松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20151213

2015年12月13日(日)
説教題「我は復活なり、命なり」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第11章17〜27節

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

旧約聖書: 詩編146

ヨハネによる福音書第一一章に記されているラザロの復活から御言葉を聴き始めて、今日で四回目になりました。今日は一七~二七節から集中して御言葉を聴きます。今日の聖書箇所の最初にこうあります。「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」(一七節)。主イエスが到着を遅らせたわけですが、その四日目にようやく到着したわけです。

四日というのは、どういう意味があるのでしょうか。主イエスは十字架にお架かりになり、三日目にお甦りになりました。主イエスは三日、ラザロは四日。一日の違いはありますが、三日や四日、死の後に経っているわけです。昔は医療技術が進んでいるわけではありませんでした。今では、人の死はきちんと定義づけられています。医者がこの人は死んだときちんと診断をします。その診断が間違うことは、ほとんど、いやまったくありません。

しかし昔は違いました。この人は死んだ、そう思っても、一日や二日で息を吹き返す。まれにそういうこともあったそうです。つまり、主イエスが三日目に甦られた、ラザロが四日目に復活したというのも、完全にこの人は死んだ。その上で、生き返ったということを表している。それが三日であり、四日という数字です。

ラザロが死んで、四日目になっていた。ラザロは完全に死んだということが明らかになったところでした。ラザロの姉であるマルタとマリアも、かすかな希望を抱いていたかもしれません。弟ラザロが死んだ。当時は、死んだその日に葬りがなされたようです。しかし一日、二日と、かすかな希望を抱くことは許される。もしかしたら、愛する兄弟が息を吹き返すかもしれない。しかし四日。完全にその希望も潰えていたわけです。

そこに、主イエスがマルタとマリアのいるベタニアに来られました。「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」(一八節)。スタディオンというのは、聖書の後ろに便利な単位表がありますが、それによれば、一スタディオンは約一八五メートルとあります。十五スタディオンは三キロ弱くらいの距離です。ベタニアからすぐに歩いてエルサレムに行けます。

エルサレムはついこの前、石を投げつけられて主イエスが殺されそうになったところです。そのところへ主イエスは行かれた。主イエスの死が暗示されているような、ベタニア。それが今日の聖書箇所の舞台になります。

一九節に、慰めに来ていた人たちのことが記されています。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」(一九節)。今のお葬式でもそうですが、弔問客がありますと、家の人が応対をします。姉のマルタが、応対にあたって、おもてなしをしていただろうと思います。

そこへ、主イエスが来られます。「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」(二〇節)。姉のマルタは主イエスを出迎えました。妹のマリアは家の中で座っていました。ルカによる福音書第一〇章の終わりに、マルタとマリアの話が出てきます。マルタが給仕をし、マリアが主イエスの足元で話を聴き入っている。それと同じような状況と言えます。

今日はマルタと主イエスの対話に集中して御言葉を聴きます。来週はクリスマス礼拝ですので、ヨハネによる福音書以外の聖書箇所から御言葉を聴きますが、再来週、二八節以下のマリアと主イエスのやり取りに戻ってきます。

二一節のところで、マルタが主イエスに対してこのように言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(二一節)。再来週の聖書箇所の三二節でも、マリアが同じ言葉を主イエスに言っています。このとき、マルタはどのような思いを込めて、この言葉を言ったのでしょうか。

主イエスがなかなか来てくださらない。結局、来られたのは死後四日経ってからであった。遅いではないか。そういう非難や怒りが込められているのかもしれません。あるいは、愛する弟ラザロが死んでしまった。息を吹き返すかもしれない、かすかな期待を抱き過ごしていたけれども、ついにその期待もゼロになってしまった。心底、嘆きながらこのように言っている。そう言えるかもしれません。

私たちも、神に対する心というのは、必ずしも一つではないかもしれません。私たち人間は複雑であります。神に対して百パーセント喜んでいる、そんなことはまれかもしれません。喜んでいながらもどこか不安を抱えていたり、神に委ねると言っておきながらも憂いを抱いていたり、私たちは複雑であります。マルタもこのとき、複雑な感情を持っていたと思います。悲しみの率直な思いもあれば、四日も遅らせた主イエスに対する不満もあったかもしれません。

三二節の妹マリアは、この言葉しか言うことができませんでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(三二節)。マリアはこれで終わりでしたけれども、姉のマルタはもう少し言葉を続けることができました。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(二二節)。

