松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20151129

2015年11月29日(日)
説教題「死と眠りから目覚める」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第11章1〜16節

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

旧約聖書: 詩編88

先週の礼拝でも今日と同じ聖書箇所を朗読いたしました。ただ、先週の説教では、ヨハネによる福音書第一一章の一節から四節までしか触れることができませんでした。特に先週は四節の「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」という主イエスの言葉に集中しました。今日は五節以下ということになります。

五節は来週改めて触れる機会があると思いますが、六節のところ、主イエスはラザロが思い病であることを耳にしてから、なおも二日、同じ場所で滞在したことが書かれています。ようやく七節のところになり、主イエスは言われます。「もう一度、ユダヤに行こう。」(七節)。

このとき、主イエスたちはヨルダン川という川の向こう側におられました。第一〇章四〇節にこうあります。「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。」(一〇・四〇)。この場所では、主イエスのことを信じる者が多かったようです。主イエスたちにとって、安全な場所でありました。

しかし同じ第一〇章に、主イエスがエルサレムにおられたときに、石を投げられそうになりました。主イエスに対する殺意です。もう一度、あの殺意があったユダヤ時に行こうと主イエスは言われます。ラザロたちがいたベタニアという村は、エルサレムのすぐ近くであり、この地方をユダヤ地方と言います。殺意の中に飛び込みに行くようなものです。

弟子たちにとっても、殺されに行くようなものです。当然のことながら、弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」(八節)と言います。そのように驚き怪しむ弟子たちに対して、主イエスは言われます。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(八~九節)。

当時のユダヤ人もローマ人も、昼間の時間を十二分割していたようです。今の私たちは一時間が六十分であるという絶対的な時間で過ごしています。夏ですと昼間は十五時間くらいあるでしょうか。冬ですと十時間くらいしかないかもしれません。しかし当時の人たちは日の出・日の暮れを起点・終点として十二分割していました。当然、季節によって一時間の長さが変わってくるわけです。

昼間は十二時間ある、当たり前のことを主イエスは言われているわけですが、何が意味されているのでしょうか。「昼のうちに歩けば、つまずくことはない」「夜歩けば、つまずく」と続けて言われます。光のある昼間ならば大丈夫だということです。

ヨハネによる福音書の一つの特徴は、定められた時があるということです。最初の方では、「わたしの時はまだ来ていません」(二・四)と主イエスは言われました。しかし十字架を直前にした祈りのときに、主イエスは言われます。「父よ、時が来ました」(一七・一)。今までも石を投げられて殺されそうになる命の危険がありました。しかし主イエスはそれをかわしてきました。まだ時が来ていなかったからです。逆に言えば、時が来るまでは大丈夫だということです。昼間歩けばつまずかないとは、そのことを意味しています。

しかしもう夕暮れ時です。夜が近いのです。最後の晩餐の席上ですが、第一三章三〇節にこうあります。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(一三・三〇)。晩餐ですから夜の食事の席の話です。「夜であった」というのは単なる時間描写だけではないと言われています。夜が更け、闇がどんどんと濃くなっている。十字架の時が迫っている。そして復活の朝へと向かっていく。光と闇もまた、ヨハネによる福音書の一つの特徴です。

一一~一三節のところで、主イエスと弟子たちとのやり取りが記されています。「こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。」(一一~一三節)。

弟子たちは主イエスの言葉を誤解してしまい、死と眠りと取り違えてしまいました。確かに主イエスが使っておられる言葉は、普通の眠りという意味だけでなく、死をも意味する言葉でもあります。私たちも「永眠」などという言葉を耳にすることもあります。年賀状の季節が近づき、喪中の方から喪中ハガキをいただく季節になりました。年賀状ではなくクリスマスカードを用いる場合は、あまり気にする必要はないのかもしれませんが、喪中ハガキの中には、自分の家族の者が「永眠」したので、ご挨拶は遠慮させていただくと記されています。死を婉曲に言う言い方だと思います。

聖書でも、眠りと死の両方を意味するこの言葉は繰り返し使われていますが、そのうちのかなり多くが、死と復活に関連して使われています。単なる眠りではないのです。復活が前提とされている死。だから眠りということになります。

一一節後半に「起こしに行く」とあります。これはそのままの意味です。一般的なギリシア語としても、復活の意味はないと聖書学者が教えてくれます。主イエスがラザロを「眠り」から「起こしに行く」と言われた。弟子たちが誤解をしてしまったのも、無理はなかったかもしれません。

死と眠り。いったい死は眠りなのでしょうか。死ですべてが終わりだとすれば、目覚めがないとすれば、死は眠りではないということになります。反対に死の先がある。そうであれば、死は眠りということになります。弟子たちにとって、この時はあまり深く考えていなかったかもしれません。眠りと死を誤解してしまった。単なる誤解と言えるかもしれません。

