松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年1月31日(日)
説教題「一粒の麦は地に落ちて死に、多くの実を結ぶ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第12章20〜26節

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

旧約聖書: 詩編126

私たちは日曜日ごとに説教を聴いています。教会に来る目的は、神を礼拝するためでありますが、私たちの教会では、説教を聴くことが一番の目的であると言っても過言ではありません。それほどこの説教を重んじているのです。

説教とは何でしょうか。いろいろな説明がなされます。説教とは、神の言葉である。人間を通して語られるわけですが、単なる人間の言葉ではなく、神の言葉として私たちは聴いています。また、説教は聖書の説きあかしであるとも言われます。説教は聖書に基づいて語られますから、当然、そのように言えるわけです。

それらと並んで、説教とは、キリストを紹介することであるとも言われます。明治時代の日本の最初期の牧師の一人である植村正久という人がいます。私たちの教会の創立にもかかわった牧師でありますが、「手続に終る伝道」という小さな文章の中で、このように書いています。

「多くは基督如何にして人を救ふや、信仰は如何にせば養はるるや等の分解的に講釈するに止まり、基督自身を紹介し、其の恵を真正面より宣伝して人の信仰を催すの気合に乏しと謂はざるべからず。専ら唐医が病人の傍らにて病理解剖の講釈のみ事とするに同じ。…即ち人を教へんとするよりも、寧ろ人を悔改に導かんと試みるものならざるべからず。」(『植村全集』第五巻、五二五頁)。

植村正久の時代にも、牧師が説教をするわけですが、キリストのことを聴いている人たちに紹介するのではなく、キリストについて、聖書について解説することだけに留まっている。そんな人たちがいたようです。今でも変わるところはないと言えるかもしれません。恵みを真正面から伝えない、とも言っています。そしてそんな牧師たちのことを、医者に譬えて言うわけです。病気を持っている患者に対して、患者の病気ばかりを詳細に説明して、ちっとも病気を治そうとしない。いや、治すことができない。植村正久がここで言っていることは痛烈なことかもしれませんが、植村正久が強調したのは、説教とは本来、キリストを紹介するものであるということです。説教を聴くことによって、キリストと出会い、悔い改めや救いへと導かれるのです。

私たちは、主イエス・キリストと出会った者たちです。主イエスと出会うまでに、礼拝に出席し、説教を聴いて、キリストと出会った。そう言えるわけですが、教会に導かれ、説教を聴くに至るまでも、いろいろな導かれ方があったと思います。私たちは人を通して、教会へと導かれたのです。子どもの頃から来ている方は、親を通して教会に来たことになります。教会にすでに通っている友に導かれて、教会にやって来た方もあるでしょう。その教会にこういう人がいたから、こういう牧師がいたから導かれたという方もあるでしょう。伝道というものは、人と人との間でなされるものです。

しかし人それぞれ導かれ方は様々であっても、最終的に私たちは主イエスとつながるのです。植村正久の言う通り、御言葉を聴き、キリストと出会い、キリストに結ばれる。人とのつながりは、遅かれ早かれ、必ず絶たれることになります。しかし最後まで残るのは、教会とのつながりであり、主イエスと結ばれていることであり、神とのつながりなのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、主イエスとの出会いのきっかけの話が記されています。「祭りのとき」(二〇節)という言葉がありますが、過越祭のことです。この祭りの最中、主イエスは十字架にお架かりになりました。大勢の人がエルサレムの街に集まっていました。ユダヤ人だけではありません。多くの外国人たちも祭りにやって来ていました。その中にギリシア人がいた。ユダヤ教に改宗していたのかどうかはよく分かりません。いずれにしてもユダヤ人以外のギリシア人が、祭りにやって来ていたのです。

この人たちが、主イエスとの面会を求めました。二一節にこうあります。「彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。」(二一節)。フィリポというのは、主イエスの十二弟子の一人です。フィリポという名前はギリシア語の名前です。フィリポのことは、よく分かっていないことも多いわけですが、ギリシア人たちをはじめとする異邦人や異邦人社会との橋渡し的な存在であったと言われます。ここでのギリシア人たちにとっても、フィリポが最も頼みやすい人であったのかもしれません。

