松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2016年1月3日(日)
説教題「死は敗れ、命の声が響く」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第11章38〜44節

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

旧約聖書: 詩編33

先週の月曜日に、教会を会場にして葬儀が行われました。葬りの礼拝です。その前日、日曜日の夕方には、別会場にて前夜式・納棺が行われました。そういう形で一連の葬りのときをもったわけですけれども、月曜日、教会という場所で葬儀を行うことができました。私たちの教会の礼拝堂では、会堂の狭さもあって、たくさんの方々が集まる葬儀をすることができません。月曜日にも会堂から人が溢れるほどの人数が集いましたが、教会で葬儀が行えたことを感謝しています。

教会の礼拝堂は、礼拝をするための場です。もちろん別会場で行っても、葬りの礼拝には変わりはないわけですけれども、礼拝するための場としての礼拝堂で葬儀を行うことができました。教会の方々も多く奉仕をしてくださいました。まさに教会に業としての葬儀をすることができ、感謝しています。

一連の葬りの際には、前夜式や葬儀だけではなく、何度も聖書を読み、祈るひとときが与えられます。どの葬儀であれ、その中の必ずどこかで、するようにしている話があります。葬りにおいて、私たちは何をするのか。亡くなられた愛する者を、私たちの手で運ぶのです。教会の伝統的な葬りの仕方として、私たちはこのようにしてきました。愛する者が亡くなると、家族や親しい者の手で、その体を教会へと運びます。そして最後の礼拝を教会で行います。礼拝が終わると、たいていは町の郊外に墓がありましたが、そこへと愛する者の体を運び、埋葬をします。これが教会の伝統的な葬りの仕方です。

今でも、そっくりそのまま行うわけにはいかないところはありますが、その伝統を大事にしています。先週、行われた葬儀は、まさにそのような形式でありました。愛する者のお体を教会へ運ぶ。葬りの礼拝を行う。そしてまた教会からお体を運び出す。そういう形で葬儀を行うことができました。

葬儀の際に、牧師の私がよく聞かれることがあります。お供え物をどうしたらよいかということです。日本では一般的に、死んだら別の世界への旅に出る、そのための旅支度を整えなければならないと考えます。食べ物や、場合によってはお金を持たせてやるというようなことも考えます。しかし教会の信仰に生きる私たちは、そのようには考えません。神がすべてを整えてくださる、そのように考える。もはや故人に対して、私たちができることは限られている。故人に最後にしてあげることができること、それはそのお体を運び、葬りを行う。そのことだけであると言っても過言ではありません。あとはすべて神がしてくださいます。

人間の営みは、葬儀のこの面によく表れていると言えるのかもしれません。私たちは愛する者が亡くなりますと、そのお体を運びます。また亡くなると、そのお体を運びます。そのように亡くなった方々を運び続ける。そして最後は自分が運ばれる。人間の営みは、はかなくもそうである、そう言えるかもしれません。しかしその中で、私たちは死よりも確かな希望が与えられている。その思いをもって、愛する者を運びながら、葬りの礼拝に臨むのです。

ここ二カ月ほど、ヨハネによる福音書第一一章から御言葉を聴き続けてきました。主イエスの友ラザロが死んだ。いったいラザロの葬りはどのようになされたのかと思います。聖書には書かれていません。主イエスが到着されたのは、ラザロが死んでから四日も経っていた後でした。実際の葬りの様子は分かりませんが、これ以上ない悲しみに包まれていた。それは確かです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所が、ラザロの復活の出来事の一応、最後の場面であると言ってもよいのかもしれません。来週は四五節以下から御言葉を聴きますが、ここに記されていることは、ラザロの復活を受けて、人々がどのように反応を示したかということです。ラザロの復活の後日談と言ってもよいかもしれません。

