松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年11月15日(日)
説教題「出来事によって信仰を持つ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第10章31〜42節

ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

旧約聖書: 出エジプト記14:5~31

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初に、こうあります。「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」(三一節)。なぜこのようなことをしようとしたのでしょうか。先週の聖書箇所になりますが、先週の説教で触れることができなかったのは、二九~三〇節にかけてです。むしろ今日の聖書箇所と合わせて読んだ方がよいと思われる箇所でもあります。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(一〇・二九~三〇)。

父と子、つまり父なる神と主イエスが一つである、等しい者である、そういうことが言われていますが、ユダヤ人たちはその言葉に敏感に反応したのです。今日の聖書箇所でも、こう続いていきます。「すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」」(三二~三三節)。

なぜユダヤ人たちはこんなにも敏感に主イエスの言葉に反応したのでしょうか。それは、ユダヤ人たちは決して人間を神にはしないからです。神ではないものを神にはしないのです。旧約聖書のレビ記にこうあります。「神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。」(レビ記二四・一五~一六)。人間に過ぎないのに自分のことを神と言う。神に等しい者であると言う。これは神に対する冒涜でした。それゆえにユダヤ人たちは石を取り上げて、主イエスに投げつけようとしたのです。

人間なのに神のようになろうとすること、これはユダヤ人たちが言っているように、大きな罪であります。イスラエルの人たちに神から与えられた大事な戒めである「十戒」の中にも、偶像を刻んではならないとあります。神でないものを神としてはならないということです。なぜここまで厳しく言われているのでしょうか。

例えば、国家を治める王が、自分は神である、神の化身であると言うことがよくあります。自分を神とする制度を作り上げるのです。しかしその王も人間としてはやがて死ぬことになります。その王国もまた、やがては滅んでいきます。人間が造ったものは必ず滅びるのです。たとえ今、力を持っているように思えるものでも、必ず廃れていきます。

日本においてもそうです。本来は神でないものが神になる。そこに混乱が生じ、荒廃が生じ、滅びが生じてしまいました。神でないものが神になろうとする。それは些細なことではありません。人間も、人間社会も、行きつくところは悲劇です。神でないものは、必ず倒れてしまうのです。だからこそ、そのことが厳しく戒められているのです。

それとは反対に、神を信じる、神が神であることを認めるということは、自分が人間であるということを認めることです。決して神のようになろうとはしない。自分には限界があるということをわきまえるのです。傲慢ではなく謙虚になるのです。自分は神ではなく、人間である。そうなれば、生き方が自ずと変わってきます。ここに人間らしい、そして人間として幸いに歩む生き方があるのです。神を冒涜してはならない、偶像を刻んではならないという戒めには、私たち人間としての幸な生き方が含まれているのです。

ユダヤ人たちからの非難に答えて、主イエスは三四節のところでこう言われています。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。」(三四節)。

このところで主イエスが引用されているのは、旧約聖書詩編第八二編の言葉です。それほど長くはありませんので、詩編第八二編をお読みしたいと思います。

「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる。「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか。弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず、闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。わたしは言った。「あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。」(詩編第八二編)。

確かにこの詩編の中で、「神々」という言葉が出てきます。しかしこの「神々」は、本当の神のことではなく、偶像の神ではなく、人間であることが分かります。その人間である人たちが「神々」として裁きを行う。しかしその裁きが、不正な裁きになっています。二節から四節にある通りですが、弱い者たちの味方をせず、不正な裁きをしている。そのような不正な裁判官たちに対して、あなたがたは「神々」などと言われているけれども、人間として死ぬのだ、没落するのだと言われている。結局のところ、最後のところで、「神よ、立ち上がり、地を裁いてください」と願うことになります。

主イエスはこの詩編第八二編を引用なさいました。その引用の意味は深いと思います。ヨハネによる福音書に戻りますが、三五~三六節で主イエスはこう言われています。「神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」(三五~三六節)。

主イエスがまず言われていることは、旧約聖書詩編第八二編に人間が「神々」と言われているではないか。だから私が「神の子」と言っても何の問題もないではないか、主イエスはまずそう言われるのです。しかしそれだけではなく、主イエスは詩編第八二編を引用しながら、こうも言われるのです。あなたがたが石を手にして私に投げようとして裁きをしようとしている。あなたがたの裁きは「神々」としての不正な裁きではないか。そのようにも言われているのです。

