松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20151206

2015年12月6日(日)
説教題「愛と死」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第11章5〜27節

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

旧約聖書: イザヤ書9:1~6

私たちが御言葉を聴いていますヨハネによる福音書には、全部で七つのしるしがあると言われています。しるしとは奇跡のことです。最初の奇跡が、第二章のところに記されているカナの婚礼での奇跡です。婚礼の際にワインがなくなってしまった。水をワインに変える奇跡、これが最初です。それ以降、癒しの奇跡があったり、五千人以上の人を五つのパンと二匹の魚で養ったり、奇跡が続いていきます。そして最後の奇跡が、第一一章に記されているラザロの復活になります。

いずれの奇跡も、しるしですから、主イエス・キリストの十字架へと向かっていく奇跡であると言えます。しかし最後の第七の奇跡、ラザロの復活の奇跡は、明確に主イエスの十字架と直結している、そんな奇跡です。主イエスがラザロを復活させた。この奇跡によって、多くの人が主イエスのところに行く。ついでにラザロのところにも行ってしまう。これを面白くないと思った人たちがいました。当時の大祭司カイアファを中心とする人たちでありましたが、主イエスを殺そうとする具体的計画が立てられていった。つまり、ラザロの復活が主イエスの十字架へつながっていったのです。

ラザロの復活の後は、奇跡は起きません。主イエスの十字架の死からの復活はもちろん奇跡と言ってもよいのかもしれませんが、ヨハネによる福音書の後半は、奇跡ではなく、主イエスの十字架と復活に集中していきます。

それとともに、愛という言葉の使われる頻度が増えてきます。ヨハネによる福音書には、愛という言葉が四十回以上も出てきます。初めて出てくるのは第三章です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(三・一六)。この箇所も含めて、第三章では二回出てきます。第五章で二回、第八章で一回、第一〇章でも一回です。第一一章に至るまでに、全部で六回しか出てきません。これ以降、たくさん愛という言葉が出てくるようになり、第一一章以降には三十数回も愛という言葉が使われます。

なぜ後半で愛という言葉がたくさん使われるようになるのでしょうか。それは、主イエスが十字架で死なれることは、愛と結びついているからです。いや、愛そのものであるからです。「もう一度、ユダヤに行こう」(七節)と主イエスは言われます。この前、石を投げられ殺されそうになったところです。なぜ主イエスをそこへ向かわせたのか。なぜ主イエスは自ら十字架にお架かりになったのか。その原動力が愛である。だから後半にたくさん出てくるのです。本日、私たちに与えられた聖書の箇所には、そのような主イエスの愛が溢れているのです。

今日の聖書箇所の五節のところに、愛という言葉が使われています。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(五節)。「その姉妹」となっているのは、マリアのことです。マルタ、マリア、ラザロのことを主イエスは愛しておられたとあります。

この三人の兄弟姉妹たちの順番はどうなっているのでしょうか。日本語だとどちらが上なのかははっきりしてきますが、外国語の場合はあまりはっきりしないところがあります。マルタとマリアのどちらが姉なのか。ラザロは兄なのか弟なのか。今まであまりその問題に触れてきませんでした。

まずはマリアとマルタですが、マルタの方が姉であると考えられています。ルカによる福音書の第一〇章に、マリアとマルタの話が記されています。主イエスを家にお迎えをする。それをしたのはマルタです。そしておもてなしをする。ところがマルタばかりが働いていて、マリアは主イエスの足元に座り、話を聴き入っている。マルタは何もしないマリアに不満を持ちました。そしてその不満を主イエスにぶつけるのです。この状況から、マルタが姉であることが分かります。

ところが、ヨハネによる福音書第一一章の最初の一節では、「マリアとその姉妹マルタ」と書かれています。マリアが先になっていますが、これはおそらく、続く二節にマリアが香油を塗ったことが書かれていますので、妹のマリアを優先させたのだと思います。五節で三人揃って出てくる際には、また順番が入れ替わって、マルタ、マリア、ラザロの順になります。そしてラザロはこの順番の通り、二人の姉妹の弟ということになります。

