松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年2月14日(日)
説教題「キリストに引き寄せられて」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第12章27〜36節

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。

旧約聖書: エゼキエル37:15~28

聖書とはいったい何でしょうか。聖書は一方では人間が書いたものです。イエス・キリストのことを伝えるために福音書を書いた者たちがいますし、教会に宛てて様々な手紙が書かれました。それらが集められて聖書になっています。しかし他方では、人間が書いただけでは説明できません。神が私たちに与えてくださったもの、それが聖書です。

そうであるならば、当然のことかもしれませんが、聖書は私たちの理解を超えることが書かれています。人間の中からはどうしても出てこないような言葉や考えが記されています。そうなりますと、私たちが一回読んだだけではよく分からない。複数読んだとしても、あるいは人生を懸けて読んだとしても、やはりよく分からない。そういう場合もあるのです。また、私たち人間がびっくりするようなことが書かれています。そういう面からも、聖書のすごさを言えるかもしれません。

聖書には福音書が四つあります。私たちはヨハネによる福音書から御言葉を聴き続けています。福音書には主イエスのことが記されています。人間が主イエスに対して質問をします。けれども、主イエスの答え方が人間のレベルをはるかに超えている。まるで次元が違う。そういうことがよくあります。その主イエスの答えを聞いてもよく分からない。理解を超える。びっくりしてしまう。そういう経験をされた方も多いと思います。本日、私たちに与えられた聖書箇所も、まさにそうと言えるかもしれません。

ある説教者が、本日の聖書箇所に記されているのは、「第二のゲツセマネだ」と言っています。ゲツセマネというのは、主イエスが十字架にお架かりになる直前に祈りをされたところの場所の名前です。ゲツセマネで、主イエスがこれからの十字架での苦難を思い、汗を血のように滴らせながら祈られました。そのゲツセマネの祈りの出来事は、このヨハネによる福音書には記されていませんが、第二のゲツセマネとして、あるいはゲツセマネの祈りに準ずるものとして、ここに記されているのです。

二七~二八節にこうあります。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(二七~二八節)。「心騒ぐ」とあります。魂を乱す、心が揺れ動くということです。主イエスの心がそのようになった。「何を言おうか」ともあります。いったい何を言ったらよいのか、そのことを迷ってしまうということです。

主イエスの感情がここによく表れていると言えます。福音書を読んでいて気が付くことは、主イエスの感情がそれほど多くは表現されていないということです。主イエスがどのようなお方なのか、何をなさったのかということはよく書かれていますが、その際に主イエスがどんな表情をされていたとかは、ほとんど記されません。特に、主イエスが笑われたとか、楽しまれたというようなことはほとんど記されていません。

しかし、十字架の直前の主イエスの感情というのは、他のところに比べれば、ずっとよく描写されています。ゲツセマネでの祈りもそうです。今日の箇所でも「心騒ぐ」、「何と言おうか」と記されています。その心が揺れ動いている主イエスのお姿が記されています。いったいなぜでしょうか。

この「心騒ぐ」ということに関して、五百年ほど前の教会を改革した改革者のカルヴァンが注解を書いています。「しかし、神の子がみずからのうちにこれを感じたことは、わたしたちの救いにきわめて有益な、さらには、必要なことだった。…それというのも、かれが身をもって、神のおそるべきさばきを会得したのでなければ、わたしたちのためにつぐなうことはできなかったろうからである。それによって、わたしたちは、罪のとほうもなさがどんなに莫大なものか、さらによく知ることができる」。

主イエスが心騒いでくださったのは、私たちの救いのためであったと言うのです。続けてカルヴァンはこう書きます。「神の子は、単にわたしたちの肉体をまとったばかりでなく、人間的な諸情念もその身につけていたのである。…苦しみの思いなしに死ぬことは、わたしたちに与えられていることではないからである」。

カルヴァンはこの箇所のすばらしい注解を書いていると思います。カルヴァンの他にも、その後、たくさんの人たちが注解を書いています。最近もたくさんの注解書が書かれますが、場合によって信仰を持って聖書を読むことが前提とされない注解書もあります。しかしカルヴァンの注解は、信仰者の私たちがどのようにこの聖書箇所と向き合えばよいのかを、よく私たちに教えてくれます。私たち人間誰もが抱くような感情を、主イエスも抱いてくださった。しかも主イエスが、特に私たちの死の苦しみを負ってくださったとカルヴァンは言うのです。