二二節にアンデレという別の弟子も出てきます。この人は、ヨハネによる福音書の中に三回だけ出てくる人物です。しかも主イエスのもとに人を連れてくるのが長けている人です。

一回目は、第一章四〇~四二節のところです。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。」(一・四〇~四二)。アンデレはペトロの兄弟でありました。そのペトロを主イエスのところに連れて行ったのがアンデレなのです。

二回目は、第六章八~九節のところです。その前の五節のところからお読みします。「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」」(六・五~九)。この話は、五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の人たちを養う話です。フィリポも一緒に出てきますが、アンデレも出てきます。このアンデレが、完全に諦めながらでありますが、主イエスに五つのパンと二匹の魚を持っている少年を紹介したのです。

三回目は、今日の聖書箇所になります。主イエスのところにギリシア人たちを紹介しています。つまり、ヨハネによる福音書に出てくるアンデレは、三回とも主イエスに誰かを紹介しているのです。主イエスと出会わせる役割のためだけに登場をしている、そんな人物であると言っても過言ではありません。私たちの周りにも、アンデレみたいな人がいるでしょう。もちろん、みんながアンデレというわけではありません。しかしアンデレみたいに、教会にやたらと人を連れてきたり、主イエスと出会わせる賜物を持っている人がいると思います。

アンデレとフィリポは、ギリシア人たちがあなたに会いたがっていると主イエスに伝えました。そうすると、主イエスはお答になります。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(二三~二四節)。主イエスのこのお答は、問いかけに対して、まるで噛み合っていないかのように思われます。主イエスは何を言われようとしているのでしょうか。

「時が来た」と主イエスは言われています。今までにもこのような表現が何度も出てきましたが、今までは時はまで来ていないという形で出てきました。ガリラヤのカナの婚礼に出られた際には、「わたしの時はまだ来ていません」(二・四)と言われました。また、これまでに何度か主イエスは逮捕されそうになったときがありました。でも逮捕されなかった。その際には「まだ時が来ていなかった」という表現が用いられています。

しかしついに時が来るのです。主イエスが栄光を受けられる時、十字架の死を死なれる時、二四節の表現で言えば、一粒の麦が地に落ちて死ぬときが、ついにやって来るのです。

先週の説教で、なつめやしの話をいたしました。旧約聖書の外典というところに収められている書物のマカバイ記の話をしました。先週の説教で話したことなので、詳しくここで繰り返すことはしません。マカバイ記には、マカバイなどのイスラエルにとっての英雄のことが書かれています。外国の支配からエルサレムを解放した英雄たちです。その解放の時に、人々はなつめやしを振って、歓喜の声をあげて喜びました。かつての英雄であるマカバイたちの姿に、主イエスを重ね合わせて、なつめやしを振ったのです。

先週の説教では触れませんでしたが、実は「なつめやし」という言葉は、ヨハネの黙示録の箇所でも、同じような形で使われています。ヨハネの黙示録の第七章九節のところです。少し長い引用になりますが、九~一七節をお読みいたします。

「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく、ぬぐわれるからである。」」(黙示録七・九~一七)。

ヨハネの黙示録は、ヨハネによる福音書と関連があると言われていますが、終わりの時に起こる出来事を、ヨハネなる人物が幻として見せていただいた話として記されています。この箇所の最初に「なつめやし」が出てきます。白い衣を着た人が振っているのです。白い衣を着た人とは、罪を拭われたキリスト者のこととも言われますし、初代教会の頃の殉教者も白い衣を着ていたことからも、殉教者のこととも言われます。

また、小羊も出てきます。これは主イエスのことであり、第七章一四節に「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とあります。白い衣が血で洗われて白くなったのです。普通、血で拭ったら赤くなるわけですが、ここは普通ではありません。キリストの血で、罪が拭われて、白くなったとなっています。

