松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年10月25日(日)
説教題「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第10章7〜18節

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

旧約聖書: エレミヤ書23:1~4

松本東教会では、年に数回『おとずれ』を発行しています。私の説教や教会の様子などが記されており、教会員の皆様や関係者に読んでいただいています。この『おとずれ』が思わぬ形で用いられることがあります。先日、『おとずれ』に関して、お手紙をいただきました。

『おとずれ』の最新号であります二六〇号の巻頭の説教は、「罪の奴隷か、真理による自由か」という説教題でした。聖書箇所は、ヨハネによる福音書第八章三一~三八節です。特に「真理はあなたたちを自由にする」(八・三二)という主イエスのお言葉がありました。この言葉をめぐって、国立国会図書館に刻まれている文字の話をしました。その文字とは「真理がわれらを自由にする」という言葉です。この言葉が、国立国会図書館の受付カウンターの上のところに記されています。

そのときの説教の繰り返しになりますが、この言葉を刻もうと立案したのは、羽仁五郎という人です。友の会の創設者、羽仁もと子の長女である説子の婿となった人です。国立国会図書館の立ち上げにかかわり、聖書の主イエスの言葉「真理はあなたたちを自由にする」を少しだけ変えて、「真理がわれらを自由にする」という文言を刻む計画を立てました。

羽仁五郎は、戦争中、日本国民はほとんど情報を知らされず、無知であった。それゆえ奴隷であった。しかし今後は国民が様々な情報を知り、無知であり、奴隷であった過去の時代を永久に批判して欲しい。その願いを込めて、国立国会図書館に「真理がわれらを自由にする」という文言を刻みました。そのすぐ横に、ヨハによる福音書第八章三二節の聖書の原文の言葉も刻まれた。「真理はあなたたちを自由にする」のギリシア語の言葉です。

ここまでが『おとずれ』に記した説教の内容です。先日、『おとずれ』を読んだ方からお手紙をいただきました。その方のお世話になった知り合いの方で、国立国会図書館の職員だった方がいます。その方から、ギリシア語の文字が刻まれたいきさつについての文章をいただき、詳しく知ることができました。こういういきさつです。

まず初めに、羽仁五郎立案の「真理がわれらを自由にする」という日本語の文言が左側に刻まれることになった。最初はこの計画だけだったようです。ところが建築の最中、工事の担当者から、バランスが悪いので、右側にも横文字を入れたらどうかという提案を受けます。国立国会図書館の建築部の部長がキリスト者でした。国立国会図書館には創立からずっと聖書研究会が今でも存続しているようですが、キリスト者の方が当時も多かったようです。右側のところには、聖書の原文のギリシア語が刻まれることになった。

そこで、この方のところに「ヨハネ伝八章三二節の『真理が汝らを自由にする』をギリシア語の大文字で書いてください」という依頼がありました。そこですぐにギリシア語の聖書を取り出し、小文字であった聖書の言葉を大文字にして書き出した。しかしその際に気になることがあった。左側に書かれる予定である日本語の文字は、「真理がわれらを自由にする」です。「われら」です。聖書原文では「真理はあなたたちを自由にする」です。その違いが気になった。しかし聖書からギリシア語を書きだすにあたり、聖書本文を訂正する勇気もなく、原文のまま書き出した。そして原文のままのギリシア語が右側に記されることになった。だから左側が「真理がわれらを自由にする」、右側が「真理はあなたたちを自由にする」となったのです。

そのような丁寧なお手紙をいただき、その事実を知ることができました。『おとずれ』が思ってもみなかった形で用いられ、感謝しています。国立国会図書館に刻まれたギリシア語は聖書原文の言葉のまま記されました。聖書の言葉に対する畏れが、そのような結果にさせたと言えるでしょう。

聖書にはいろいろな翻訳があります。日本語でもいろいろな翻訳の聖書があります。しかしやはり聖書の原文が大切になります。原文はギリシア語であり、もちろん主イエスが使われていた言語ではありません。主イエスはアラム語と呼ばれる言葉を話されていました。しかし私たちにとって、聖書の元の言葉が何よりも重要です。聖書から私たちは主イエスの言葉を聴き取るのです。聖書から、そして聖書の説きあかしである説教から、私たちは主イエスのお言葉を聴き取ります。

日本語に翻訳をする際に、訳された日本語が元のニュアンスをきちんと表現しているのか、そのことが問われます。例えば、先ほどのヨハネによる福音書第八章三二節「真理はあなたたちを自由にする」という言葉でしたが、「真理があなたたちを自由にする」と訳している聖書もあります。羽仁五郎は「真理がわれらを自由にする」と左側に刻みました。「は」と「が」の違いがあります。日本語としてはどちらも同じ主語を表すわけですが、「は」と「が」では意味が少し異なるところがあります。

