松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年1月17日(日)
説教題「死と葬りへの備え」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第12章1〜11節

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

旧約聖書: イザヤ書61:1~4

本日の説教の説教題を、「死と葬りへの備え」と付けました。この説教題をご覧になり、どのようなことを考えられたでしょうか。おそらく多くの方は、ご自分の死と葬りの備えについて、考えられたと思います。

松本東教会では、ご自分の葬儀の際の希望を予め書いて提出することができる用紙を、用意しています。もう数年以上も前になりますが、教会で死について自由に話し合ったことがあります。何回か話し合いをして、私が死と葬儀についてのまとめのような話をして、そしてまた意見交換を行った際に、このような用紙を教会として用意したらどうだろうか、ということになりました。長老会で検討をして、この用紙を配布しています。すでに多くの方がこの用紙を提出されています。

この用紙に書くことができるのは、ご自分の葬儀についてです。どのような形にするのか。葬儀の際には、どの聖書箇所を読んでもらいたいか、どの讃美歌を歌ってほしいかも書くことができます。自分の埋葬をどうするか、これも書くことができます。自分が死んでしまってから、もちろん自分の意志を伝えることはできないので、何も決めていないと、家族も教会も困ってしまうかもしれません。予め自分の意志をはっきりさせておくことも重要でしょう。

そのこともとても重要なことですけれども、しかしもっと大事なことがあります。それは、自分の死と葬りを見据えて、自分がどのように生きていくかということです。本日、私たちに与えられた聖書箇所には、その点でとても大事なことを教えてくれると思います。

主イエスの死が迫っていました。今日の聖書箇所の最初のところにこうあります。「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。」(一節)。過越祭において、主イエスは十字架にお架かりになり、死なれました。その六日前ということになります。ベタニアというのも、主イエスが十字架にお架かりになったエルサレムのすぐ近くの町です。主イエスを殺すという決議が会議でなされ、主イエスへの逮捕状も出ていた、そんな中での出来事です。

そのような中で、マリアは主イエスの死を予感しながら、主イエスに香油を塗った、それが今日の物語です。香油を塗ることは、主イエスの葬りと関係があります。本日、私たちに与えられた聖書箇所の七節にはこうあります。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(七節)。

あるいはこの箇所の他に、同じ出来事がマタイによる福音書やマルコによる福音書にも記されています。少し長いかもしれませんが、マルコによる福音書の箇所をお読みしたいと思います。

「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」」(マルコ一四・三~九)。

ここで主イエスが言われているように、マリアの行為は、主イエスの埋葬の準備です。主イエスの十字架での死の埋葬のお手伝いをした、奉仕をした。そして主イエスはマリアのことをお褒めになったのです。「できるかぎりのことをした」(マルコ一四・八)と言われているように、主イエスに対する最大限の奉仕であり、最大限の褒め言葉です。

なぜ主イエスはそんなにも褒めてくださったのか。それは、マリアが主イエスの死のお手伝いをし、主イエスの死とかかわりを持ったからです。主イエスと深く結びついたからです。主イエスの死とかかわりを持つこと、それは私たちが生きる際に何よりも重要なことになります。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の重要なポイントは、七節になります。七節をどう読むのか、それが重要なのです。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(七節)。元の言葉であるギリシア語では、単純な言葉が並んでいます。しかしそれゆえに複数の仕方で解釈することができると言われています。

例えば、こういうことが考えられます。「この人のするままにさせておきなさい」と主イエスは言われています。主イエスがこの言葉を言われたとき、マリアは果たして香油を全部使っていたのでしょうか。それともまだ残っていて、「するままにさせておきなさい」と言われて最後まで注がせたのでしょうか。

あるいはこういうことも考えなければなりません。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と主イエスは言われています。このように翻訳するのではなく、命令文の形で翻訳することもできます。つまり「わたしの葬りの日のために、それを取って置きなさい」と訳す。もしそうであるとすると、マリアが途中まで注いでいた香油を、主イエスが途中でストップさせたことになります。

マリアは香油を全部注いだのか、一部だけを注いだのか。どのような仕方で主イエスに香油を注いだのでしょうか。七節の言葉だけでは分からないところがありますが、まず、聖書に書かれていることを整理してみたいと思います。