松本東教会では、最近、祈りの会で旧約聖書のヨブ記から御言葉を聴いています。先週は第三~七章あたりを読みました。ヨブ記は、大きな苦難に襲われたヨブの話が記されています。ヨブは財産を失い、息子や娘たちを失い、自分自身もひどい病にかかってしまいました。友人たちが慰めようと見舞いにやってきます。ところがヨブのあまりのひどさに、声を掛けることもできなかった。それが第一、二章に記されています。

第三章に入り、誰が口を開くかと言うと、ヨブが口を開き始めます。何をヨブは言うのか。嘆きの言葉です。自分の生まれた日を呪う。自分など生まれてこなければよかったと言うのです。その言葉を聞いて、友人たちが反論をします。それに対してヨブがまた反論をする。ヨブを慰めるどころか、ヨブを裁くように、議論が始まる。ヨブも自分は悪くないと強情になります。次第に神に祈らなくなっていきます。

第七章の終わりにありますが、ヨブは「なぜ」と繰り返し嘆きます。なぜこんなことが起こるのか。なぜ自分に降りかかるのか。そのような嘆きを繰り返すのです。私たちも多かれ少なかれ、同じ嘆きを口にします。しかし友人たちは、ヨブの嘆きを理解し、ヨブと同じところに立つことはできませんでした。

他方で、主イエスもまた、十字架の上で「なぜ」と言われました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ一五・三四)。ヨブをはじめとする人間の嘆きを、主イエスがすべて引き受けるようにして、主イエスも口にしてくださった。このことはカルヴァンが言っていることと同じですが、そのようなことを踏まえて、本日の聖書箇所と向き合うならば、違った光が差し込んでくると思います。

ところで、話が変わるようでありますが、しかし同じことを別角度から考えてみたいと思います。先日、こどもの教会で、いわゆる漫画の聖書を買うことを決めました。いつの時代にも、子どもは親を待つような時間があるわけですが、教会で子どもたちに読んでもらえればと願ってのことです。先週、この本が届き、今日から二階の図書のところに置かれています。

私はまったく絵を描きませんので、あまりよく分からないと言えるかもしれませんが、聖書の漫画を描く際に、作家の方の苦労を想像します。何に苦労するか。おそらく人の表情をどう描くかだと思います。特に主イエスの表情です。先に申し上げたように、主イエスがどのような感情を抱いたかということは、ほとんど聖書には書かれていない。しかしそれを絵に描かなければならないわけですから、どう描くのか、かなり難しい課題だと思います。

私は漫画の聖書をほとんど読んだことがありません。その本が届き、何ページかは読んでみました。今日の聖書箇所はどう描かれているのか、そのことに興味を抱きながら、その箇所を開いてみました。きちんと描かれていました。このように描かれています。

先週の聖書箇所のところになりますが、ギリシア人たちが弟子のフィリポのところにやって来ます。「わたしたちは外国人ですが信仰を持ち、イスラエルの神を敬っています! ぜひともイエス様にお目にかかりたいのです」、そのように漫画では言います。フィリポとアンデレが主イエスのところに行き、「先生、いかがでしょう?」と言います。主イエスはまず「…」と沈黙され、そして言われます。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、麦は一粒のまま…。だが、死ねばその種は育ち、多くの実りをもたらす! 人の子が栄光を受ける時が来た」。

続けてこう言われます。「ああ、心が騒ぐ! 父よ、御名の栄光を現して下さい」。すると、天から声が聞こえます。「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう」。周りの人々がそれに反応します。雷か、それとも天使か。主イエスは言われます、「あの声は私のためではなく、あなたがたのためだ」。「今こそこの世が裁かれる時…。私は地上から上げられようとしているが、その時はすべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。

それが漫画でのやり取りです。聖書に忠実と言えばそうかもしれません。二六節と二七節は、新共同訳聖書では小見出しが割って入っていますので、分断されているような感じがしますが、きちんとつながっています。主イエスはいったいどういう表情をされているか。漫画では、主イエスは心が感動に震えている、いや喜んでさえおられるような、そんな表情をされながら、この言葉を言われています。もっとも漫画では、この後、ゲツセマネの場面もきちんとあります。その際には、苦悩の表情で祈られています。しかし今日の箇所では、主イエスは実際、かなり苦悩の表情だったのではないかと思います。