マルタは、なぜ四日も到着が遅れたのですか、そう主イエスを非難する言葉を続けているわけではありません。どうか弟ラザロを復活させてください、そう主イエスにいきなりお願いをしているわけでもありません。主イエスの言われることなら、神は何でも適えてくださるだろう。そう言っているのです。

二三節と二四節の対話が続いていくことになります。「あなたの兄弟は復活する」(二三節)と主イエスは言われます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(二四節)。これらは、文法で言いますと未来形になりますが、すべて未来のお話です。

マルタが言った二二節の言葉も、実は未来形の言葉がありました。未来形がはっきりと分かるように、二二~二四節の対話を改めてお読みしたいと思います。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神は適えてくださるだろうと、わたしは今でも承知しています」。「あなたの兄弟は復活するだろう」。「終わりの日の復活の時に復活するだろうことは存じております」。マルタは徹頭徹尾、ここでは未来のことを話しているのです。主イエスも二三節ではマルタに歩調を合わせるようにして、「あなたの兄弟は復活するだろう」と言われました。

マルタの二四節の答え方「終わりの日の復活の時に復活するだろうことは存じております」というのは、当時のユダヤ人の典型的な答え方であると言われています。ユダヤ人の中には、サドカイ派と呼ばれる人たちもいました。サドカイ派は、聖書の中にも出てきますが、復活を否定していました。

しかし他の人たちは復活を肯定するのです。ファリサイ派と呼ばれる主イエスや弟子たちとしばしば対立していた人たちは、義人の復活を信じていました。旧約聖書にも、例えばダニエル書などに、義人の復活のことは書かれています。未来のあるときに復活するだろう、マルタは当時の一般的なそのような理解を、ここで示していたのです。

私たちはどうでしょうか。死んだらどうなると思っているでしょうか。将来はどうなるのでしょうか。「天国に行けるだろう」、「愛する人と再開することができるだろう」、未来形で、そのように思っているかもしれません。もちろん聖書はそれを明確に否定しているわけではありませんが、それだけを強調しているわけでもありません。むしろ強調していることが別にあります。未来だけの話ではないのです。もしこの聖書箇所が二四節で終われば、未来に復活するだろう、それだけで終わるかもしれませんが、二五節以下が続いていくことになります。

ここからがむしろ大事なのです。二五~二六節にかけて、こうあります。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(二五~二六節)。ここからが現在の話になります。二五節の最後「死んでも生きる」とありますが、ここだけ「死んでも生きるだろう」というように未来形になっていますが、他は現在の意味です。このことの意味を深く受け止めるべきです。主イエスが強調しておられるのは、現在です。「わたしこそが復活であり、命である」、その私を、あなたは今、信じるか、そう問われているのです。

主イエスがマルタに対して、新しい答えを与えてくださいました。マルタにとって、望みは何だったのでしょうか。ラザロが死なないことが望みでした。死んでしまった直後は、息を吹き返すことでした。四日経っていよいよ死んだことがはっきりすると、未来の復活の望みを、自分の中から絞り出したわけです。しかし主イエスは、今のことを問われる。もちろん、今だけではなく、今も、これからも、将来にわたってすべてにかかわってくることです。主イエスが今、新たな望みをくださるのです。

私たちにとって、今の望みとは何でしょうか。キリスト者の私たちが現在においても抱ける希望とは何でしょうか。いったい何が本当の望みなのか、そのことをよく考えなければなりません。病人の人が死なないように、そのことを確かに私たちも願います。死の直後であれば、息を吹き返すように、そう思うこともあるでしょう。しかし後から冷静になって考えてみると、その時、死を免れたとしても、やがて死は必ずやって来ます。

ラザロのようにもしも生き返ることができたとしても、やがて死はやって来るのです。ラザロは二度、死にました。二度、葬式がなされました。家族にとっては、二度の死を経験し、二度の葬儀をしなければならなかった、二度の悲しみを味わわなければならなかった。もしかしたら、そのように言えるのかもしれません。

しかし、聖書にはもちろんラザロの二度目の葬式のことは書かれていませんが、二度目の葬儀のときは、まったく違ったものになったと思います。今、すでに主イエスによって与えられる望みがあるから。その中での葬儀になったからです。

主イエスは二六節の終わりでマルタに問われます。「このことを信じるか」(二六節)。マルタの答えが二七節に記されています。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(二七節)。主イエスは「このこと」と問われました。英語で言えば“this”です。信じる者は死んでも生きる、生きている信じる者は死ぬことがない。このこと、であります。しかしマルタは「あなたを信じる」と答えています。これは間違った答えでも、矛盾している答え方でもありません。これ以上ない正しい答えです。