姉のマルタと共有のものだったかもしれませんが、マリアが持っていたのは三節に書かれている通りです。「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て…」(三節)。「純粋で非常に高価」と強調されています。「ナルド」というのは植物の名前であるようです。どこに生息している植物かというと、インドの方であるようです。その植物の根っこのところから得られる油が、ナルドの香油でした。

「リトラ」という単位も出てきます。聖書の後ろの単位表を見ますと、一リトラは約三二六グラムとあります。香水などをお使いの方はお分りだと思いますが、普通は五十ミリリットルとか、せいぜい百ミリリットル単位で販売しています。ごく少量を手首や首のところにつければ十分でしょう。しかしマリアはナルドの香油を主イエスに対してかなりの量をドバドバと注いだ。マリアがしたことはそういうことです。

香油というのは、昔の時代ですから、お風呂などの環境がそれほど整っていない時代に、重宝されたものです。におい対策としても重要だったのでしょう。しかしそれ以外の用途として、埋葬のために用いられたのです。

今日の聖書箇所から御言葉を聴くに際して、どうしても読まなければならないのが、主イエスの埋葬のとき箇所です。同じヨハネによる福音書の第一九章の終わりにこうあります。

「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」(一九・三八~四二)。

主イエスの実際の埋葬の際には、マリアではなくニコデモという人物が、「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」(一九・三九)のです。もちろん全部使ったのかは分かりませんが、マリアがこのとき持っていた量の百倍もの量を持ってきて、主イエスの埋葬をしました。しかしニコデモのものはそれほど高価なものというわけではなかったようです。純粋ではなく「混ぜた物」とありますし、「没薬」という言葉もあります。

没薬は、クリスマスの時、占星術の博士たちが幼子主イエスを礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げました。その没薬です。この没薬はどういうものかというと、アラビア産の低木から採られる樹液であるようです。これはこれで貴重なものかもしれませんが、遠いインド産のナルドの香油の方がより貴重なものです。

主イエスの弟子であり、会計係のユダが、このナルドの香油が三百デナリオンもする、すぐにそう計算しました。一デナリオンは、一日分の賃金です。そうなると三百デナリオンは三百日分の賃金ということになります。ほぼ一年分の収入です。マリアの持っていたナルドの香油とは、それほど高価なものだったのです。

マリアはこのうちの一部を注いだのか、それとも全部を注いだのか、そのことを私たちは今、考えています。七節を読んだだけでは、よく分からないところがあります。しかし聖書学者や説教者の多くは、ここで全部を使ったと考える人が多いと思います。私もそう思います。

なぜか。ヨハネによる福音書には書かれていませんが、マルコによる福音書では、ナルドの香油の入った壺を「壊して」、主イエスに注ぎかけたとあります。つまり全部を使ったのです。さらに今日のヨハネによる福音書の聖書箇所では、ユダが憤慨しています。もし一部しか使っておらず、まだ残っているならば、憤慨する前に慌ててその行為を止めさせると思います。そして、実際の主イエスの埋葬の際の香油は、マリアのではなくニコデモが持ってきたものを用いました。マリアがその時のためにここで香油を取って置いたとは考えにくい。そのような理由から、マリアはここでナルドの香油を全部使った、それも三二六グラムもの大量の香油を一度に使ったということになります。

もう少しここでの状況を確認しますと、マリアとマルタは弟であるラザロの葬りを終えたばかりでした。愛するラザロでしたから、丁重に葬ったと思います。その際にも、このナルドの香油を使ったかもしれません。しかし全部を使うことはしなかった。三二六グラムも残して置いた。なぜ残しておいたのか。ラザロ以外の家族の埋葬の際に使おうとしたのか、それとも自分自身のために取って置いたのでしょうか。それは明らかに違うと思います。自分たちのために取って置いたならば、主イエスに惜しみもなく使うはずがありません。

それではなぜ、マリアは非常に高価な香油を全部惜しみなく使ったのか。主イエスの死が迫っている状況でした。マリアはそれを予感していたのでしょう。もしかしたら近いうちに、自分も主イエスを埋葬することになるかもしれない、そう予感していたのだと思います。実際はニコデモが香油を塗りましたが、主イエスがここにおられるチャンスを逃すことなく、マリアにとっての埋葬をしたのです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(八節)、主イエスはそう言われています。給仕をしていた姉のマルタも、マリアのこの行為に対して憤慨したというわけではありません。主イエスの埋葬の奉仕をした、マリア、マルタからの主イエスへの献げものでありました。