その白い衣を着ているのが、第七章九節にあるように、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」だったのです。この人たちが「なつめやし」を振っている。民族など、あらゆる違いを超えた実りが実っている。今日の聖書箇所に出てくる異邦人のギリシア人たちも、ここに含まれると言えるかもしれません。ギリシア人が主イエスにお会いしたい、そういう問いかけに対して、主イエスはまるで噛み合っていないかのような答えをしたように思えますが、主イエスは実際にはこれ以上ない答えをしたのであります。ユダヤ人だけではなく、ギリシア人も異邦人も、すべてのものが主イエスの実りになるのです。主イエスの意図はそこにあったのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書箇所が、詩編第一二六編です。この詩編は、かなり具体的な状況のことを踏まえて記されています。イスラエルの国がバビロニアに滅ぼされて、主だった人たちがバビロンに連れ去られる、バビロン捕囚という出来事が起こりました。その捕囚からの帰還が語られています。

捕囚からの帰還は、夢のような出来事であったようです。神が大きな業をしてくださいました。四節のところに、「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください」とあります。「ネゲブ」というのは、イスラエルの南方にある渇いた地のことです。砂漠のような地域です。そのところに、川を通してくださいと言う。不可能とも思えるようなことをしてくださいと言っているのです。

そして、五~六節です。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編一二六・五~六節)。涙の中で種を蒔いた。しかし帰ってくるときには、種からの実りである穂を背負って、その実りを持ち帰るというのです。

聖書には、こういうイメージで語られている箇所がいくつもあります。今日のヨハネによる福音書で主イエスが言われた言葉は、まったく主イエスのオリジナルというわけではなく、主イエスがよく知られている聖書のイメージを土台にして言われた言葉でしょう。しかし主イエスならではのオリジナルもあります。それは「一粒」、「多くの実」という言葉に凝縮されていると思います。

しかも主イエスは単に口だけでこの言葉を語られただけでなく、実際にこの言葉通りにしてくださいました。ご自分が一粒の種として死なれる。そしてギリシア人や異邦人たち、私たちも含めて、多くの実りが得られる。主イエスはそう語られ、実際にそうなさったのです。一粒の種の死によって生かされているのが、今の私たちの実りです。

二四節の主イエスのお言葉に引き続き、二五節に、実りとしての私たちがどのように生きるべきなのかが記されています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(二五節)。愛すると憎むという言葉が出てきました。同じような主イエスのお言葉は、マタイによる福音書やルカによる福音書にも記されています。自分の命を愛するのではなく、憎めと言われている。文字通りに受け止めればよいのでしょうか。私たちはこの表現をどう考えればよいでしょうか。

そのことをお話するために、創世記に出てくるヤコブという人の話をしたいと思います。この人は、イスラエルの歴史の鍵ともなった重要人物でありながら、実に人間臭い人でもあります。兄のエサウと喧嘩をして、家を出なければならなくなりました。その旅先で、ラバンという人の家に身を寄せる。二人の娘がいました。ヤコブは妹のラケルに一目惚れをしてしまった。ぜひ自分の嫁にして欲しいとラバンにお願いをします。それでは七年働いたら嫁にやろうと言われ、喜んで働く。しかし七年後に、嫁にもらったのは姉のレアの方でありました。姉よりも先に妹を嫁がせるわけにはいかないというのが理由でした。そこでヤコブはレアと結婚しますが、愛するラケルを嫁にするために、またもや七年もラケルのもとで働く。そしてようやく愛するラケルを妻に迎えることができたのでした。

話はそこで終わりません。ヤコブと姉のレアの間には、次々と息子が生まれます。なんと六人も生まれるのです。ところが愛するラケルとの間には生まれない。ヤコブは他にも二人と結婚をして、その女性たちとの間にも息子が生まれていました。そしてようやく、一一番目の息子になりますが、ラケルとの間にヨセフという息子が生まれます。この後、さらに一二番目の息子も生まれますが、ヤコブはこのヨセフをたいそうかわいがるわけです。何とも人間臭い話です。立派な父親ならば、どんな息子にも平等に接するところですが、ヤコブはあからさまにヨセフをかわいがるのです。他の兄たちからすれば、大変腹立たしいわけです。そして兄からいじめられて、ヨセフはエジプトに売られてしまうことになりました。ヤコブはてっきりヨセフが死んでしまったと思いこむ。

