。

イザヤ書が書かれたのは、主イエスの時代よりも数百年以上前ですから、預言者イザヤが主イエスを知っていたというわけではありません。この聖書の言葉も「イザヤは、イエスを見た」ではないのです。「イザヤは、イエスの栄光を見た」のです。イザヤが見たのは、「イエスの栄光」です。その主イエスの栄光がどのようにして現れているのか。

まず、先ほどもお読みした四〇節の箇所ですが、この箇所はイザヤ書第六章からの引用です。イザヤ書第六章はお開きになって全体を読んでみますと、イザヤが預言者としての召命を受ける、つまり使命に召されるときの話であることが分かります。イザヤが「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ六・八)と言っています。ずいぶん、すごいことを言えるものだと感心したくなりますが、そのイザヤ自身も、七節のところで神から「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と言われています。イザヤも罪赦され、預言者として立てられたのです。

しかしこれからの預言者の務めが、困難を極めることが予告されます。九節から一〇節にかけて、神がイザヤにこう言われています。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」(イザヤ六・九~一〇)。神の言葉が伝えられるのに、誰もそれを聞いて信じないというのです。

ヨハネによる福音書でもう一か所、引用されているのはイザヤ書第五三章の一節です。このイザヤ書第五三章も開いてみていただくと分かる通り、「主の僕」という人物が出てきて、この人物が民の罪を一人で背負い、苦難を受け、死ぬことによって、すべての罪が赦されるという内容になっています。その内容を第五三章全体で語りながら、最初の第五三章一節のところでこう言うのです。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(五三・一)。

また、八節のところでも同じようなことが言われます。「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(五三・八)。主の僕が苦難と死を受けることによって、すべての者が救われる。そんなことを誰が信じたであろうか、誰が思い浮かべたであろうか、誰もいないということが言われているのです。

ヨハネによる福音書の著者は、イザヤ書第六章と第五三章の二箇所に、特に主イエスのお姿を見たのです。主イエスが一生懸命、命を懸けて伝道をされる。しるしをなさる。民の罪を背負い、十字架にお架かりになり、命まで捨てる。そのように主イエスが多くの者を救うという「主イエスの栄光」のお姿がありながらも、多くの者が信じない。そこに重ね合わせるのです。

このようにイザヤ書の引用の箇所では、まるで神が人を信じさせないようにしているように書かれています。特に四〇節などは明確に神側の責任であるという言葉遣いです。しかし三七節や四二節、四三節では主イエスを信じなかったのは、人間側の責任であることがはっきりと書かれています。神の栄光ではなく、人間の栄光を求めた人間に責任がある、と。

まるで逆のことが記されています。しかも聖書のこの箇所に並列して書かれているのです。しかしそれはそれで、どちらも否定のしようのないことです。信仰を持たなかった人がいる。それは誰の責任か。その人自身の人間の責任でもあります。しかし理由は分かりませんけれども、神がそうさせたとしか言いようのないことでもあるのです。

このことと反対のことを考えてみたいと思います。こちらの方が私たちにとってより大事になってきます。私たちが信仰を持つことに関してです。私たちが信仰を持つのは、私自身の責任において決断をしたことです。誰かに強いられてというわけでもありません。人間側の責任、決断において信仰を持った。

しかし信仰を持つことをそれだけで説明できるかというと、決してそうではないのです。なぜ自分が信仰を持っているのか。それは自分が信じたからでしょうけれども、なぜ自分が信じることができたのか。そのことを問い詰めると、うまく答えられないのです。そして最終的には、神がその信仰を与えてくださったとしか言いようがない。私が信仰を持つことができたのは、私が信じたからであり、神が信仰を与えてくださった。二つが並列に並ぶのです。

信じる、信じない。その境界線上を人間はさまよっていると言えるかもしれません。特に今日の聖書箇所の四〇節にあるように、神の栄光か人間の栄光か、その境界線上で皆が苦しんでいると言えると思います。ヨハネによる福音書には、このことに苦しんでいた議員たちのことが記されています。

まずは、アリマタヤ出身のヨセフという人物です。マルコによる福音書には、「身分の高い議員」(一五・四三)と紹介されています。この人がどこに出てくるかと言うと、第一九章の三八節以下のところに出てきます。

「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」(一九・三八~四〇)。

ヨセフは議員という高い身分にあり、ひときわ人目を気にするところがあったのでしょう。なかなか主イエスを信じていると公に言い表すことができなかった。しかし主イエスの埋葬を申し出たのです。マルコによる福音書では「勇気を出して」と記されています。今まで隠していたところもあったけれども、勇気を出した。大胆な行動に出たのです。

同じ個所に合わせて記されているニコデモもそうです。この人はファリサイ派であり、かつ議員でもありました。ヨハネによる福音書の中でも全部で三回出てきますが、最後の三回目が主イエスの埋葬の場面です。以前は人目をはばかり、夜にこっそり主イエスのところに来て、教えを請うていましたが、このときはニコデモも勇気を出して、大胆に、香料を持ってきて、主イエスの埋葬を手伝ったのです。

ヨセフもニコデモも、このような信仰の戦いを戦ったのです。自分の地位ある議員としての栄誉のゆえに、人間の栄光を求めるところは強かったと思います。それでも主イエスを信じ、神の栄光のために戦ったのです。

ヨセフやニコデモと同じように、私たちもこの戦いを戦っています。私たちの戦いの原点は、信仰を公に言い表すことです。四二節に「公に言い表す」という言葉があります。元の言葉には「告白する」という意味ですが、こっそりと告白することではなく、広く公に告白するという意味が含まれているのです。そのように信仰を言い表し、洗礼を受け、私たちはキリスト者になります。それが、人間の栄光ではなく、神の栄光のみを求めていく道の出発点になるのです。

教会では、多くの人がこのように言います。「教会では素直な自分を出すことができる」「教会では本音で語ることができる」「教会では息をつくことができる」。なぜでしょうか。そのことは、誰の栄光を求めるかに懸かっています。もしも自分の栄光、人間の栄光を求めるならば、私たちはとても素直な自分などさらけ出すことはできません。建て前で自分を飾り、本音で語ることもできません。そのような中ではもちろん息をつくこともできません。

教会で語られていることは、むしろこういうことです。「こんな罪人の私だけれども、主イエスが十字架にお架かりになり、神が罪を赦してくださった」。教会ではよく耳にする、何気ない言葉かもしれません。しかしこれこそが私たちの本音です。罪人である私たちです。その自分を飾って、人間の栄光に生きる必要はありません。神が救ってくださったのです。神が私たちを救ってくださった。その感謝と讃美に生きる時、私たちは神の栄光を現しているのです。