マルタの答えは、多くの人が指摘していますが、教会の答え方です。初代教会が、ヨハネによる福音書の最初の読者たちの教会が、マルタと同じように、このように答えていました。今の私たちも同じです。主イエスが復活であり、祈りであるお方だからこそ、このように答えることができるのです。

クリスマスに向けて歩んでいます。先週、長老会が行われ、その最初のところで三人の方の試問会が行われました。洗礼の志が与えられている方が一名、信仰告白の志が与えられている方が二名です。今日もこの礼拝直後、臨時長老会を行い、お二人の洗礼志願者の試問会を行います。

試問会は、試すという字に、問うという字を書きます。試して問うなどと聞きますと、恐ろしいようなイメージを抱かれるかもしれませんが、実際に試されているのは牧師であり、長老であると言えるのかもしれません。志願者の方は、ご自分の歩みを率直に話します。洗礼や信仰告白の志が与えられていることを話します。

その後、問われるのは牧師、長老です。この方に本当に洗礼を授けてよいのか、信仰告白式を行ってよいのか、神の御心を問いながら、その判断をしなければなりません。とても重い務めです。しかしそれ以上に、牧師になって、長老になって本当によかった。そのように思う、幸いに満ちたときでもあります。神がその方に働きかけてくださっている、その救いの出来事を目の当たりにすることができるからです。

試問会の席では、いろいろな質問も長老から出されますが、私から最後の質問をします。教会はこの信仰を持ち、教会の私たちもこの信仰に生かされてきました。あなたもこの信仰に生きることを願いますか。そのように問います。はい、と答えることができれば試問会は無事に終了です。試問会は、ただそのことだけを試し、問うているのです。

主イエスも「このことを信じるか」(二六節)とマルタに問うてくださいました。問われたことにマルタは答えました。はい、信じます、と答えたのです。マルタもこのとき試問会がなされたと言ってもよいでしょう。マルタも、教会に与えられている答え方で答えた。私は今、あなたを信じる。現在形の言葉で、そのように答えたのです。

キリスト者に与えられている望みは、確かに将来に望みもありますが、現在、すでに与えられているものです。主イエスがこの箇所で特に強調なさったことです。クリスマスのシーズンを歩んでいます。この季節、特に多くの訪問をします。先週も教会員をお訪ねしました。今週も訪問する予定です。なかなか教会に来ることがおできにならなくなった方々です。

死や病との戦いがあります。その戦いの最中に訪問をする。しかしそのただ中でも、一緒に讃美歌を歌い、祈りをし、聖書を読み、御言葉を聴き、聖餐に与ります。元気だった頃、若かった頃とやっていることは何一つ変わりません。いや、むしろ元気だった頃よりも、もっとよく感謝して与っているのです。主イエスが言われている「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(二五~二六節)という言葉が、本当にそこで生きていることを実感します。

私はかつて、ここでの主イエスのお言葉が、分かるようで分からないと思っていたところがあります。牧師になる以前、この聖書箇所を読んだり、この聖書箇所を勉強したときに、頭では分かる。観念的には分かるけれども、どうもあまり実感が湧かないような、そんな思いがしていました。しかし牧師になり、実際に多くの死や病に直面してくる中で、初めて主イエスのお言葉を実感するようになりました。

そのような場面で、最後まで残る望みとは何でしょうか。病が治りますように、死なないように、確かにそのことも祈ります。しかし最後はだんだんとその祈りが変わってきます。愛する家族が、キリストを信じて死ぬことができるように。自分が最後までキリストを信じて死ぬことができるように。そのような祈りを祈っていきます。最後まで残るものは何か。キリストを信じる信仰です。復活であり、命であるキリストのその命の中で、今を生きることができるように、最後まで生きることができるように。それが最後のいつまでも潰えない望みです。

信仰を言い表し、洗礼を受けた私たちは、もうすでに新たな命に生きることが始まっているのです。古い自分に死に、新たな命に甦った。それが洗礼の出来事です。今すでに新たな歩みが始まっているのです。今の望みがあり、将来にわたる望みがあるのです。試問会に臨み、このクリスマスに洗礼、信仰告白をされる方も、この命がまさに始まろうとしています。まだの方は、ぜひこの新たな命を生きる歩みに加わっていただきたい。クリスマス、主イエスが来られるときです。復活であり、命である主イエスが来られるのです。