ところがヨセフはエジプトで頭角を現し、王であるファラオに次ぐナンバー・ツーの地位にまで上り詰めました。世界中が食糧難になったとき、ヤコブと息子たちの家族が移住してきた。エジプトに住むようになったのです。ところがだんだんとイスラエルの人たちが増えてくる。脅威に感じたエジプト人たちは、イスラエルの人たちを奴隷にする。その奴隷生活からの脱出が、出エジプト記に書かれている話です。

だいぶ話を広げてしまいましたが、こういう人間臭い歩みの中に、神の導きがあったわけです。ヤコブは、姉のレアよりも妹のラケルを愛した。そのことが創世記第二九章三〇~三一節に記されています。「こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。」(創世記二九・三〇~三一)。ここで使われている「疎んじられている」という言葉が、今日のヨハネによる福音書で使われている「憎む」という言葉と同じです。旧約聖書はヘブライ語で書かれましたが、ギリシア語に翻訳されたものがあります。そのギリシア語聖書を読みますと、同じ言葉が使われているのです。

「憎む」というと、少しきつい表現のように思います。自分の命を憎まなければならないとはどういうことか。しかしヘブライ的な意味としては「より少なく愛する」と言った方が良いようです。つまり程度の問題です。ヤコブはラケルをこよなく愛した。それでは姉のレアはどうか。レアを愛していないわけではなく、ラケルよりはより少なく愛した。そういうことになるわけです。

カルヴァンという改革者が、ヨハネによる福音書の「愛する」「憎む」という箇所を解説して、このように言っています。「要するに、この世のいのちを愛するのは、それ自体別に悪いことではない。ただわたしたちは、たえず目的を目ざし、それから目をそらさず、まるで巡礼のようにこの世のなかをとおりすぎて行くのなら、よいのである。自分のいのちを愛することのただしい度合は、神がよいとするかぎりこのいのちにとどまり、神ののぞみの時が来れば、そこから立ち去る準備ができていることである。ひと言で言えば、わたしたちのいのちを(いわば)両手でささげ、神に生贄としてさし出していることである。その埒外でこの世のいのちにかまけているひとたちは、すべてそのいのちを失うことになる。すなわち、かれらはそのいのちを、永劫の破滅に投げ入れることになるのだ。それというのも、失うというのはここでは、なにか貴重なものを失う、という意味だからである」。

失うというのは、単にちょっとだけ失うという意味ではなく、滅ぼすという強い意味です。自分の命を愛する者、つまり自分の命に愛着しすぎる者は、その命を滅ぼしてしまうというのです。

以上のことを踏まえ、二五節の言葉を私なりの解釈も加えて訳しなおしますと、こうなります。「自分の命に愛着しすぎる者はそれを滅ぼすが、この世で自分の命をより少なく愛する者はそれを保って永遠の命に至る」。

繰り返して申し上げますが、私たちは自分の命や人の命を尊んで生きなければなりません。命は神によって与えられたものだからです。しかし私たちが自分で自分の命を一番に尊ぶのではありません。私たちが最優先にすべきことが、二六節に記されています。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(二六節)。

二六節で主イエスが言われていることは、はっきりしています。私たちが主イエスに仕える、そうすると主イエスのところに私たちが留まることができる、そうすると父なる神が私たちを大切にしてくださるというのです。「大切にしてくださる」というのは、尊んでくださる、大事にしてくださるということです。私たちは自分で自分の命を大事にするのではなく、そうすると却って私たちは自分の命を失います。しかしそうではなく、主イエスを信じ、主イエスと共に歩む者は、父なる神がその命を大事にしてくださると言うのです。

私たちは、このように言ってくださるキリストに出会った者です。それぞれの出会い方がありました。その出会い方を思い起こしていただきたいと思います。先週の説教でも申し上げましたが、私たちは過去を見るしかないのです。神がどのように私たちを導いてくださったのか。教会に導き、様々な出会いの中から、主イエスと出会わせていただいた。そのような恵みの過去を持っているのです。その過去に支えられて、私たちは今を生きることができるのです。どうか多くの方が、私たちを通して、教会に導かれ、説教を通して主イエスと出会うことができますように。そして主イエスから生じる多くの実りとなりますように。