例えば、子どもが迷子になった際に、親が自分のところの子どもあると名乗り出る。その際には「わたし『が』親です」と言うでしょう。「わたし『は』親です」と言うと、一般的な話として、わたしには子どもがいて、わたしは親だ、という意味合いになります。しかし「わたしが親です」と言う。わたしがその子の親です。わたしこそがその子の親です。そういう意味になります。

私が教会学校の教師になりたてだった頃、こんなことがありました。夏期キャンプのテーマについて、教師たちで話し合っていました。今年のテーマとして、ヨハネによる福音書第一四章六節にある「わたしは道であり、真理であり、命である」をテーマの聖句にしようということになりました。

そのときに、ベテランとも言ってよい教師が、このように言いました。「わたしは道であり、真理であり、命である」という日本語になっているが、「わたしが道であり、真理であり、命である」と理解したい。「わたし『が』」という言葉を大切にしたいのだ、そのような意見が出されました。そのときのことをよく覚えています。わたしこそが、道であり、真理であり、命なのだ。主イエスのお言葉をそのように理解するということでしょう。

本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、「わたしは…である」という表現があります。「わたしは羊の門である」(七節)。「わたしは門である」(九節)。「わたしは良い羊飼いである」(一一節)。「わたしは良い羊飼いである」(一四節)。このような「わたしは…である」という表現がたくさん現れることは、ヨハネによる福音書の一つの大きな特徴です。

元のギリシア語で「わたしは…である」という部分は、“エゴー エイミー”という言葉です。“エゴー”という言葉は、英語で言えば“I”です。“エイミー”という言葉は、英語で言えば“am”なのですが、実はこの“エイミー”だけでも“I am”(「わたしは…である」)という意味を持っています。つまり“I”(「わたし」)という言葉が二回重ね合わさった表現になっていて、強調されているのです。「わたしこそが…である」と訳した方が、もしかしたらよいのかもしれません。

主イエスは今日の聖書箇所で言われます。わたしこそが門であり、わたしこそが良い羊飼いである。本日、私たちに与えられた聖書箇所は、七節から一八節です。来週は改めて七節から始め、二一節までをお読みしたいと思います。来週は特に一六節にあります囲いの外にいる羊を導くことを中心にして、御言葉を聴きたいと願っています。

今日は「わたしは門である」(七節、九節)と「わたしは良い羊飼いである」(一一節、一四節)に注目をしたいと思います。この前の説教のときに、与えられた聖書箇所は一節から六節まででありましたが、そのときに七節から九節も視野に入れて、主イエスが羊の門であり、また良い羊飼いであるという話をしました。説教が終わり、さっそくそのことで質問を受けました。主イエスが一方では門だと言われる。他方では良い羊飼いだと言われる。この二つをどう調和させて理解したらよいかという質問です。

そのときにもお答えはしたのですが、その後、ある説教者の説教を読んでいて、こんな話が書かれていましたので、ご紹介したいと思います。羊の囲いがあります。その囲いの一か所だけ空いているところがあって、そこが門になります。そこにはどのような門があるのか。もちろん、いろいろな門があるでしょう。頑丈な門であったり、簡易的な作りの門かもしれません。

ところがその説教者は、門らしい門はなかったのではないかと言います。私たちが想像するような門はなく、そこはただ囲いの切れ目であって、何もなかった。しかし夜になると、羊を囲いの中に入れて、その切れ目のところで羊飼いが過ごすのです。寝ずの番をするためにずっと立っているか、あるいは座ってそこでウトウトするか。その説教者はそこで寝そべっていたとも言っています。羊が外へ出ていこうとするならば、自分を乗り越えていかなければなりませんので、必ず気付く。狼などの外敵が侵入しようものなら、自分のところを通りますので、必ず気付く。このような話をある説教者が紹介してくれています。この話を聴くと、まさに羊飼いが門であることが分かります。

もちろん実際、羊の囲いのところにある門が、どのような門だったのかはよく分かりません。門があったのか、なかったのかもよく分かりません。しかしこのようにイメージした方が、主イエスの話をよりよく理解することができると思います。羊飼いは命を懸けて、門の役目を果たし、羊を養っていたのです。

主イエスは羊の門であり、よき羊飼いである。それと対比されて、本日、私たちに与えられた聖書箇所には、「盗人」(八節)、「強盗」(八節)、「雇い人」(一二節)という人たちが出てきます。違いはいったい何でしょうか。盗人や強盗は前の聖書箇所にも出てきました。第一〇章一節にこうあります。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」(一〇・一)。また一〇節前半にもこうあります。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」(一〇節)。