しかしその誤解が真実になりました。ラザロの死が、弟子たちが言うように眠りであった。「助かるでしょう」(一二節)と弟子たちは言っています。この言葉は、聖書でも深い意味のある言葉で、癒される、救われるという意味です。単に病から助かるだけの話ではなく、癒され、救われる。弟子たちが軽く言った言葉が、主イエスによって真実にその通りになったのです。

死は眠りである。しかしだからと言って、私たちは死を軽く考えるわけにはいきません。死を永眠と言って、死の現実を薄めようとするわけにはいきません。第一一章では、ラザロの死に直面した人たちの深い嘆きもまた語られています。

先日、ある講演の録音を聴きました。聖書、それも旧約聖書における嘆きということに関してです。お話をしてくださった講師の先生が言われます。現代は特に、嘆きが失われているのではないか。嘆きの言葉をなかなか口に出せなくなってしまっているのではないか。そのような問いかけがなされました。

例えば、東日本大震災が起こり、復興ということが今でも盛んに言われています。もちろん、いろいろな人がいるわけです。復興に向けてがんばっている人もいれば、復興をあきらめている人もいる。マスコミが特に取り上げるのは、復興に向けてがんばっている人の方です。できるだけ明るい話題を提供したいわけですから、自然とそうなります。それでは復興をあきらめている人たちはどうなるのか。「復興など無理だ、自分はあきらめている」、そういう言葉は口に出せなくなります。がんばっている人に水を差すことになってしまうからです。嘆きを心の中にしまっておくだけで、とても口には出せない。復興という言葉の裏で、嘆きが消えるのです。

これは一つの例に過ぎないかもしれません。現代は嘆きの言葉を出すことが許されない雰囲気になっている。なんとか周りについていかなければならない。とても窮屈になっている。私たちも、このようなときにどのような言葉を口に出したらよいのか。どう嘆いたらよいのか。どう祈ったらよいのか。その言葉を失いかけているのかもしれません。

それに引き替え、聖書は嘆きの言葉が非常に多く収められています。聖書のイメージからすれば、慰めや励ましに満ちたような言葉がたくさんあるのかと思いますが、実は嘆きの言葉もたくさんあるのです。歴史的な悲劇に直面し、言葉を失うような状況の中で、聖書に出てくる者たちは嘆きの言葉をなんとか紡ぎ出しているのです。

旧約聖書の詩編は全部で一五〇の歌が収められています。一五〇の祈りと言ってもよい。そのうちで嘆きが収められている歌が、六十程あります。全体の約四割が嘆きなのです。実に多彩な言葉で詩人たちは嘆いています。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第八八編です。これは典型的な嘆きの歌と言ってもよい。嘆きばかりで、救いの光もまったく見えてこないかのような歌です。詩人はいったいどのような状況に置かれていたのか。はっきりとはわかりません。

まずこのように始めています。「主よ、わたしを救ってくださる神よ、昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります。わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。」(詩編八八・二~三)。このように呼びかけ、自分の悲惨な現状を訴えていきます。「苦悩に目は衰え、来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び、あなたに向かって手を広げています。」(八八・一〇)。

神に対して「なぜ」という問いかけを何度もします。「主よ、なぜわたしの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。」(八八・一五)。最後はこう終わります。「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(八八・一九)。暗闇の中に捨てておかれる。何の救いもない。それで終わりです。

今日の聖書箇所ではありませんが、旧約聖書に哀歌という書があります。エレミヤ書に続くもので、バビロン捕囚による悲惨な現状を嘆いている、哀しみの歌です。これも何の希望もなく終わっているような書です。「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました。」(哀歌五・二二)。

私たちが用いる聖書は、このような終わり方をしています。希望なき終わり方ですが、一応、文章としては完結されているように訳されています。しかし元のヘブライ語では、突然そこでページが引き裂かれてしまったかのような、不協和音のまま終わっているのです。ある聖書学者がこのように訳しています。「もし本当にあなたが私たちをお見捨てになられ、激しく私たちに憤られているとしたら…」。仮定文のままそこで終わる。演奏が突然そこで途絶える。そんな終わり方をしているのです。

詩編第八八編にしても、哀歌にしても、人間が嘆きっぱなしであるかもしれません。何の答えも少なくともその部分だけでは見いだせない。けれども、これも大事なことだと思います。答えが出ない。しかしその中で嘆きすら口にできないのではなく、きちんと嘆くことができる。嘆くことだけができる。これはとても重要なことです。聖書は、嘆きを排除しているのではありません。私たちに嘆かせてくれる、そういう聖なる書物なのです。

