松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20151227

2015年12月27日(日)
説教題「キリストの憤りと涙」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第11章28〜37節

マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

旧約聖書: ホセア書11:1~9

クリスマスの様々な祝いがなされました。先週の日曜日は、クリスマス礼拝と祝会がなされました。一二月二四日の夜には、クリスマスキャンドル礼拝が行われました。礼拝堂からあふれるほど、多くの方が出席してくださいました。キャンドル礼拝は、毎年、正確に人数を数えているわけではありません。しかし私の感触では、おそらく過去最高の人数だったのではないかと思います。初めて来られた方がありました。久しぶりの方もあった。昨年のキャンドル礼拝以来、一年ぶりの方もありました。教会から離れている方も来られました。

キャンドル礼拝が終わり、いつものように玄関に立ち、帰られる方々と挨拶をかわしました。クリスマスの祝福の挨拶です。その挨拶を交わした方の中で、おそらく初めて教会に来るのは初めての方だと思います。ある大学生から質問を受けました。「聖書は何語で書かれたのですか?」、そういう質問です。キャンドル礼拝では、聖書に基づいて説教が語られましたし、クリスマスの聖書箇所がたくさん読まれました。それらの聖書の言葉を聴いて、興味を持たれたのかもしれません。私はすぐに答えました。「新約聖書はギリシア語で書かれました。そしてたくさん言葉に翻訳されています」、と。

この短いやり取りでしたが、私はとても嬉しく思いました。聖書に対する興味を持ってくださったからです。聖書がもともと、どの言語で書かれているのか。初めてにしては、鋭い質問だと思います。聖書がどんな言葉で書かれたのか、聖書には何が書かれているのか、誰が書いたのか、誰が読んできたのか、聖書に対する興味とともに、たくさんの疑問が湧いてきます。

聖書は、神が私たちに与えてくださったラブレターです。神がどんなに私たちを愛していてくださるのか、そのことが分かる愛の手紙です。その愛のゆえに、クリスマスの出来事が起こりました。神の独り子、主イエス・キリストが私たちのところに遣わされ、クリスマスのときにお生まれになった。その主イエスがどれほど私たちを愛してくださったか。質問をしてこられた大学生だけでなく、すべての方々にその愛を、聖書を通して、そのことを知っていただきたいと願っています。

愛というのは、一つの感情です。私たちの心の一つの状態と言ってもよいと思います。私たちの心は愛することを知っています。新約聖書の元の言葉であるギリシア語では、愛に相当する言葉がたくさんあります。ギリシア人は、同じ愛でも、いくつもの愛し方があると考えて、たくさんの愛を言葉と共に定義しました。その愛は、人の心、感情とかかわります。人は愛し、愛される。その愛の関係に生きる。そして、本日、私たちに与えられた聖書箇所には、主イエス・キリストの心、感情が非常によく表されています。おそらく、新約聖書で最も主イエスの感情がよく表れている箇所の一つではないかと思います。

二週間ぶりにヨハネによる福音書に戻ってきました。先週はクリスマスの礼拝で、別の聖書箇所から御言葉を聴きました。ヨハネによる福音書第一一章に書かれている話を、少し思い起こしていただきたいと思います。このひとつ前の聖書箇所では、主イエスがラザロたちの住んでいるベタニアの町にようやく到着されました。ラザロが死んだ後、四日も経った後のことです。主イエスが来られたと聞いて、姉のマルタが主イエスを迎えました。そして主イエスと深い対話をします。死と復活について、深い命の対話をすることができました。それがこの箇所までの話です。

今日の聖書箇所の最初の二八節にこうあります。「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。」(二八節)。先に主イエスに会った姉のマルタが、妹のマリアに「耳打ち」しています。なぜマリアだけに聞こえるように、耳打ちしたのでしょうか。主イエスはユダヤ人たちから命を狙われていました。ついこの前は、このベタニアのすぐ近くにあるエルサレムで、石を投げられそうになりました。主イエスがここにおられる、そのことが広く知られてはまずい。マルタはそう考えて、マリアだけにこっそり伝えたのだと思います。

マリアは主イエスのところに迎えました。周りにいたユダヤ人たちも、急に立ち上がって出て行くマリアの後を追いました。マリアが主イエスの顔を見るやいなや、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(三二節)と言いました。姉のマルタが二一節のところで主イエスに言った言葉と同じ言葉です。