漫画の話の続きですが、ここから先は作者が想像をして解釈をしています。こういう言葉が記されて、この箇所が一区切りをします。「ギリシア人たちは直接イエスに会うことはなかったが「ユダヤ人も外国人も区別なく主のもとに引き寄せられるようになる」というイエスの言葉を聞いた。彼らはその言葉に満足して故郷へ帰っていった。そして外国人の中で最初に救世主(メシア)を信じる者となった」。

この部分は聖書には書かれていませんので、あくまでも想像になります。確かにギリシア人たちは、主イエスにお会いしたい、そのように出て来ていますが、主イエスにお会いすることができたかどうかは不明です。会えなかったかもしれません。ギリシア人たちの存在はいつの間にか消えていきます。

しかし主イエスの意図は、この漫画の通りだったと思います。ユダヤ人ではない外国人のギリシア人たちがやって来た。その報告を弟子から受けます。それに対して、主イエスはまともに答えておられないかのような印象を私たちは受けますが、実際はこれ以上のない答え方をされているのです。人間が考えていることと次元が違う答え方をしていると言えます。「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(三四節)。主イエスはそう言われます。ユダヤ人もギリシア人も区別なく、私たちをも含めて、主イエスは引き寄せようと言われるのです。

私の想像ですが、少し漫画と違うところがあるかもしれません。ギリシア人たちは結局、主イエスにお会いできなかった。そのことを少々不満に思ったかもしれません。なぜなのかと思ったかもしれない。しかし主イエスがすぐに十字架にお架かりになる。今日の聖書箇所の言葉で言えば、十字架に「上げられる」。そこでギリシア人たちが出会った主イエスは、十字架に上げられた主イエスであり、天に上げられた主イエスであったのです。私たちも地上を歩かれている主イエスにお会いするのではない。ギリシア人たちと同じように、上げられた主イエスにお会いするのです。

三〇~三一節のところで、主イエスがこう言われます。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」(三〇~三一節)。

天から声が響いてきたのは、ヨハネによる福音書の中で唯一ですが、それは「あなたがたのため」と言われます。なぜか。世が裁かれ、この世の支配者が追放されるからです。それはどういう意味でしょうか。教会の人たちは、単にこの世の中の権力者や力ある者たちが裁かれたり、追放されたりすることとは考えてきませんでした。カルヴァンもそうですが、ここに悪魔やサタンの姿を見ているのです。

悪魔やサタンと言われて、人それぞれ、いろいろな感じ方があると思います。それこそ漫画聖書では、悪魔の姿なども描かれますが、本当に何か実体あるものかどうかを別にして、この地上に悪がはびこっている、何か悪いものに取りつかれてしまっているのではないか。そのことは誰も否定できません。その何か悪いものが私の中にも入りこんでいる。教会の中にも入りこんでいる。それも否定できません。

主イエスを裏切ることになるユダもまた、そのような悪いものが入り込んでしまったという書かれ方をしています。「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(一三・二)。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(一三・二七)。

今日の聖書箇所の最後の三五~三六節にはこうあります。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(三五~三六節)。ここでは光と闇という言葉が使われています。悪魔やサタンと同じように、闇がやはりあるわけです。その闇に追いつかれることのないようにと主イエスは言われます。実際にそのようなものが存在をし、そのための戦いが存在をするのです。

しかし主イエスは何と言われたのか。もう一度、その言葉を味わいたいと思います。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(三二節)。主イエスのもとに引き寄せられるのは、主イエスが上げられる前ではありません。その後です。ギリシア人たちはすぐには主イエスにお会いすることができませんでした。まだ上げられていなかったからです。お会いできたのはいつか。主イエスが十字架に上げられた後のことです。すでに悪魔やサタン、闇に勝利をされた方と出会ったのです。闇の真っただ中ではなく、光のあるところで出会ったのです。

私たちも小さなヨブとして嘆きます。人間によってはちっとも慰めを得られません。悪魔やサタンに支配されている、そのような闇があるのも事実です。しかし主イエスが嘆きを引き受けてくださり、闇を引き受けてくださった。その光のもとで主イエスに出会うことができるのです。

ある説教者が言っています。「闇の中でこそ、光の主イエスに出会うことができる。死の中でこそ、復活の主イエスに出会うことができる。絶望の中でこそ、希望の主イエスに出会うことができる。罪の中でこそ、赦しの主イエスに出会うことができる」。その意味を深く心に留めたいと思います。