ユダヤ人たちは今日の聖書箇所で主イエスに石を投げようとしました。しかしこれは初めてのことではありません。第八章五九節にもこうあります。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」(八・五九)。このときもやはり同じようなことが引き金となって、主イエスに石が投げられようとしてしまいます。この他にも、主イエスに対してではなく、第八章の最初のところで、姦通の罪を犯した女に対しても、石が投げられそうになります。

石を投げる。人を裁くということです。最近のヨハネによる福音書からの説教をお聴きになられている教会員の方から、こんな感想がありました。「自分がイエスさまの時代に生まれていなくてよかった」。なぜか。それは、「もしイエスさまの時代に生まれていたなら、自分も石を投げる側にいただろうから」ということでありました。それは正直な感想であると思います。私たちも、本当のところはよく分からないのに、相手を裁いてしまうことがあります。自分の常識や判断基準に照らし合わせて、自分がまるで神になったかのように「神々」として相手を裁いてしまうことがあります。いつでも私たちは石を手にしてしまうのです。

今日の聖書箇所では、主イエスはユダヤ人たちの手を逃れましたが、やがて、主イエスは石を投げられることによってではなく、十字架にお架かりになります。このような人間の「神々」による不正な裁きによって、十字架に赴かれたのです。

それでは私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにすれば、不正な「神々」にならず、石を捨てることができるでしょうか。主イエスは続く箇所で言われます。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」(三七~三八節)。

主イエスは「業」という言葉を使われています。主イエスが行った様々な出来事ということです。その出来事が果たして父なる神に由来するものなのかをよく見極める。もしそうならば、主イエスと父なる神が一つであることが分かる。そのような出来事を通して、見えてくるものがあるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記の第一四章です。イスラエルの民が、モーセに率いられて、エジプトでの奴隷生活から抜け出したばかりのところでしたが、民は恐れからモーセに不満を言います。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」(一一~一二節)。

それに対してモーセが言います。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(一三~一四節)。モーセがここで言っていることは、見なさいということ、それから静かにしていなさい、つまり聞きなさいということです。見なさい、聞きなさい。

その結果がこうです。「主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。」(三〇~三一節)。

この出来事から、神を信じるとはどういうことなのか、そのことが分かってきます。神を信じるために、勉強を熱心にしなければならないというわけではありません。もちろん、熱心に聖書を読む、説教を聴くというのは、大事なことですが、知識を得ることによって、信仰が得られるかといえば、そうではありません。

大事なのは、出来事を通して信仰を得ることです。出エジプトの出来事を通して、神に対し、モーセに対して不平、不満ばかりだったイスラエルの民が信じるようになりました。主イエスの奇跡の出来事とはいったい何を意味しているのか。目が見えなかった人は見えるようになり、信仰を得ました。これから起ころうとしている主イエスの十字架と復活の出来事はいったい何を意味しているのか。教会に起こっている出来事はいったい何を意味しているのか。自分の身に起こっている出来事はいったい何を意味しているのか。大事なのは、それらの出来事に目を留めることです。

出来事という言葉を使っていますが、聖書では「業」という言葉が使われています。出エジプト記でも「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。」(三一節)とあります。ヨハネによる福音書でも「業」という言葉が何度も使われています。複数形の言葉です。主イエスがなさったもろもろの業によって、信じなさい。主イエスはそう言われているのです。

クリスマスが近づいてきました。クリスマスに向けての準備も、少しずつ進められています。すでにチラシが出来上がりました。様々なところにも、クリスマスの情報が載せられています。そんなこともあり、クリスマスに関するお問い合わせを、すでに何件かいただいています。先日はこんなお問い合わせがありました。自分の子どもに、クリスマスの本当の意味を教えたいのだけれども、どうしたらよいかということでした。私は一二月一二日の土曜日に行われる「こどもクリスマス」に来ることを奨めました。

こどもクリスマスでは毎年、クリスマスの劇を行います。やっている方としては、毎年、同じ劇をするということになるかもしれません。しかし大人の私たちも、毎年、クリスマスの話は説教や聖書を通して聴いているのです。そのように私たちは、子どもも大人も、皆がクリスマスの話に触れていく。