今日の箇所が最後の締めくくりと言えるのかもしれませんが、先週の聖書箇所と、今週の聖書箇所の違いを、少し考えてみたいと思います。先週の聖書箇所は、二八~三七節でした。ここには悲しみに暮れるマリアやユダヤ人たちの様子が記されていました。主イエスが人間を不信仰にしている死そのものに対して激しく憤られ、人間に対する憐れみの涙を流された、そんな御言葉を聴きました。お気づきになられた方もあるかもしれませんが、先週の会話文では主イエスのお言葉がほとんどありませんでした。「どこに葬ったのか」(三四節)、その一言だけでした。主イエスのお言葉よりも、むしろ主イエスのご様子の方が詳細に記されていました。

ところが今週の聖書箇所ではどうでしょうか。ほとんどの会話文が主イエスのお言葉です。唯一、主イエス以外の会話文は、三九節のマルタが発している「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」だけです。他は全部、主イエスのお言葉です。「その石を取りのけなさい」(三九節)に始まり、四〇節の「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」もそうですし、四一~四二節にかけての父なる神への祈りもそうです。

そして四三節の「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼ばれた声もそうですし、最後の「ほどいてやって、行かせなさい」(四四節)もそうです。人間は死の現実のただ中で、「もうにおいます」としか言えません。言葉を失っているのです。それに対して、主イエスは死を乗り越える命の言葉を、次々とその口から発してくださいます。これが、先週の聖書箇所との明らかな違いです。

四〇節のところで、主イエスは「栄光」という言葉を使われています。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(四〇節)。これは主イエスがマルタに対して言われた言葉です。しかし第一一章のどこを探しても、マルタに対して主イエスはそういう言葉は言われていません。

いったい「栄光」という言葉がどこにあるかと言うと、四節のところに出てきました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(一一・四)。マルタには直接言われていませんので、マルタはあまりよく分からないところがあったかもしれません。しかしいずれにしても、主イエスの言葉に促されて、人々はラザロの墓をふさいでいた石をどかしました。

「栄光」という言葉は、ヨハネによる福音書にしばしば出てくる言葉です。以前にも説教で触れたことがありますが、栄光とは、栄誉というようにも訳すことができますし、光というニュアンスをもって生かすことができます。日本語の翻訳は「栄光」です。栄えるという字に、光という字を合わせます。元の言葉のニュアンスをこれほどよく生かしている翻訳はないと思います。神の栄光とは、神に栄誉が送られる、神に光が当てられる、そんな意味になります。

特にヨハネによる福音書では、「光」のことが多く語られてきました。光と闇、その両方がセットになって語られる箇所のたくさんありました。代表的な三つの箇所をお読みしたいと思います。

ヨハネによる福音書の冒頭、さっそく光と闇という言葉が出てきます。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(一・四~五)。この箇所の説教でも触れましたが、「暗闇は光を理解しなかった」というところ、かつての口語訳聖書や、そのほか多くの翻訳では「闇は光に勝たなかった」というようになっています。光と闇のどちらが勝つか、光が闇に勝ったという宣言が、最初からなされます。

第三章一九~二一節では「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(三・一九~二一)。光が来たのにもかかわらず、光よりも闇の方を好む人間が多いことが言われています。しかし真理を行う者は、光の方にやって来ます。ここにも光と闇の対立が記されています。

第八章一二節で、主イエスは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(八・一二)。主イエスが暗闇の世の中を照らす光でいてくださいます。主イエスに従う者は、闇のなかを歩かず、命の光を持ちます。

このような聖書箇所がヨハネによる福音書にたくさんあるのです。闇は確かにあります。しかし主イエスの光がその暗闇にやって来た。暗闇の中で光が輝いているのです。

そういう表現が多くヨハネによる福音書にはあることは分かりました。しかしこのことは具体的に、どういうことを意味するのでしょうか。第九章のところに、目の見えない人の癒しが記されています。単に目が見えない人ではなく、生まれてこの方、光を見たことがなかった人です。その人が主イエスの癒しによって、光が見えるようになった。癒されたというよりも、新しい人へと造りかえられた話と言った方がよいでしょう。