マルタというのは、アラム語の名前であると言われています。妹のマリアというのは、ヘブライ語名だとミリアムと言いますが、そのミリアムをギリシア語の形にしています。ラザロはヘブライ語です。つまり、マルタ、マリア、ラザロ。この三人の名前は、一人がヘブライ語、一人はアラム語、一人はギリシア語ということになります。三つの文化が混合しているわけですが、当時の社会ではそのようなことは珍しくなく、よくあったことのようです。

マルタ、マリア、ラザロ。その順番である両親の家庭に子どもが与えられていきました。最初はマルタ、女の子です。続いてマリア、女の子です。もちろんこれは祝福ですが、当時の社会としては、やはり男の子の誕生を願ったのだと思います。そして三番目にラザロという男の子が生まれる。ラザロは、神は救いという意味です。めずらしい名前ではなく、どこにでもある名前でした。男の子が生まれると、神の救いを思い、男の子にそういう名前を付けることがよくなされたようです。

そのラザロが死んでしまった。マルタとマリアの話には、両親がいたという気配がありません。もうすでに死んでいたのかもしれません。二人の姉たちにとっては、頼みの弟でした。しかし病の末に死んでしまう。兄弟姉妹の愛を分かつように、死が襲い掛かる。愛する者の死に直面をしたのです。

私たちは、普段あまり死のことを考えないかもしれません。いや、教会に生きる私たちは、それでも死のことを真剣に考えている方かもしれません。しかし私たちであっても、死に直面をするようなことがあれば、やはり心を騒がせます。愛する家族があと余命一年などと言われる。そのように死に直面すると、死のことも考えますが、生きることを私たちは真剣に考え出します。そして生きることを考える際に、愛を問います。自分は愛をもって生きているか。生きるにも死ぬにも、愛が問われるのです。今日の説教の説教題を「愛と死」にしたのもの、このことを考えたいからです。

聖書には、ヨハネによる福音書だけではなく、愛という言葉がたくさん出てきます。新約聖書の元の言葉であるギリシア語では、愛という意味を表す言葉がいくつかあります。同じ愛は愛でも、愛し方で微妙に異なると考えるからです。聖書で使われているのは、アガペーという愛と、フィリアという愛です。その他にも、例えばエロスという愛もあります。これはどちらかと言うと自己中心的な愛で、聖書では一回も使われていない愛です。

それに対して、アガペーというのは、一般的には自己犠牲的な愛、フィリアというのは同質的な愛と言われます。例えば「類は友を呼ぶ」と言います。似た者同士が集まり、友となるということです。同質だからこそ友になる。そこに愛が生まれる。それがフィリアの愛ということになります。

今日の聖書箇所の一一節のところに、「わたしたちの友ラザロが眠っている」という主イエスのお言葉があります。主イエスだけの友ではなく、私たちの友なのです。この友という言葉は、フィリアと語源を同じくする言葉です。フィリアとアガペーと聞くと、アガペーは自己犠牲的な愛でありますので、何となくアガペーの愛の方が上で、フィリアの愛が劣っている愛のように聞こえます。しかしヨハネによる福音書ではそうではないと、多くの聖書学者たちは考えています。

例えば、有名な箇所ですが、第一五章一三節にこうあります。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(一五・一三)。ここでの「友」という言葉がフィリアであり、「愛」という言葉がアガペーです。友を愛するあまり、その命を捨てる、それが最大の愛であると言われる。フィリアとアガペーが結びつくのです。このような箇所をもとに考えていきますと、ヨハネによる福音書ではアガペーとフィリアの愛に差がないことが分かってきます。

ラザロの物語にも、愛という言葉が三回出てきます。アガペーの愛があり、フィリアの愛もあります。三節と三六節がフィリアの愛です。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(三節)。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」(三六節)。五節がアガペーの愛です。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」(五節)。

主イエスの友を思う愛が、自己犠牲の愛だった。これがヨハネによる福音書が伝えていることです。マルタ、マリア、ラザロに対する愛がありました。その愛のゆえに、ラザロは甦りました。そしてラザロが復活したことにより、主イエスの十字架の計画が立てられました。第一二章に入りますとマリアが主イエスに香油を塗る出来事が記されています。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(一二・三)。

その上で、主イエスが言われます。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(一二・七)。第一一章でラザロが命を得、主イエスを殺す計画が立てられます。第一二章に入ると、今度はマリアが主イエスの葬りの準備をします。ラザロと主イエスの生と死が逆転したのです。なぜそうなったのか。主イエスを動かしていた原動力が愛だったからです。