聖書が伝えているクリスマスの話は、私たち人間がまったく予期していなかった話です。神の御子がお生まれになる。神が人間として生まれになる。クリスマスの話に出てくる登場人物で、誰一人そのようなことを予想していた人はありません。

マリアもヨセフも、結婚を控え、いろいろなことを思っていたと思いますが、まさか聖霊によってマリアが身ごもるとは、考えてもいなかったでしょう。羊飼いたちも、いつもと同じように羊の群れの番をしていた夜に、天使が現れ、救い主の誕生を知りました。東方の博士たちも、いつものように星の研究をしていた中で、ベツレヘムの星を見つけ、幼子イエスへとたどり着きました。ヘロデ王は自分に代わる王が誕生したと聞いて、心に不安を覚えました。誰もが思ってもいなかった形でクリスマスを迎えたのです。

神が人間としてお生まれになる。今まで誰も聞いたことのなかった話であり、想像さえしなかった話です。そんな話はクリスマス以外にはないのです。他に例がないのです。イエス・キリストの復活もそうです。他に主イエスのように復活をした例はないのです。ただ唯一の奇跡として、主イエスがクリスマスに来られ、イースターに復活をされたのです。

他にもたくさん事例があれば、私たち人間にとって分かりやすかったのかもしれませんが、他に例がありませんので、人間にはなかなか理解しがたいところがあります。実際にここでのユダヤ人たちも、理解することができませんでした。手に石を取って投げようとさえします。

しかし主イエスは言われるのです。私がなしたもろもろの業を見なさい。黙って、静かに、その業を見なさい、聞きなさい。そしてその業によって信じなさい。そうすれば、私が父から遣わされた神の子であることが分かる。主イエスはそう言われます。一足飛びに主イエスが神の子であることが分かるわけではありません。クリスマスならクリスマスの出来事を黙って、じっくり見てみる。教会に起こっている出来事を見てみる。私たちにも、身近に起こっている出来事がたくさんあります。つぶやきや不満を捨てて、黙って、見て、聞いて、信じるのです。

そのような形で、信仰へと導かれた人たちの例が、今日の聖書箇所の四〇~四二節に記されています。「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。」(四〇~四二節)。

私たちが想像する以上に、主イエスの周りには、洗礼者ヨハネとかかわりを持った人たちが多かったようです。ヨハネによる福音書の第一章では、もともと洗礼者ヨハネの弟子だった人が、主イエスの弟子になっている場面があります。いわば師匠を鞍替えした人です。その他の人たちも、洗礼者ヨハネと何らかのかかわりがあったかもしれません。

ヨハネによる福音書第一章二六~二七節に、洗礼者ヨハネ自身の言葉が記されています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(一・二六~二七)。この言葉に呼応するようにして、第一〇章の終わりで、洗礼者ヨハネのことが出てくるのです。あの洗礼者ヨハネの言葉は本当だった、と。聖書学者によっては、この第一〇章で前半部分が完結し、後半の十字架へ向かっていると言っている人もいるくらい、ここで一つの区切りを迎えます。

洗礼者ヨハネにかかわる人たちは、皆、主イエスの業を見てきました。四一節では「しるし」となっていますが、「業」と同じことです。主イエスの業を見てきた、聞いてきた。そして「多くの人がイエスを信じた」(四二節)のです。聖書に記されているクリスマスの出来事も、主イエスがなさった奇跡も、お語りになった教えも、十字架の出来事も、復活の出来事も、すべて主イエスが神の子であることを証ししているのです。そのもろもろの業を通して、私たちは神の子を信じるのです。

ヨハネによる福音書が書かれた目的が、この福音書の最後のところに記されています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(二〇・三〇~三一)。主イエスが「神の子」であることを信じてもらうために、この福音書が書かれました。この福音書から御言葉を聴いている私たちが、絶えず思い起こさなければならない言葉です。

クリスマスを迎えようとするこの季節、願わくば多くの者たちが「神々」となることをやめて、主イエスのもろもろの業によって、主イエスが「神の子」であることを信じることができるように。そして命を得て、喜びの季節を迎えることができますように。