さて、マリアがどういうことをしたのか、そのことはよく分かりました。問題は、マリアのしたことを私たちも理解できるかどうかということです。ここでは二つの行為が比べられています。主イエスに対して貴重な香油をすべて注いだというマリアの行為と、三百デナリオンで売って貧しい人たちへ施すという行為の二つです。どちらの方がよい行いでしょうか。どちらの行為が大きな愛の業になるのでしょうか。

十二人の弟子の一人であり、後に裏切るユダが五節のところでこう言っています。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(五節)。今までごまかしてきた会計を、三百デナリオンあれば帳尻を合わせることができるかもしれないと考えたかもしれません。しかしそれはさておき、ユダの発言を私たちも分からないわけではありません。たった一人の人だけのためにこれを使うよりも、売って得た大金で多くの人を助けた方がよいではないか、ユダはそう言っているのです。その方が合理的で、何百何千もの貧しい人を助けられるではないか、確かにそれはその通りかもしれません。

もちろんのことですが、まずここで言わなければならないのは、主イエスは決してそのような愛の行為を否定されているわけではないということです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と言われます。いつも一緒にいる、だからいつでもできる、いや、いつでもしなさい、主イエスはそう言われています。

しかし主イエスに対して香油が注がれたことは、なんとも不思議なタイミングでなされました。主イエスとマリアがかかわりを持ったのは、今日が初めてというわけではありません。主イエスとラザロは友でした。マリア、マルタともすでに親しい間柄だったのです。けれども今日の日に至るまで、マリアは主イエスに香油を注いだというわけではありません。しかしながら、合わせて言わなければならないのは、この先にもタイミングがなかったということです。実際に香油を注いで埋葬したのはニコデモになります。

マリアは自分自身でも本当のことはよく分かっていなかったでしょうけれども、数日後に十字架で死なれる主イエスの死を予感し、今ここで、主イエスに対する最大限の奉仕をした。主イエスの埋葬を行った。このようにして、マリアは主イエスの死とかかわりを持ったのです。

この説教の後で、讃美歌三九一番を歌います。「ナルドの壺ならねど」と歌い始める讃美歌です。歌詞の先頭に「ナルドの壺」とありますし、この物語の心をよく表している讃美歌の一つであると思います。

歌う際に歌詞を味わっていただきたいと思いますが、この讃美歌はもともと英語の讃美歌でした。英語の讃美歌が日本語になる場合、必ずしもそのままの意味で訳されるというわけではありません。音符に合わせなければなりませんので、どうしても違う意味になることも多いわけです。元の英語の讃美歌の最初の部分を、私なりに訳しますと、このようになります。「主よ、高価で香りのよい献げものがありません、しかしマリアのように、あなたの足元にいさせてください、愛の香りを増すことができますように…」。

日本語の讃美歌では、「ナルドの壺ならねど」と歌いだします。ナルドの壺ほどではないけれども、マリアの献げものと比べると見劣りするかもしれないけれども、そう歌い始めます。英語の讃美歌でも「高価で香りのよい献げものがありません」と歌いだしますので、その意味は同じです。私たちの正直な思いを表しているかもしれません。しかし元の讃美歌の続きの歌詞にあるように、そんな献げものしかできない私たちであるけれども、「あなたの足元にいさせてください、愛の香りを増すことができますように…」、これは私たちの共通の願いです。

主イエス・キリストは私たちの罪を背負い、十字架にお架かりになり、死なれ、埋葬され、三日目にお甦りになってくださいました。そのようにして私たちは罪赦されて、新しい命を得ることができました。私たちは主イエスの十字架の死を身に帯びているのです。主イエスの復活の命の香りのする者なのです。そういう生き方をすることができるのです。

今日の聖書箇所の三節のところに、「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。情景だけでなく、まるで香りまで漂ってくるような、そんな記述であると思います。私たちもこの香りと同じように、キリストの香りを放つことができます。キリストの死と復活によって罪赦されて生かされている私たちでありますから、私たちからキリストの香りが放たれているのです。キリストの姿は実際に目に見えなくても、かぐわしい香りは匂ってくる。

使徒パウロもコリント教会に宛てて書きました。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。…わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(Ⅱコリント二・一四~一五)。