ドストエフスキーというロシアの文豪が書いた小説の中に『罪と罰』というものがあります。この小説の中に、ラザロの復活の聖書箇所が出てきます。しかもクライマックスの一つの場面として、この箇所の聖書朗読がなされ、この小説全体に一つの大きな意味を与えます。

この小説の主人公はラスコーリニコフという青年です。鋭敏な頭脳の持ち主で、貧しい大学生でした。このラスコーリニコフが、高利貸しで血も涙もないような老婆を殺害してしまいます。自分のような将来がある青年が貧しく、この先がない老婆が金を持って大きな顔をしている。不合理な世の中に嫌気がさし、自分の身勝手な正義を貫き、老婆を殺害し、奪い取ったその金を社会のために用いようとする。ところが老婆の義理の妹であったリザヴェータがその場にたまたま来たため、リザヴェータも殺害してしまう。これが第一部の話です。

第二部、三部、四部と、ラスコーリニコフの罪意識が描かれていきます。苦悩のうちに過ごすのです。その詳細は読んでいただくしかありませんが、結局、ラスコーリニコフは老婆のお金を使うどころではなくなってしまいます。

そんな中、ラスコーリニコフは娼婦であるソーニャという女性と出会います。貧しさゆえに娼婦となったソーニャでしたが、心は純真のままでした。何よりも神を信じる信仰者でした。「神さまがそんなこと許すはずがないわ」、口癖のように何度もそのように言い、神を信頼して生きています。

ラスコーリニコフが罪意識にとうとう耐えられなくなったある日、ソーニャと二人で過ごしていたときのことです。ラスコーリニコフはソーニャに尋ねます。「それじゃ、ソーニャ、きみは真剣に神にお祈りをする?」。ソーニャは答えます。「神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」。「だが、それで神はきみに何をしてくれた?」、ラスコーリニコフは畳み掛けるようにして問います。ソーニャがしばらく沈黙してから、心を震わせて叫びます。「なんでもすっかりしてくださいますわ!」。ラスコーリニコフはそれがソーニャの中にある最終的な答えだと知ります。狂ったように神を信じている、狂信者ではないかと思うのです。

そんな時、ラスコーリニコフの目に、ロシア語訳の新約聖書が留まります。「これはどこで?」と尋ねます。ソーニャは、それがリザヴェータが持ってきてくれた聖書だと答えます。リザヴェータはラスコーリニコフがたまたま居合わせたために殺害してしまった人です。ラスコーリニコフはあまりにも大きな偶然に混乱しながらも言います。「ラザロのところはどのへんかね!」、続けて「読んでくれ!」と言います。「どうしてあなたに? だってあなたは信じていないじゃありませんか?」、ソーニャは答えます。しかし、「読んでくれ! ぼくは読んでもらいたいんだ!」とラスコーリニコフは強引にお願いをします。

ソーニャはためらいながらも読み始めます。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった…」(一節)。しかし読んでいくうちに、自分は神をまったく信じていないラスコーリニコフに本当は聖書を読んでやりたかったことに、ソーニャは気付きます。ソーニャは途中で詰まりながらも、結局、四五節まで読みます。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(四五節)。信じなかった多くの者が、信じるようになった。その箇所までついに読み終えるのです。

この聖書朗読後、ラスコーリニコフは自首をすることになります。逮捕され、裁判にかけられ、シベリアの刑務所に送られることになります。そのシベリアの地を、ソーニャが訪ねる。そのときの様子がこう書かれています。「二人は何か言おうと思ったが、何も言えなかった。涙が目にいっぱいたまっていた。二人とも蒼ざめて、痩せていた。だがそのやつれた蒼白い顔にはもう新生活への更生、訪れようとする完全な復活の曙光が輝いていた。愛が二人をよみがえらせた。二人の心の中にはお互いに相手をよみがえらせる生命の限りない泉が秘められていたのだった」(新潮文庫、工藤精一郎訳)。まだ刑期は七年も残されていました。しかし愛が二人に新たな命を吹き入れ、よみがえらせたのです。

その夜、彼が監獄に戻ったところ、枕元に聖書が置かれていたことに目が留まります。あの日、ソーニャに読んでもらった、自分が殺したリザヴェータが所有していた聖書です。改めて、この聖書を読んだ、ラザロの復活の記事を読んだ、そういうことは書かれてはいません。しかしその代わりにこのように記され、この長編小説は閉じられます。「しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間が次第に更生していくものがたり、その人間がしだいに生れ変り、一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、このものがたりはこれで終った」。