これを聞かれた主イエスの様子が、続く三三節に記されています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた」(三三~三四節)。この主イエスの感情をどう理解したらよいでしょうか。新共同訳聖書では「心に憤りを覚え」となっています。かつての口語訳聖書や、カトリック教会のフランシスコ会訳では「激しく感動し」となっています。憤るのと、感動するのでは、受ける印象がだいぶ違います。

憤りと訳されている言葉、もとのギリシア語ではどういうニュアンスなのでしょうか。そういうことを調べる際には、同じ言葉が使われている別の箇所を読んでみることをします。この言葉が使われているのは、新約聖書でも四箇所だけです。

マタイによる福音書第九章三〇節では、主イエスの癒しによって目が見えるようになった二人の人に対して、誰にもこのことを知らせてはならないと、彼らに「厳しくお命じに」なりました。厳しく命じるというのが、この言葉です。マルコによる福音書第一章四三節では、主イエスの癒しによって重い皮膚病が癒された人に対して、「厳しく注意して」、誰にも言うなと言われました。厳しく注意するというのが、この言葉です。マルコによる福音書第一四章五節では、非常に高価な香油を主イエスに注いだ者に対して、その場に居合わせた何人かの人たちが憤慨して、「厳しくとがめ」ました。厳しく咎めるという言葉が、この言葉です。すべて「厳しく」というニュアンスで訳されています。非常に強い感情を表すのです。

このギリシア語の一般的な意味としては、鼻で息をするというところに由来し、どちらかと言うと、不機嫌を表現する言葉です。ある解説にはこう書かれています。「言葉の調子などによって怒りや感動を表すこと。あるいは、きびしく命令すること」。感情が高ぶるのです。

この言葉と並んで、三三節の終わりのところで、「興奮して」とあります。この言葉は、心を騒がせる、乱すという意味です。しかし主イエスが私たちのように心を乱すというのはおかしいので、「興奮して」と訳すのが正しいと思います。そうなると、「感動」のあまり「興奮して」というよりも、「憤り」のあまり「興奮して」という方が正しいと思います。

それでは、主イエスはいったい何に対して憤られたのでしょうか。二つの可能性があります。一つ目の可能性は、三三節に「彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て」とあります。「彼女」に対して、「一緒に来たユダヤ人たち」に対して、つまり人間に対して憤られたという可能性です。復活にして命であるキリストがやって来られたのに、人間たちはちっともそのことを信じない。不信仰な人間たちに対して憤られた。それが一つ目の可能性です。

しかしこれだと、三五節の主イエスの涙の理由が説明できません。「イエスは涙を流された。」(三五節)。激しく憤り、その怒りのあまり出た涙とは、とても考えられません。人間に対して怒っておられるのであれば、涙を流す理由もありませんし、その場の人たちを叱責すればよいのです。しかしそんなそぶりはありません。

もう一つの可能性があります。確かにここにいる人間たちは不信仰です。死ですべてが終わりと思っているところがあります。しかし人間の前に立ちはだかっている死、その死そのものに対して憤っておられる。これが第二の可能性です。マリアも、マルタも、「主よ、もしここにいてくださいましたら…」(二一節、三二節)と言いました。ユダヤ人たちも、もうラザロは死で終わったのだ、そう思っていました。人間たちをそのように不信仰にさせている死そのものに対して、憤られたのです。

三八節にも、同じ「憤り」という言葉があります。三七節と三八節は、小見出しが間に入れられて、まるで断絶しているかのようですが、しかし実際は断絶しているわけではなく、つながっています。「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(三七節)という不信仰な言葉を聞かれた主イエスが、憤られたのです。これも人間を不信仰にしてしまっている死に対する憤りだと考えることができます。

死は人間を不信仰にします。不信仰という言葉をたくさん使ってきましたが、不信仰とは、要するに神を信じられなくなるということです。神に対する信頼が揺らいでしまう。委ねるべきことも委ねることができなくなる。それが不信仰です。

もちろん、人間を不信仰にするのは、死だけではありません。病がそうさせる場合もあります。重すぎる重荷を背負わされたときに、不信仰になることもあります。様々な労苦を負い、それが報われないようなときにも、神から心が離れ、不信仰になる場合もあります。自分の思い通りにならないときも、なぜ神は自分が考えているようにしてくださらないのか、そのように不信感を持ってしまうこともあるでしょう。