雇い人については一二節から一三節にかけてこうあります。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」(一二~一三節)。主イエスはこういう偽の羊飼いとは違う、本物の羊飼いであると言われます。

イスラエルの人たちは、羊飼いのこと、羊のことをよく知っていた人たちです。しばしば自分たちのリーダーを羊飼いに譬えることがありました。自分たちがその羊飼いに養われている羊ということです。例えばダビデ王もそうです。しばしばイスラエルのよき羊飼いとして譬えられました。サムエル記下の第五章一~五節をお読みいたします。

「イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。」(サムエル記下五・一~五)。

また、エゼキエル書第三七章二四節にこうあります。「わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。」(エゼキエル三七・二四)。

これらの箇所のように、ダビデのような良き王が現れ、良き羊飼いとしてイスラエルを治めたのです。ところが、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のエレミヤ書ではこうあります。「「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。」(エレミヤ書二三・一)。良い羊飼いではない、盗賊、強盗、雇い人のような王が出てしまったのです。

エレミヤ書第二三章は、第二二章からの続きです。「ヨシヤ」という王の名前が出てきます。この王は良き王であり、預言者エレミヤもこの王に期待しているところがありましたが、改革半ばにして戦死をしてしまう。その後を継いだ王、ヨアハズも、その後のヨヤキム、ヨヤキンも、三代にわたって悪しき王が続いてしまいます。第二三章の冒頭で「羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」とは、このような王のことを指しています。

そして主なる神ご自身が、羊の群れを養うと言われます。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。」(エレミヤ書二三・三)。そう言われながらも、続く四節では「彼らを牧する牧者をわたしは立てる。」(二三・四)と言われます。いったいこの牧者とは誰か。五節と六節の内容から、私たちにはこの牧者が良い羊飼いと言われた主イエスであるとしか考えられない。神が主イエスを良き羊飼いとして、牧者として私たちに与えてくださるのです。

ヨハネによる福音書に戻りますが、一一節のところにあるように、良い羊飼いは羊のために命を捨てるのです。今日の聖書箇所に「命」という言葉が何度も出てきます。一〇節の後半に「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とあります。ここでの「命」は、ギリシア語ではゾーエーという言葉です。これに対して、一一節、一五節、一七節でも「命」が出てきます。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(一一節)。「わたしは羊のために命を捨てる。」(一五節)。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」(一七節)。これらはプシュケーというギリシア語です。すべて主イエスが十字架で捨ててくださる「命」のことを言っています。

この違いに注目をしている説教者がいます。プシュケーとは、つまり主イエスが十字架で捨ててくださる「命」という言葉は、どちらかといえば、私たちが普通に考えている命のことを指しています。主イエスがプシュケーを捨ててくださる。そうすると私たち羊にゾーエーが与えられる。このゾーエーという言葉は、救いの命のことを表していて、たとえば「永遠の命」といった場合には、ゾーエーという言葉が使われます。私たちが生き生きと生きる命のことであり、永遠の命につながる命のことです。

主イエスがご自分の命を捨てるほどに私たちを愛してくださる。羊にとって、この羊飼いほど有り難い存在はありません。この羊飼いは自分たちのために命を張ってくれるのだ。その信頼関係に生きることができます。

小さな子どもは親に対する信頼に生きています。その信頼はどこから生まれてくるのでしょうか。親が子どものために死んでくれる、そんな親もいるかもしれません。死んでくれるとまでは言えなくても、親が自分自身よりも子である私のことを大事にしてくれる。このように感じている子どもは幸いです。その子どもは親への信頼に生きることができます。

親はプシュケーを、命を、魂とも訳せるのですが、魂を子のために尽くす。その親のもとで、子はゾーエーを、命を得て生き生きと生きる。それが良い親子関係であり、良い羊飼いと羊の関係もまたそうであります。主イエスがそう言われるのです。

私こそ、良い羊飼いだ。盗人のようではなく、強盗のようでもなく、雇い人のようでもない。良い羊飼いである主イエスは羊のために命を捨ててくださいます。今日の聖書箇所の一八節にこうあります。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(一八節)。

主イエスの十字架がなぜ起きたのか。なぜ主イエスは命を捨てなければならなかったのか。人間が邪魔者であった主イエスを十字架につけた、それも十字架の一つの側面かもしれません。しかし主イエスご自身はそうは言われない。私は自ら命を捨てると言われます。自分の意志で、羊を愛するゆえに、命を献げると言われます。羊たちの罪を背負い、十字架で命を捨ててくださる。それによって私たちは罪赦されたのです。そのようにして羊である私たちが命を得ることができる。しかも豊かに得ることができるのであります。