ラザロの復活の聖書朗読が、この小説の一つのクライマックスでした。愛を知らない者が、信じていない者が、愛を知り、信じるようになり、新たに変えられていく。その新たな歩みの出発点に立つ。そこで、『罪と罰』は終わるのです。ラスコーリニコフを変えたのは、ソーニャの自己犠牲的な愛であった。そのことを、ドストエフスキーは伝えたかったのです。

『罪と罰』が書かれたのは、一八六六年のことになります。詳しいことは知りませんが、その時代、ロシアでは様々なことが起こっていたようです。改革がなされる。しかしそれがうまくいかない。そんな中、青年世代を中心に、知識層が生まれつつあったようです。私たちも今、「インテリ」という言葉を使いますが、このような言葉が生まれていったのが、ドストエフスキーの時代のロシアにおいてであったようです。ロシア語では「インテリゲンチャ」と言い、西欧的な自由主義を叫ぶ人たちのことを指して言われました。『罪と罰』の主人公のラスコーリニコフはその代表者です。人間の知性だけによる改革がいかに危険であり、人間を破滅させるか。ドストエフスキーはその危険性を、ラスコーリニコフで表しているのです。

ドストエフスキーの警告は、本当のことになりました。インテリによる改革は破たんをしてしまった。社会を変えるのも、人間を変えるのも、本当に必要なものは愛である。本当の愛がラスコーリニコフのような人のかたくなな心を溶かす。その自己犠牲的な愛に生きた人こそが、ソーニャだったのです。ソーニャの愛が、ラスコーリニコフの知性に勝った。人間を変えるのは知性ではない、愛である。それがドストエフスキーの伝えたかったことでしょう。

このラザロの物語は、愛の物語です。単にラザロがよみがえっただけの話ではない。単に七番目の奇跡物語であるだけでない。主イエスが十字架にお架かりになる引き金となった出来事だけではない。そこに愛があった。主イエスの自己犠牲の愛があった。主イエスのこの愛が、この家族に染みわったのです。

主イエスはラザロを愛しておられた。ヨハネによる福音書には、この箇所以降、何度か「主イエスの愛する弟子」という匿名の人物が出てきます。最初に出てくるのは、第一三章二三~二五節のところです。最後の晩餐の席上での話です。「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと…」(一三・二三~二五)。

いったいこれは誰でしょうか。匿名の人物です。この後、十字架や復活の場面でも、この人物が登場をしています。最後に出てくるのは、この福音書が閉じられる第二一章の箇所です。

「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(二一・二〇~二四)。

この匿名の人物がいったい誰なのか。現代の聖書学の研究からすると、結論は分からないとなります。無名の著者です。しかし教会の伝統的に、十二弟子の一人、ゼベダイの子ヨハネとされてきました。だから「ヨハネによる福音書」です。その後、ヨハネではない、ということになった。いろいろな人の名前が考えられてきました。その中に、ラザロではないかという意見もあるのです。

根拠となるのは、「主イエス愛する弟子」という表現です。第一一章で、ラザロが主イエスから愛されていたことははっきりしています。第一二章では、食事の席に弟子たちと一緒に着いていました。そして最後の二一章の箇所です。主イエスの謎めいた言葉から、この人は死なないのではないかという噂が立った。なぜこんな噂が立ったのでしょうか。普通の人ならば、そんな噂は立たないのかもしれませんが、ラザロとなれば話は違います。ラザロは死んだけれども主イエスによって命を得た人です。もしかしたらラザロならば本当に死なないのではないか、そんな噂が立ったとも考えられます。

これはあくまでも推測です。楽しい想像にすぎません。この愛する弟子が誰なのかもよく分からない。しかし無名の弟子であることにも、意味があるでしょう。主イエスの愛は限りがないからです。私たちも無名の弟子。そこに名前を入れることができます。主イエスはラザロを愛しておられた。マルタもマリアも愛しておられた。弟子たちも愛しておられた。そして私たちをも愛してくださる。主イエスが十字架で死なれるほど、自己犠牲の愛に、私たちを生かしてくださるのです。