しかし人間を一番不信仰にしているのは、やはり死であると思います。なぜこの人は死ななければならないのか。そもそもなぜ人間は死ななければならないのか。このことで不信仰になる場合もあるでしょう。なぜこの赤ん坊は生まれてすぐに死ななければならなかったのか、なぜこの人は津波に流されて死ななければならなかったのか、不条理な死を遂げた場合にも、神から心が離れてしまう場合もあります。死が、最も人間を不信仰にしてしまうのです。

主イエスは、この死に対して憤られました。主イエスはラザロたちを愛しておられました。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(一一・五)。愛する者たちが死に直面し、不信仰になっている。人間を不信仰にする死に対して憤られ、不信仰の罪に支配されている人間を憐れみ、涙を流された。そうとしか、主イエスの憤りと涙の理由を説明がつきません。

主イエスが涙を流されたシーンが、新約聖書の中に二回、記されています。たった二回です。本日、私たちに与えられた聖書箇所がそのうちの一回です。もう一か所は、ルカによる福音書第一九章四一節以下の箇所です。

「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ一九・四一~四四)。

この聖書箇所は、やがて崩壊するエルサレムの街を嘆いて涙を流されていますが、そもそもは人間に対して、その不信仰を嘆いているのです。しかしそのように嘆きながら、主イエスは憐れみの涙を流してくださった。憐れみのあまり、自ら傷んでまで、十字架に架かって命を投げ出してまで、人間を救おうとなさるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、ホセア書です。ホセア書には、預言者ホセアが語った言葉が中心に記されています。イスラエルの国が北と南に分裂をしていたときに、北王国イスラエルで語った預言の言葉です。このとき、イスラエルは厳しい状況に直面していました。国の滅亡の危機、人間の罪が渦巻いていました。そのことをはっきり指摘して、神に悔い改めて、神に立ち返るように説いた。それが預言者ホセアです。

旧約聖書では、めずらしく「愛」という言葉が多く使われています。新約聖書ではたくさん「愛」という言葉が出てきますが、旧約聖書ではさほど多いというわけではありません。しかしこのホセア書では、特にこの第一一章では何度か出てきます。一節にこうあります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」(ホセア一一・一)。

四節にもこうあります。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。」(一一・四)。人間に対する神の愛が語られています。憐れみも語られています。九節のところでは「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」とあります。人間に対して憤られるのではない、人間とは違う聖なる者なのだと言われます。

私たちが信じている神は、心をお持ちです。人格神と言われることもあります。心がない機械のような神ではない。何かの法則や、宇宙そのものが神であるというわけでもない。神は心、感情、人格をお持ちであり、私たちを愛し、憐れんでくださいます。その神の心が、本日私たちに与えられた聖書箇所の主イエスに現れているのです。

先週の金曜日、教会員の方が逝去され、明日、教会で葬儀を行います。この一年ほど、病との戦いでした。最期は死との戦いでした。二週間ほど前に病院を退院されました。良くなったから退院というわけではありません。最期の看取りをするために、病院を退院され、ご自宅に戻られた。近くの医者や看護師の助けを借りながら、ご家族で最期を看取られました。

私も二、三日に一度くらいのペースで、訪問を続けました。訪問できない日はお電話でその日の様子を伺いました。私たちは特別なことができたわけではありません。医療行為ももうできなくなっていた。点滴ももうすることができなくなっていた。体の世話をした。教会としてこの兄弟に行ったことは、一一月に病床洗礼を授けたこと、そして祈り続けてきたことだけです。もう人間としてやるべきことはすべて行った。後は祈るのみでした。

「神さま、助けてください」、「日々の生活が守られますように」、「今のこの一時一時が平安でありますように」、そのことを祈り続けてきました。私たちに与えられたのは、祈り続ける信仰です。祈らない、神に不信仰を抱く、そういうことではない。祈るのみ、それだけかもしれませんが、祈る信仰が与えられました。主イエスが私たちの不信仰を取り除いてくださった。今はそう実感しています。

主イエスは憤り、涙を流され、墓に立ち向かわれました。死そのものに立ち向かってくださったのです。「どこに葬ったのか」(三四節)、そう言われます。そして「墓に来られた」(三八節)のです。死との戦いは私たちの戦いでもありますが、その戦いに先立って主イエスが戦ってくださいました。そして死に勝利をされ、死の扉を開けて、命を与えてくださいました。「わたしは復活であり、命である」(一一・二六)、主イエスのその言葉が、本当に私たちを生かしてくださっているのです。