私たちもそのように聖書に則ってきちんと嘆く。嘆いた上で、いや、嘆きつつと言った方がよいと思いますが、祈るべきことを祈っていく。聴くべきことを聴いていく。信ずべきことを信じていく。そのような歩みをすることができるのです。

ヨハネによる福音書に戻りますが、ラザロの死に直面し、姉妹であったマリアとマルタ、そのほか多くの人たちがきちんと嘆いています。そのことがはっきりと書かれています。第一一章の少なくとも中盤は、ラザロの死を前にしての嘆きが記されています。

マルタも嘆きました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(一一・二一)。マリアも嘆きました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(一一・三二)。姉妹揃って同じ言葉で嘆いています。その他にも多くの人が涙を流し、嘆いていました。それだけ大きな悲しみをもたらした死だったのでしょう。

主イエスはこの死の嘆きのただ中に、ラザロのところに到着をされました。主イエスはラザロのところへ行くのを遅らせました。なぜ遅らせたのでしょうか。理由は書かれていませんので分かりません。しかし嘆きのただ中に到着されたのは事実です。主イエスは嘆きの中に飛び込まれます。

それだけではありません。今日の箇所の一四節にこうあります。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう。」(一四節)。主イエスは「よかった」と言われています。なんと「よかった」です。かつての口語訳聖書では「喜ぶ」となっていました。私がいなくてよかった、そのことを喜ぶ。主イエスはそう言われているのです。主イエスはなんということを言われているのか、そう思われる方もあると思います。驚くべきことです。私がいなくてよかったねと言われるのです。

なぜこんなことを言われているのでしょうか。理由がはっきりと書かれています。「あなたがたが信じるようになるためである」(一四節)。不信仰が不信仰のままで終わるのではない。信じるようになる。嘆きが嘆きのまま終わることがない。死が死のまま終わることはない。眠りから目覚める。主イエスはそのことをよかったねと言われる。そういう意味で喜ぶと言われているのです。

私たちの教会とも親しい交わりをしてくださっている先生が、昨年、伝道者でもあったお連れ合いを亡くしました。その際に、いろいろなところから慰めの言葉があったそうですが、先生が最も慰められた言葉がドイツから届きました。少し長いですが、お読みしたいと思います。

「悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再びみ手に取られ、こう呼びかけてくださるためです。「起きなさい、甦りの朝だよ!」と。

だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、あの静かな仕方で、あなたの傍らにいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたを独りぼっちでこの世に遺していってしまったことは。長く共に生きました。一緒にいて幸せでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも、心に食い込みます。

あなたに神の慰めが降ってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの、仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますね。キリストの甦りのメッセージがあなたを捉え、この厳しいときに、励ましてくださいますように。

あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころから挨拶を送ります」。

この先生は、自分が一番慰められたメッセージを、私たち牧師に紹介をしてくださいました。「われわれもこういう言葉を語りたいと深く思います」と合わせて言われました。その通りだと思います。「起きなさい、甦りの朝だよ!」、神がそのように言ってくださるのだ、私たちもそう言うことができます。

しかし言えるのはそれだけではなく、嘆きの言葉もたくさんこのメッセージの中にはあります。愛する者を失い、どう嘆いてよいか分からない本人に対して、嘆きの言葉を代わりに与えている。そういうメッセージでもあるのです。

マリア、マルタも嘆きました。しかしその嘆きが喜びに変えられました。ラザロは死にました。しかしその眠りからの目覚めが与えられました。弟子たちは不信仰であったかもしれません。しかし信仰が与えられました。主イエスはすぐにはラザロのもとに行きませんでした。到着したのは四日後でした。そのことがよかった、主イエスはそう言われます。嘆きが喜びに変えられたのです。

ラザロの復活の出来事を引き金にして、主イエスの十字架の出来事がこれから起こって行きます。もう間もなくです。ラザロの死を、いや、ラザロだけではなく、すべての人の死を代わりに引き受けるために、主イエスが十字架にお架かりになります。嘆きのただ中に赴かれたように、主イエスは死のただ中にも赴かれます。そしてすべての死を引き受け、嘆きを喜びに変えてくださいます。

夜から朝へ。それが聖書に書かれていることです。詩編には夜の詩編もたくさんあります。夜、嘆いてばかり。聖書は嘆かせてくれます。嘆きたいだけ嘆けばよいのです。聖書は言葉にならない私たちの嘆きの言葉を与えてくれます。しかしそのままでは終わりません。嘆きでは終わらない。死は死のままで終わらない。死は眠りであり、甦りの朝が必ずやって来ます。「起きなさい、甦りの朝だよ!」、神がそのように言ってくださいます。私たちはその信仰に生きることができるのです。