第一一章は、私たちが御言葉を聴いているラザロの復活の話です。ラザロは死にました。死の闇の中に人々は包まれました。「もうにおいます」(三九節)としか人間は言いようのない現実でした。しかしその中で、主イエスが復活の光を見せてくださいました。闇の中でいっそう光が輝いている。それが、本日、私たちに与えられた聖書箇所が表している内容です。

主イエスが光でいてくださる。闇の中にいる私たちを照らし出してくださる。その光を自分のものにするためにはどうすればよいでしょうか。主イエスを信じることです。主イエスとの関係をそのように結ぶことです。信じることによって、私たちは光なるお方である主イエスと関係を結ぶことができるのです。

死んだらいったいどうなるのか。これは難問です。聖書にもその答えがほとんど書かれていません。死んだらどうなるのか、そのことを人間はいろいろと考えてきました。日本人は、なんとなく魂が肉体から分離をして、ふわふわと漂うような、そんなイメージを抱いているかもしれません。しかし何もそれは日本人に限ったことではありません。聖書が書かれた二千年前の人たちも、同じような世界観、人間観を抱いていました。特にギリシア人たちは、地上の生涯において、魂というのは肉体という牢獄にとらわれている。したがって人間の救いというのは、魂がいかに人間の肉体から脱却することができるのか、そう思っていました。

しかしもしそうだとして、死んだ後の人間の魂はどうなるのでしょうか。いったい何が救いになるのでしょうか。その魂がどこへ行ったら幸せになるのか。ふわふわ漂うだけで、誰とも関係を保てなかったとしたら、それはとても不幸なことになると思います。

聖書が語っているのは、死んだ後にどうなるのか、そのことではありません。聖書に答えがありませんので、そのことは以前と不明のままです。しかし一つ明らかなことがあります。主イエスとの関係は決して絶たれないということです。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ一四・八)という聖書の言葉があります。今、学んでいますハイデルベルク信仰問答の問一や、私たちの教会の献金感謝の祈りにも、この言葉が取り入れられています。私たちが生きている間はもちろん、死に臨む際も、死んだ後も、私たちは主イエスのものである。主イエスとの関係を生きているときも死んだ後も、信じることによってきちんと保つことができるのです。

四一~四二節にかけて、主イエスの祈りの言葉が記されています。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(四一~四二節)。この主イエスの祈りにも表されているように、主イエスは父なる神に、人間たちが信じるように、そのことを祈っています。

今日の聖書箇所ではありませんが、この次の箇所の最初のところにこうあります。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(四五節)。今日の聖書箇所に含めてよいような箇所ですが、実際に多くの人たちが主イエスを信じたのです。主イエスとの関係が信じることによって結ばれたのです。

闇の中、死の現実のただ中で、主イエスの大声が響きました。「ラザロ、出て来なさい」(四三節)。わざわざ「大声で」と記されています。死の現実に沈黙せざるを得ない人々の間で、主イエスしか言うことができない大声が響くのです。この話は、単にラザロが甦った、そのことだけを伝えている話ではありません。主イエスを信じない者たちが、主イエスを信じる者へと変えられた。主イエスを信じる者へと造りかえられた、そんな話であるのです。

ラザロは主イエスの大声を聞きました。いったいラザロがいつ息を吹き返したのか、そのことははっきりとはよく分かりません。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」(四四節)。「顔は覆いで包まれていた」とあります。顔が覆われていたのに、いったいどうやって出てきたのか、そのことを不思議に思う人もいます。しかしこのことは不思議でもなんでもないと思います。ラザロは主イエスの大声を聞いたのです。その主イエスの声がする方に向って行っただけです。

死の覆いが取り除かれて、ラザロは生きる者になりました。ラザロを初めてとして、周りにいた人たちが主イエスを信じるようになりました。主イエスの御声を聞いて、それに応え、信じる者へと、私たちは造りかえられていくのです。